コンクリートの割れ目から咲いたパラのことを         聞いたことがあるだろうか.? ■■■  ■         ■         自然の法則が間違つてい蕎ことを証明するように         足がなくても歩むことを覚えたんだ         おかしなことかもしれない でも夢を持ち続けることで         新鮮な空気を吸うことを覚えたんだ                「コンクリートに咲いたバラ」 トゥパックーシャクール/作詞 づ 誰もがヽ内に可能性を秘めている・ 口 九 それをいかにして解き放つかI  一九九一年春の、まだ肌寒いある週末、アメリカで最も鋭敏な知性を持つ若者たちが、デト ロイト郊外のホテルに集結した。所定の席を探す生徒たちのざわめきで満ちていた会場が、対 戦開始の時計の針が動き出した瞬間、水を打ったように静まり返る。聞こえるのは、ただ秒針 の刻む音のみ。すべての視線が、白と黒のマス目が並ぶ盤上へと注がれている。全米中学生 チェス選手権が、今まさに始まろうとしていた。  過去にこの大会を制覇してきたのは、決まって一流の私立学校や、英才教育を行なうマグ ネットスクール(特定の分野に優れた教師やリソースを集中させることで、より質の高い教育 を提供する)のチームであった。これらの学校は資金力が潤沢で、チェスを正規のカリキュラ ムに組み込んでいる。前回の優勝校であるダルトン校は、ニューヨーク市にある私立の名門進 学校であり、三回連続で全米一位の座に輝いていた。  ダルトン校は、オリンピック選手のトレーニングセンターさながらの、チェスに特化した授 業を行なっていた。併設の幼稚園では園児全員が一学期間、そして小学校一年生は一年間にわ たりチェスを学ぶ。中でも特に優秀な児童生徒は、始業前と放課後に、全米川指のチェス指導 者から特別な指導を受けるという特権を得る。ダルトン校の伝説的なプレイヤーといえば、天 才児ジョシューウェイツキンである。一九九三年に大ヒットした映画「ホビー・フィッシャー を探して」は、彼の体験談を基に制作された。一九九一年の大会には、ジョシュや他のスター 選手たちは参加していなかったものの、それでもなお、ダルトン校の強豪チームとしての地位 は揺るぎなかった。  一方、レイジングールークスを優勝候補と見る者は、誰一人としていなかった。緊張した面 持ちでホテルへ入ってきたレイジングールークスのメンバーたちに、周囲の視線が集まった。 裕福な家庭に育った白人の対戦相手たちとは、およそ共通点が見当たらない。レイジングー ルークスは、黒人男子生徒六名と、ラテン系とアジア系の生徒各一名から成る、有色人種のグ ループであった。皆、家は貧しく、ほとんどが一人親で、母親か叔母か祖母に育てられていた。 彼らが住む地域は麻薬や暴力、犯罪が蔓延し、家庭の年収は、ダルトン校の授業料にさえ満た ないほどだった。  レイジングールークスのメンバーは、ニューヨークの(Iレム地区にあるJHS四十三とい う公立中学校の二年生と三年生たった。ダルトン校の選手たちが十年にも及ぶ厳しいトレーニ ングを積み、数多くの公式戦で結果を出してきたのとは対照的に、レイジングールークスの 面々には、そのような豊富な実績は皆無であった。メンバーの中には、六年生になって初めて チェスに触れた者も数名いた。チームキャプテンであるケサーンーヘンリーは、十二歳の時に チェスを始め、公園で麻薬の密売人たちを相手に腕を磨いたという。  全米中学生チェス選手権の団体戦は、少し特殊な採点方式を採る。各チームは、メンバーの うち上位数名の成績だけを合計し、チームスコアとする。つまり、下位の選手のスコアは切り 捨てることができるのだ。ダルトン校のような多くの選手を擁する大規模なチームは選手層が 厚い。たとえ数人が不調でも、他の好成績の選手でカバーできる。チームとしての痛手は少な い。しかし、レイジングールークスは、団体戦に出場できるぎりぎりの人数しかいない。誰か 一人のスコアを切り捨てる余裕などなかった。まさに、一枚の捨て駒もない状態だ。たった一 つの敗北が、チームの命運を左右する。優勝を狙うには、メンバー全員が、白身の持てる力の すべてを出し切り、最高のプレイをするしかなかった。  レイジングールークスは、幸先のよいスタートを切った。序盤戦で、チームで最も実力が低 いと見なされていた選手が、格付けで数百ポイントも上位の相手に対し、番狂わせの勝利を収 めたのである。残りの選手たちもまた、内に秘めた底力を発揮し、次々と経験豊富な強敵を打 ち破っていった。参加した六十三チームのうち、彼らは第三位で準決勝へと駒を進めた。  このまだ経験の浅いチームには、秘密兵器が存在した。コーチを務めていた若きチェスの名 手、モーリスーアシュリーである。ジャマイカからの移民であり、当時まだ二十代半ばであっ たモーリスは、「浅黒い肌の子どもは知的に劣る」という根深い偏見を覆してやろうと、固く 心に決めていた。  才能そのものは、神様が誰にでも平等に分け与えてくれるものだ。しかし、その才能を伸ば すためのチャンスとなると、話は全く別であるIモーリスは、白身の経験からそのことを痛 いほど知っていた。だからこそ、他の人々が気づかずに見過ごしてしまう、子どもたちが内に 秘めているかけがえのない可能性の光を見逃さなかった。そして今、彼は、あたかも荒れ果て たコンクリートの隙間から、美しいバラを丹精込めて育て上げようとするかのように、彼らに 向き合っていた。  しかし、選手権の決勝進出を賭けた重要なラウンドで、モーリスが見守る中、チームは崩れ 始めた。チームキャプテンのケサーンは序盤リードしていたものの、終盤で大きなミスを犯し、 引き分けに終わった。別の選手は、勝利まであと一歩というところで、相手にクイーンを取ら れ、痛恨の敗北を喫した。彼は泣き崩れ、対局室を飛び出していった。他の選手もまた、序盤 から容赦なく攻め立てられるのを見て、モーリスはいたたまれなくなり、会場を後にした。そ の対戦がすべて終了した時、レイジングールークスは第三位から第五位へと後退していた。  結果を変えることはできない。しかし、これからどうするか、その決断は常に自分たちでで きるはずだ。モーリスは、チームにそう語りかけ、彼らの心に再び火を灯そうとした。  確かに、ここから逆転優勝するためには、レイジングールークスは残る四試合すべてに勝ち、 しかも上位チームが敗れるという奇跡を待つしかない。しかし、この先、何があろうとも、レ イジングールークスが全米で指折りの実力を持つチームであることは既に紛れもない事実だ。 人々の記憶に残り、心を揺さぶるために、必ずしも優勝という結果が必要なわけではない。な ぜなら、彼らは既に、誰もが無理だと思っていた壁を次々と打ち破ってきたからだ。  チェスは、天才のためのゲームとされている。若くして一流となるプレイヤーは、盤面の配 置を瞬時に記憶し、状況を即座に分析し、数手先まで読み切るという、類稀なる才能の持ち主 で、しばしば神童と呼ばれる。大会を制覇するようなチェスチームを築き上げたいならば、ダ ルトン校のような方法を取るのが最適であると、大半の人々は考える。すなわち、天才児を集 め、幼少の頃から集中的に特訓を施すのである。  レイジングールークスのコーチであるモーリスが行なったことは、これとは全く逆であった。 彼は、時問を持て余していて、たまたまチェスに興味を持った中学生たちを集め、指導し始め た。生徒の一人は、クラスのいじめつ子たった。ほとんどの生徒は平均的な成績(B評価程 度)であり、とりわけチェスの腕前が優れていたから選ばれたわけではない。「チームには、 いわゆるスター選手などI人もいませんでした」とモーリスは当時を振り返る。  ところが、決勝ラウンドが始まると、レイジングールークスは驚くべき健闘を見せた。二人 の選手は、見事に対戦相手のキングを追い詰めた。そして、チームキャプテンのケサーンは、 自身よりも遥かに格上の選手と互角の戦いを繰り広げていた。  とはいえ、仮に彼が番狂わせで勝利を収めたとしても、それだけでは十分ではないことを、 ルークスのメンバーたちは理解していた。なぜなら、決勝ラウンドの最初の試合が、引き分け に終わっていたからである。  数分後、モーリスはロビーの向こう側から誰かが呼ぶ声を聞いた。 「アシュリーさん、アシュリーさん!」  最終戦で長い熱戦の末、ケサーンが劣勢を覆し、ダルトン校きっての有力選手を打ち破った のである。誰もが度肝を抜かれた。レイジングールークスは、最強と目されていたチームを下 し、同点優勝という快挙を成し遂げたのだ。選手たちは(イタッチを交わし、抱き合い、歓声 を上げた。  「勝った1・ 俺たちは優勝したんだ!」  (Iレムの、決して恵まれているとはいえない環境で育った子どもたちが、チェスを始めて からわずか二年という短期間で、全くの無名な存在から全米チャンピオンの座へと駆け上がっ たのだ。それは、まさに信じられない快挙だった。しかし、この物語における最大の驚きは、 誰にも期待されていなかった弱者が強者を打ち破った、というその事実だけではない。  むしろ、私たちが本当に目を見張るべきは、彼らが「なぜ」勝利できたのか、その理由その ものにある。なぜなら、全国制覇に至るまでの道のりで彼らが培ってきた様々なスキルこそが、 彼らのその後の人生において、単なるチェス王者の肩書きよりも遥かに価値のある、かけがえ のない財産となるからである。    「才能」より、「どれほど進歩できるか」  誰もが、内に可能性を秘めている。それをいかにして解き放つかI。  これこそが、本書で探求していく中心的なテーマである。  世の中には、「才能とは生まれながらにして与えられる特別なもので、努力してつくられる ものではない」と信じている人が非常に多い。この根強い思い込みがあるために、学校の成績 がずば抜けて優秀な子どもや、幼い頃からスポーツで並外れた才能を示す子ども、早くから音 楽の才能を開花させる子どもが、「天才」や「神童」としてもてはやされる。  しかし、偉業を成し遂げるために、必ずしもそのような「天才児」である必要はない。本書 における私の目的は、どのようにすれば私たちの誰もが、実現不可能に思えるような高い目標 を達成できるのか、その具体的な道筋を明らかにすることである。  「人間を真に進歩させる力とは一体何なのか」。組織心理学者として、私はこの根源的な問い の探求にこれまでの研究者人生の大半を捧げてきた。そして、人が秘めている潜在的な可能性 について私かこれまでの研究を通して得てきた知見は、もしかするとあなたがこれまで当たり 前であると信じてきたこととは、少しばかり異なるかもしれない。  かつて心理学者たちは、音楽、芸術、科学、スポーツなどで、ずば抜けた成功を収めた人々 を対象に、その成功の秘密を探るという、当時としては画期的な大規模研究に乗り出した。  広範囲にわたる対象者に綿密なインタビューを行ない、その対象者には、グッゲン(イム美 術賞の栄誉に輝いた彫刻家、国際的な名声を博すコンサートピアニスト、数々の権威ある賞を 受賞した数学者、神経学の分野で革新的な業績を上げた研究者、オリンピックのメダリストで ある水泳選手、世界ランキングの頂点に君臨するテニス選手といった錚々たる顔ぶれに加え、 彼らを支えた両親や教師、コーチも含まれていた。  そして、その研究結果は、心理学者たち自身をも驚かせるものであった。あれほどまでに偉 大な成功を収めた人々のうち、幼い頃から「神童」と称賛されていたのはごく一握りの、むし ろ例外に過ぎなかったからである。  著名な彫刻家で、特別な才能があると小学校時代に美術教師から指摘されたことのある者は、 一人としていなかった。九歳になる前に名のあるコンクールで優勝したことのあるピアニスト は数名いたものの、その他の者は、兄弟姉妹や近所の子どもたちよりも少し優れている、とい う程度であった。数学者や神経学者は、小中学校でおおむねよい成績を収めてはいたが、クラ スの優等生よりも抜きん出ていたわけではない。早くから素晴らしい記録を出した水泳選手は ほとんどおらず、大半は、地区大会で優勝した経験はあっても、州大会や全国レベルで勝利を 収めたことはなかった。そしてテニス界でも、キャリアの初期には、早々に敗退していた選手 がほとんどであり、地区大会で上位に食い込むようになるまでに数年を要していた。  やがてコーチの目に留まるようになった選手たちは、並外れた才能よりも、むしろ並外れた モチベーションの高さを評価された。そして、そのモチベーションは先天的なものではなく、 多くの場合、学ぶことは楽しいものだと教えてくれるコーチや教師のもとで、後天的に育まれ ていったのである。  「世界の誰かが習得できるものは、ほぼすべての人間が習得できるということだ」  と、その研究を主導した心理学者は結論づけた。 「ただし、そのためには、学ぶのに適した条件が整っている必要がある」と。  この「学びの条件」がいかに重要であるかは、近年の様々な科学的研究が明確に裏づけてい る。例えば、一般的に、数学や科学の新しい概念を理解したり、あるいは外国語の新しい単語 や文法を覚えたりするためには、少なくとも七回から八回程度の集中的な練習(セッション) が必要であるとされている。実際、ある大規模な研究では、小学生から大学生に至るまで、実 に数千人を対象に、この回数の反復練習を伴う学習が行なわれた。  予想通り、もっと少ない練習回数で優れた成績を収めた児童生徒や学生はいた。しかし、彼 らはのみ込みが早かったわけではなく、学習の進度は他の同級生たちと変わらなかった。  大きな違いをもたらしたのは、彼らが練習を始める時点で、既に他の大たちよりも多くの基 礎的な知識を持っていたという事実だった。関連する内容を既に理解していたために早く向上 した生徒もいれば、事前に親から教えられたり、独学で予習したりしていたために、有利なス タートを切った者もいた。違いを生み出す要因は、一見すると先天的な能力差のように思えて も、実のところは、適切な機会や、意欲、向上心であることが多いのである。  私たちは、人の潜在能力を判断する際、その大物の出発点、すなわち目に見える才能ばかり を重視するという、重大な過ちを犯しがちである。生まれ持った才能に過度に執着する世界に おいては、最も将来性のある大は、早期に頭角を現わす大であると思い込んでしまう。  しかし、才能が開花する時期は、偉業を成し遂げた人々においてさえ、千差万別である。私 たちが人々を、その最初の結果のみで判断してしまうならば、その人の内に秘められた真の可 能性は、永遠に眠ったままとなってしまうだろう。  ある人の出発点だけを見て、その人物が最終的にどこまで到達できるかを予測することはで きない。学ぶ機会を与えられ、学ぶ意欲をしっかりと持ち続ければ、たとえ実現不可能に思え るような高い目標であっても、達成することは誰にでも可能なのである。  潜在能力を判断する際に真に重要なのは、持って生まれた明白な才能の有無ではなく、その 大がどれほど進歩し得るか、という点なのである。私たちは、出発点という一点にばかり目を 向けるのではなく、ゴールへ至るまでの長く険しい道のりそのものにこそ、注目する必要があ る。  モーツァルトのように、幼い頃から並外れた才能を発揮する人間が一人いるのに対し、バツ (のように、進歩や才能の開花に比較的ゆっくりと時間を要する人間は、実は数多く存在する。 後者のような人々は、必ずしも生まれながらにして何か特別な、隠された超能力(スーパーパ ワー)を授かっているわけではない。  彼らが持つ才能のほとんどは、あたかも丹精込めて作物を育てるように、あるいは手づくり の品をこしらえるように、日々、地道な努力と経験を重ねることによって、自らの手で育み、 形づくっていくものなのである。大きな進歩を 遂げる人間が、最初から完成された天才である ことは極めて稀で、大半は、たゆまぬ努力に よってつくられた、いわぱ「後天的な天才」な のだ。  「才能は育てるものだ」というこの重要な視点 をないがしろにすれば、深刻な結果を招くこと になる。人が本来どれほどの知識を吸収し、ど こまでその才能を伸ばすことができるのか、そ の無限の可能性を、私たちはあまりにも低く見 積もってしまうのである。結果として、自分自 身や周囲の人々の可能性を、自ら制限してしま うことになる。狭いコンフォートソーン(快適 領域。ストレスや不安のない、心地よく過ごせ る環境や状態)にしがみつき、自らの可能性を 大きく広げるチャンスを逃してしまう。人々の 将来性を見過ごし、輝かしい未来へと続くはず の扉を固く閉ざしてしまう。そして、数えきれ ないほどの潜在的な可能性の芽を、知らず知らずのうちに摘み取ってしまうことになる。  私たちが自身の内に秘めた可能性を見出し、それを最大限に引き出すには、自分の限界を押 し広げる必要がある。しかし、進歩の目的とは、単に優秀になることだけではない。進歩し、 向上し続けることそれ自体に価値があり、それ自体が大きな成果なのである。  「向上するための方法」そのものを向上させるにはどうすべきか、私は後に詳しく説明するつ もりである。  本書の主眼は、「アンビション」(名声や権力への野心)ではない。「アスピレーション」(成 し遂げたいことそのものに対する強い願望や向上心)である。  哲学者アグネスーカラードは、アンビションとは「あなたが望む結果を獲得すること」であ り、アスピレーションとは「あなたが望む人物になること」と言っているが、全くその通りで ある。  どれほどの富を築くか、どれほど多くの肩書きを得るか、どれほど多くの賞を獲得するかは、 本質的な問題ではない。こうした「地位の象徴」は、必ずしも内面的な向上を促しはしない。 重要なのは、どれほど努力したかという量よりも、どれほど人間として成長したか、という質 である。そして成長のためには、考え方(マインドセット)はもとより、私たちが見過ごしが ちな、ある種のスキルが必要となる。    成長につながる「資質」と「人間性」  一九八〇年代の終わり、レイジングールークスが(Iレムでチェスを習い始めたのと同じ頃、 テネシー州は大胆な実験を行なった。七十九もの学校−その大半は貧困地区の学校−から、 無作為に選んだ幼稚園から小学校三年生までの一万一千人を超える児童を、様々なクラスに割 り当てた。  当初の目的は、小規模のクラスのほうが学びにより適しているのかどうかを調べることで あった。しかし、経済学者のラジーチェテイはある事実に気づいた。児童と教師が無作為にク ラスへ割り当てられるのであれば、そのデータを分析することで、クラス間の差異を生み出す 他の要因もまた特定できるのではないか、と。  チェテイは世界で最も影響力のある経済学者の一人であり、マッカーサー・フェロー・プロ グラムを獲得した研究者でもある。そして、優秀さと先天的な能力とは、一般に期待されるほ ど強い関連性がないことを、彼の研究は示唆している。  テネシーでの実験は、驚くべき結果を示した。幼稚剛のクラスの先生を見るだけで、児童の 将来の成功を予測できることを、チェテイは発見したのである。幼稚園の時の担任がたまたま 経験豊富な先生だった子どもは、二十五歳になるまでに、同級生たちを大きく上回る収入を得 るようになった。  チェテイと同僚研究者らは、担任が経験の浅 い教諭から経験豊富な教諭へと変わった場合、 児童の二十代になった時の年収が一千ドル以上 増加すると推算した。また、児童二十人のクラ スにつき、平均以上の経験を持つ教師が一人い るだけで、その子どもの生涯所得が三十二万ド ル増加するであろうという。  幼稚園教育が重要である理山は多々あるが、 受け持つ先生の経験値が児童の二十年後の収入 にそれほど明確な影響をもたらすとは、私は考 えてもいなかった。ほとんどの大人は、五歳の 頃のことなど、自分自身のことですら、おぼろ げにしか思い出せない。  なぜ幼稚園の先生がそれほどまでに重要なの か。多くの大がまず思い浮かべる答えは、経験 豊かな先生であれば、子どもたちの言葉や数を 理解する力(認知スキル)を効果的に伸ばして くれるから、というものだろう。確かに、質の高い早期教育は、その後の学習の確かな土台を 築く。実際、ある研究では、経験豊富な先生が担任であった子どもたちのほうが、幼稚園を修 了する時点での算数や読みのテストで好成績を収めたことが明らかになっている。しかし、興 味深いことに、その後の数年間で、彼らと他の子どもたちとの間の学力差は、次第に縮まって いくのである。  では、幼稚園の頃の担任が経験豊かな先生だった子どもたちが、その後、学力的には他の子 どもたちと差がなくなったにもかかわらず、成人期に至るまで持ち続けていた、彼らの将来を 左右するような「何か特別な力」とは一体何だったのか。その謎を解き明かすため、チェテイ のチームは、別の可能性のある要因へと目を向けたのである。そこで、小学四年生と中学二年 生の時、担任教師に子どもたちの他の資質を評価してもらった。例えば、次のような性格特性 である。 ・積極性  ‥どれくらい自発的に質問や発言をしたか。また、情報を得るために自主的に本        を読み、授業外でも教師と関わって学ぼうとしたか。 ・向社会性 ‥どれくらい親しく同級生と交流し、共同作業が行なえたか。 ・自己統制力‥どれほど効果的に授業に集中し、衝動を抑えて授業を妨害しないでいられたか。 ・意志力  ‥困難な問題にどれくらい挑戦し、与えられた以上の課題をこなし、障害を乗り        越えたか。  幼稚園時代に経験豊かな先生のもとで学んだ子どもたちは、小学校四年生になった時点で、 前述したすべての性格特性(積極性、他者と協力する力、自分を律する力、困難に立ち向かう 意志の強さ)について、担任教師から、より高い評価を得ていた。そして驚くべきことに、中 学二年生になってもなお、その評価は同様に高かった。  つまり、積極性や向社会性、自己統制力、意志力といった、いわゆる「心の力」は、算数や 読解といった知識や技能よりも、遥かに長い期間にわたり、そして結果としてより深く、子ど もたちの内に定着していたのである。チェティと彼の研究チームの分析によれば、これらの心 の力に対する評価から予測される小学四年生の将来の収入は、標準的な学力テストの算数や読 解の成績から予測される収入よりも、実に二・四倍も多いという衝撃的な結果が示された。  なんと驚くべき結果だろうか。小学四年生の将来の経済力を予測したければ、算数や読解の 成績よりも、むしろ児童の行動パターンを担任教師がどう客観的に判断するかに注目すればよ いのである。  しかも、多くの人が生得的なものと見なしていたこれらの資質は、幼稚園で身につけたもの だったのだ。先天的な能力の有無にかかわらず、数十年後の成功につながる資質を習得するこ とには、特別な意味があるのである。    人間性とは    「習得可能なスキル」である  アリストテレスはその著作の中で、自制心や 他者への配慮といった資質を、人格を形成する 上で重要な「性格の徳」(virtue of character) と呼んだ。彼によれば、そうした徳は純粋な意 志の力によって培われ、倫理的な行動の礎とな る・私もかつては、人格とは道徳的規範に従う か否かという、意志の強さの問題であると考え ていた。  しかし、私の仕事は、哲学者が好んで議論す るような抽象的な概念を、科学的な手法で検証 し、必要とあればその理解を改めることである。 そこで過去二十年間にわたり、様々な証拠を丹 念に集めた結果、自身の従来の考え方を見直さ ざるを得なくなった。そして今、私は、人格や 性格といった「心の力」とは単に意志の強さの問題ではなく、むしろ習得し向上させることが 可能な一つの「スキル」、つまり「性格スキル」((Character Skills)であると考えるに至って いる。  人格や性格というものは、単に道徳的な信条を持っているか否かだけで決まるものではない。 むしろ、後天的に獲得される一種の「能力」であり、自らが信じる道徳的な生き方を実践する ために、学び、そして磨き上げていくものなのである。  「性格スキル」を身につけることによって、例えば、先延ばし癖のある人間が、大切な人たち のために約束の期日をしっかりと守れるようになり、内気で引っ込み思案な人間が、社会の不 平等に対して声を上げる勇気を持つようになり、クラスの腕白ないじめつ子でさえ、大事な試 合を前にすれば仲間との無益な争いを自ら制することができるようになるのだ。これらの人間 的な成長に不可欠なスキルを、優れた幼稚園の先生は愛情を持って育み、優れたコーチは粘り 強く育成していくのである。  モーリスーアシュリーが全米中学生チェス選手権に向けてチームを結成した際、フランシ スーアイデーンはベスト選手八名の一人ではなかった。それでもモーリスがフランシスを選ん だのは、性格スキルが並外れて優れていたからである。  「もう一人の生徒は、私よりもずっと優れたチェスプレイヤーでした」とフランシスは私に 語った。  「でも、モーリスが重要だと考えていた自己統制力が、彼には欠けていたのです」  選手権の準決勝でレイジングールークスが苦境に立たされた時、モーリスーアシュリーは秘 伝の書を取り出したりはしなかった。戦略についても全く語らなかった。  「私はただ、生徒たちに自分を律することの重要性を田心い出させただけです」  自己統制力は、過去二年間に彼らが共に磨いてきたスキルだった。  彼らの性格スキルは、伝説のチェスコーチと称されるブルースーパンドルフィーニの目に留 まった。パンドルフィーニは、数々の天才的プレイヤーを全米選手権や世界選手権へと導いた 名コーチである。レイジングールークスが勝利へ向かって突き進む姿を見て、彼は目を見張っ た。「彼らは何事にも動じなかった。たいていの子どもはプレッシャーを感じると少し焦り始 めたり、感情を露わにしたりするものだ。だが、彼らは違った。慌てず慎重に、全く表情を変 えずにチェス盤に向かっていた。あの年齢でこれほど冷静な子どもは見たことがない。まるで プロのようだった」  あたかも、チェス盤上のナイト(騎士)がトロイの木馬であり、その中にモーリスが性格ス キルの兵士たちを忍び込ませていたかのようだった。それらがレイジングールークスに加勢し、 対戦相手を追い詰めたのである。  「モーリスは決して高圧的になることなく、私たちに人生の教訓を与えてくれました」とフラ ンシスは言う。  「チェスの戦略を実行すること以上に、自分白身を理解し、自分自身を変革することを教えて くれたのです。あれは私の人生における転換点でした」  モーリスは、性格スキルの大切さを自分白身の経験から学んだ。幼い頃、母親が職を求めて アメリカへ渡り、ジャマイカに残された彼と兄妹は祖母に育てられた。十年後にようやく ニューヨークへ移り住むことができた時、チャンスは待っていてもやって来ないと彼は知って いた。チャンスを迎え入れるための扉は、自分でつくらねばならないのだと。  通っていた高校の図書室で偶然チェスに関する本を見つけた後、学校のチェスチームに入る ことを決めた。高校の図書室で偶然手にした一冊のチェス教本が、彼の運命を大きく動かした。 すぐさま学校のチェスチームへの入部を決めたものの、白身の未熟さを痛感するのに時間はか からなかった。そこから彼は、ただひたすらに技術の向上に努め、大学ではチームを率いる キャプテンの座にまで登り詰めた。そして、時給五十ドルという破格の条件で、(Iレムの学 校でチェスを教える仕事をしないかと持ちかけられた時、彼は二つ返事で引き受けたのだ。  今日、チェス界でモーリスについて尋ねれば、彼は素晴らしい戦略家であると誰もが称賛す るだろう。対局の途中で相手が斜め前方・斜め後方に何マスでも進めるビショップを動かす代 わりにキャスリング(キングを安全な位置に移動させる特殊な指し手)をしたとしても、モー リスには、あと何手でチェックメイト(王手)できるか、そしてその過程でクイーンを失うか 否かまで、すべて見えているのである。彼はかつて、十試合で同時に十人と対戦したこともあ る。そして全員を打ち負かしたIしかも、目隠しをした状態で。それでもなお、モーリスは、 人間性や性格は才能よりも重要であると固く信じている。  彼の主張を裏づける証拠は存在する。賢い子どもや未経験者はチェスを早く習得できるが、 成人やある程度上達したプレイヤーの場合、勝敗の予測において知性はさほど重要な要素では ないことが明らかとなっている。幼稚園での事例のように、高い認知スキルによる早期の優位 性は、チェスにおいても時間の経過と共に消滅するのである。平均して、チェスマスターにな るまでには二万時間、グランドマスターになるには三万時間の練習が必要であるという。そし て向上し続けるには、積極性や自己統制力、そして意志力を持ち、過去の試合や新しい戦略を 研究しなければならない。  性格スキルとは、私たちが最高の成果を出すのを後押ししてくれるだけのものではない。私 たちがより高みへと、険しい頂へと到達できるよう、力強く押し上げてくれる推進力でもある。 ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ベックマンもまた、数多くの研究を精査した上で、 性格スキルこそが「人生における成功を予測し、そして実際に生み出す力を持つ」と結論づけ ている。しかしながら、この貴重な性格スキルというものは、何もしなくても自然に育まれる わけではない。適切な機会と、それを活かそうとする強い意欲(モチベーション)を与え、そ して何よりも、意識的にそれを養い育てていく努力が必要不可欠なのである。    学びを支える「足場」をかける  「養育」というと、通常、子どもや児童を育み養うために、親や教師が絶えず時間と労力を注 ぎ込むことをいう。しかし、子どもたちの可能性が真に開花するよう仕向けるには、それとは 別なものが必要となる。子どもたちが将来、自力で学び、成長していけるようにするための、 集中的かつ一時的な支援である。これこそ、心理学者が「足場かけ(スキャフォールディン グ)」と呼ぶものである。  建設現場では、作業員が高い場所で安全に作業できるよう、一時的に足場を組み、作業が完 了すれば撤去する。建物が自立すれば、もはや支えは必要なくなるからである。  「足場かけ」の基本的な考え方は学びの世界でも全く同じである。教師やコーチは、学習の初 期段階においては手厚く指導し、方向性を示すが、学習者が力をつけてきたら、徐々にサポー トを減らし、学習の主導権を学習者白身へと移していく。そうして最終的に彼らが自らの力で 考え、独自の学習方法を確立し、自律的に学び続けられるようにする。  それこそが、モーリスーアシュリーがレイジングールークスのために実践したことであった。 彼は、一時的に強固なサポート体制を築き、それによって生徒たちに貴重な機会と、学びへの 尽きない意欲を持たせたのである。  モーリスはチェスを教え始めた時、他の指導者たちがすべての駒を使って序盤の定跡を教え ているのを目にしていた。キングの前のホーンをニマス進め、ナイトを斜め前に出す、といっ た具合に。しかし、ルールをただ覚えるのは退屈である。そして彼は、子どもたちの興味を削 ぎたくなかった。  そこで、集まった六年生に初めてゲームを紹介した際、逆の順序でやってみせた。ほんの一 握りの駒を盤上に置いて終盤の動きを見せ、相手のキングを追い詰める様々な方法を教えた。 これは、生徒たちが一歩ずつ確実にステップアップするための、小さな足場かけであった。  意志あるところに道は開ける、ということわざがある。しかし、道が見えなければ、目標を 夢見ることさえ諦めてしまう人が多いという事実を、私たちは見過ごしがちである。意欲に火 をつけ、意志を高めるためには、まずは道を示してあげなければならない。これこそが、足場 かけなのである。  ゲームを逆の順序で教えることで、モーリスは生徒たちの意欲に火をつけた。キングを追い 詰める方法を学んだことで、生徒たちは勝利への道筋を具体的に見ることができた。勝つため の方法があるとわかれば、学ぶ意志が生まれる。  「でも、子どもたちに「さあ、今から我慢強さと粘り強さ、そして不屈の精神を学ぶぞ」など と言っては駄目ですよ。そんなことをすれば、子どもたちは退屈して眠くなってしまいますか ら」と彼は笑いながら言う。  「その代わりに、こう言うのです。「チェスは楽しいぞ。さあ、やろう。お前を打ち負かして やるからな』と。そうすると、やる気も出るし、競争心も湧いてくる。子どもたちは腰を下ろ し、ゲームを学び始める。そして夢中になると、負けた時に、『よし、次は絶対に勝つぞ』と 思うようになるのです」  レイジングールークスのキャプテン、ケサーンーヘンリーが夜、ベッドに横だわって、天井 に六十四のマス目を思い描き、頭の中で試合を展開するようになるまでに、さほど時間はかか らなかった。  モーリスは、生徒たちが互いの成長を促すための足場もまた導入し、互いの技術を共有する ための画期的な方法を教えた。例えば、彼らはチェスの展開方法を漫画で表現した。チェスの 物語についてのSF小説を書いたり、盤の中央支配の重要性についてのラップをつくり、録音 したりしたこともあった。このようにして、本来単独で行なうゲームであるチェスを、チーム ワークとして捉え直し、他者や集団に貢献しようという向社会的なスキルを学んでいった。選 手権大会でチームの一人が涙を流した時、それは自身が負けたからではなく、チーム全体の期 待に応えることができなかったという、仲間への申し訳なさからであった。  生徒たちはチームとして一体となり、自らのモチベーションを高め、機会をつくり出し、そ して学ぶようになった。互いの責任を分かち合い、ゲームにおける各自のすべての動きを記録 し、グループ全体が皆の過ちから学んだ。自分が一番賢くなるのではなく、グループ全体をよ り賢い集団にしようと、互いに協力し合ったのである。  前年、全米中学生選手権に初参加した際は、予算の制約から選手が一人足りなかったにもか かわらず、レイジングールークスは上位一〇パーセントに入る健闘を見せた。翌年にモーリス が勝利という明確な目標を掲げた時、練習の計画を選手たち自身が率先して立てた。性格スキ ルを身につけた彼らには、強い意志が宿っていた。選手たちは仮設の宿泊施設を自分たちでつ くり、そこに泊まり込み、チェスの練習をしたり本を読んだりして夏を過ごした。そして、彼 らの特訓に夏の休暇を捧げるよう、モーリスを巧みに説得した。こうして、彼らはゴールへ向 かって、白らの手で舵を取ったのである。  本来であれば、子どもたちが成長するための機会というものは、特定の誰かに頼らずとも、 社会全体が自然と提供するべきものである。しかし、残念ながら、私たちの社会システムはま だその理想には程遠い。だからこそ、モーリスは、恵まれない環境にいる生徒たちのために、 あえて「足場」を築いたのである。ある母親は、モーリスの指導のもとで息子がチェスに没頭 する姿を見て、初めて我が子が持つ才能に気づいたという。このことからもわかるように、 モーリスの功績は、生徒たちの才能を引き出したことだけに留まらない。彼は、その子どもた ちの可能性を、周囲の大人たち、特に親や学校の教師たちが真に理解し、正当に評価できるよ う、大切な気づきを与えたのである。    自分の「壁」を打ち破っていくために  モーリスーアシュリーのような素晴らしいコーチに恵まれる人間は、そうそういない。理想 的な指導者(メンター)を見つけ出す術がないこともあれば、両親や教師が、適切な足場を築 く方法を知らないこともある。私の目標は、本書が、読者の皆さんにとっての「足場」となる ことである。  本書は、三つのパートから成る。  パートーでは、私たちがより高い目標へと到達するために不可欠な「性格スキル」について 探求する。独学で建築家となった元プロボクサー、スポンジのような驚異的な吸収能力を身に つけることで貧困から抜け出した女性、そして学校のある特定の教科では苦闘したにもかかわ らず、今や世界のトップレベルに達した二人の若者を紹介しよう。  パート2では、「モチベーションをいかにして高めるか」、その仕組みの構築に焦点を当てる。 優れた性格スキルを持っていたとしても、燃え尽き症候群に陥ったり、白身の能力を疑ったり、 あるいは行き詰まりを感じたりすることは誰にでもあるだろう。しかし、仕事中毒になること なく、また、自身を極度の疲労状態に追い込むことなく、著しい進歩を遂げることは可能なの である。障害を抱えながらもそれを乗り越えた音楽家、冴えないアスリートをスター選手に変 貌させたトレーナー、そして周囲からの冷ややかな視線に屈することなく自らの真価を証明し た士官候補生の実例を通して、私たちが困難な状況でも意欲を失わず、目標に向かって進み続 けるために不可欠な、「足場かけ」という知恵の本質に迫りたい。  パート3では、成長の機会を増やすための体制、仕組みづくりに重点を置く。成長の機会こ そが、社会が大きな可能性を秘めた人々に与えるべき、最も貴重なものである。ところが、最 も大きな困難に直面している人々に対して、私たちは不当にも道を閉ざしていることが多い。 過小評価されたり見過ごされたりしながらも逆境に打ち勝った人間が一人いるとすれば、チャ ンスに恵まれない人間は星の数ほどいるはずである。学校やチーム、そしてあらゆる組織が、 そこに集う人々が秘めている貴重な可能性の芽を見過ごしたり無駄にしたりせず、大切に育み、 大きな花を咲かせるためには、一体どのような仕組みや文化が必要なのだろうか。このパート では、その具体的な方法論について深く掘り下げていく。  まず、世界でも最高水準と称賛される教育システムを築き上げた、北欧の小さな国を訪ね、 そこで実践されている、子ども一人ひとりの確かな進歩を促すための具体的な方法を明らかに する。次に、人類の歴史上、最も奇跡的と語り継がれる救出活動の事例を詳細に検証し、単に 個人の能力を寄せ集めるのではなく、集団として偉大な力を発揮するためには一体何が必要な のか、その本質を解き明かす。さらに、しばしば硬直化し、多くの才能を見過ごしがちな選考 過程をいかにすれば改善できるのか、その具体的な道筋を探るため、NASAの宇宙飛行士候 補者選考や、アイビーリーグの厳格な入学資格審査といった、通常は窺い知ることのできない システムの裏側へと、読者の皆さんをご案内しよう。早期の段階で人々を機械的にふるい落と すような体制を見直し、変革していくことで、いわゆる社会的な弱者とされる人々や、才能の 開花に時間を要する人々が、その素晴らしい可能性を開花させ、成功を掴む確率を、私たちは きっと高めることができるはずである。  「内に秘めた可能性を、いかにして引き出すか」というテーマに、私が大きな関心を寄せてい るのは、私白身が、それを身をもって経験してきたからに他ならない。私がこれまでの人生で 一番誇りに思っているのは、才能という点ではほとんどゼロからのスタートであったにもかか わらず、ある分野で大きな進歩を遂げることができたことである。  幸運にも優れた指導者(コーチ)に巡り会い、私は学校で誰よりも下手だった飛び込み選手 から、全国レベルで上位を争うまでに成長することができた。また、かつては小さな講義室で 失敗ばかりを繰り返していた私が、今ではTEDトークという華やかな舞台に立ち、多くの 人々から温かい拍手喝采を受けるようになったのである。  もし、初期のつまずきや失敗だけで自身の可能性に見切りをつけていたならば、とうの昔に すべての目標を諦めてしまっていただろう。成長の過程で学んだことの一つひとつが、その後 の大きな飛躍のために、自らの手で足場を築き上げていく上で、かけがえのない力となった。  私は、そうした自身の経験を通じて、人はどのようにすれば自らの限界という壁を打ち破り、 越えていくことができるのか、その深遠な謎を解き明かしたいと、強く決意するに至ったので ある。  私は社会科学者なので、まず、無作為抽出実験や縦断研究、そして複数の研究結果を収集し て解析するメタ分析(研究の研究)といった、客観的なデータを入念に検証した。その後、そ れらの検証結果に基づいて考察を始め、研究に命を吹き込むような、人々の心を打つ物語(ス トーリー)を探し求めた。  私は多くの人に会った。その中で触れたのは、水面下であろうと、地の底であろうと、ある いは山頂や宇宙空間であろうと、置かれた状況や出発点がどうであれ、目覚ましい進歩を遂げ、 眠っていた才能を最大限に開花させた人たちの物語だ。彼らがどのようにして自らを、そして 他者を、さらには社会をも動かし、偉業を成し遂げるに至ったのかIその軌跡と秘訣を、私 はどうしても知りたいと思った。  その好例が、ニューヨークの貧困地区から現われたチェスチーム、レイジングールークスだ。 彼らの成功は、チェス界の様相を一変させた。彼らが彗星のごとく現われた後、チェスの全国 大会における人種的マイノリティの参加割合が四倍にも増加したと、コーチたちは推算してい る。モーリスーアシュリーは、チェスの国際的なスポークスマンとなり、チェスは人格形成の 手段となり得ると訴え続けた。また、国内各地の貧困地区の学校において現在実施されている チェスプログラムを導入するための運動も促進した。彼の非営利法人がチェスを教えた子ども の数は、五十万人を下らない。  この影響力がチェスだけに留まらないのは、間違いない。討論の内容が自らの情熱に沿うも のであれば、モーリスは生徒たちに相手の反論を予測することを教え、互いの意見を丹念に吟 味し、よりよいものへと改めていくよう促した。大事なのは、活動そのものではなく、そこか ら何を学べるか、なのである。モーリスが言うように、「成果とは、成長の中にある」。  モーリスが彼らのために丹念に築き上げた、挑戦する機会と学ぶ意欲(モチベーション)と いう「足場」があったからこそ、レイジングールークスの面々は、チェスという盤上の戦いを 超えて、そこで培った様々な「性格スキル」を、実生活の多様な場面で力強く活用することが できた。  例えば、短絡的な駒運びを抑える訓練で培われた自制心は、ストリートに蔓延るギャングや 麻薬といった甘い誘惑を断ち切るための、確かな盾となった。数多くの定跡を記憶し、相手の 次の一手を予測する中で鍛え上げられた粘り強い意志力や積極的な思考は、学校の難しい試験 勉強においても、彼らの大きな力となった。そして阿よりも、共に練習に励み、互いの長所を 認め、短所を補い合う中で育まれた、他者に配慮し、協力する心(向社会性)は、彼らを人生 の様々な局面において、素晴らしいチームプレイヤー、また信頼される指導者(メンター)へ と成長させたのである。  レイジングールークスのほとんどのメンバーは、逆境を乗り越えて数々の成功を収めた。 ジョナサンーノックは、犯罪の多発する地域で育った。大会で勝ち続けていた時期に、近所の バスケットボール場で強盗に襲われたことさえある。現在、彼はソフトウェアエンジニアであ り、グラウトソリューションを提供する企業の創立者でもある。フランシスーアイデーンは、 ナイフや拳銃による暴力事件に巻き込まれないよう注意しながら登校しなければならなかった。 後にイェール大学で経済学の学位を、そして(Iバード大学でMBAを取得した。今ではアメ リカ最大の公益事業会社で財務管理を担当し、また投資会社の最高執行責任者(C00)も務 めている。ケサーンーヘンリーは、ホームレス状態で、ギャングからの勧誘も絶えないという 過酷な境遇から、三つの異なる分野で修士号を取得するまでに進歩した。今日、彼は作曲家と しても、映画監督としても賞を受賞するほど活躍している。  「チェスが、私の人格を形成してくれました」とケサーンは当時を振り返る。「チェスのおか げで、集中力と注意力が磨かれました。チェスが、私の心に火を灯してくれたのです。誰かが 輝きを与えてくれたあの星は、私がこの世を去るまで、ずっと光り続けるでしょう」  レイジングールークスの面々は、輝かしいキャリアを築くことに加え、他の人々のために機 会をつくり出すことの大切さを、チェスから学んだ。チャルー・ロビンソンが育った家の近所 には、麻薬密売所が四つもあった。彼の友人のうち何人かは殺害され、多くが刑務所へと送ら れた。一九九一年の全米中学生選手権でダルトン校の最優秀選手の一人を打ち破った後、チャ ルーはダルトン校への全額支給奨学金を獲得した。その後、犯罪学の学士号を取得し、教師と なった。自身が学んだことを、他の誰かに伝えたいと願ったからである。  一九九四年、モーリスは(Iレム地区にある別の中学校の校長から、タークーナイトという 新たなチームの指導を依頼される。それから二年間にわたり、男子生徒と女子生徒から構成さ れるそのチームは、国内選手権大会で連続優勝を果たした。その頃、モーリスは、歴史をつく るための次なる目標達成へ向けて、静かに歩を進めていた。コーチの役割から一時的に身を引 き、白身のチェスの技術向上に専念した。そして一九九九年、モーリスはアフリカ系アメリカ 人として史上初のグランドマスターとなったのである。  同年、タークーナイトは新しいコーチと共に、全米中学生選手権で三度目の優勝を果たす。 彼らのアシスタントコーチを務めたのは、チャルー・ロビンソンだった。彼は、街の様々な学 校で、数えきれないほど多くの子どもたちにチェスを教えていた。コンクリートの割れ目から 力強く花閧いたバラは、レイジングールークスだけではなかったのだ。より多くのバラが開花 するように、彼らは豊かな土壌を醸成したのである。  偉大な思想家や実業家、そして指導者たちを賞賛する際、私たちはその人々の輝かしい実績 にばかり注目しがちである。その結果、最も大きな成功を収めた人物ばかりを祭り上げ、最も 不利な立場にありながらも、多くを達成してきた人々の真価を見落としてしまう。内に秘めた 可能性を測る真の基準とは、到達した頂の高さではない。むしろ、そこに達するまでに、どれ ほど険しく、長い道のりを歩んできたか、なのである。 は   性格スキル hl −この「心の力」を伸ばす        I.j。。。 ・ ’。・11111111−I III・1111−−−I−4−1−11111−−−−−−−−一III一一III一一一一  四  s I i・I   I −−−−−− FF・l r −   −−  唹I    ・  −flIIf♂。SIyj        人はどうやって困難を乗り越え        向上していくのか  十九世紀末、心理学の父と称されるウィリアムージェームズは、ある大胆な主張を展開した。 「性格や人格は三十歳になる頃にはギプスで固められたように固定され、以降、変わることは ない」と。  つまり、人の性格や人格は幼少期にほぼ決まってしまい、大人になってからそれを変えるの は不可能だというのだ。  近年、この長年の定説に挑むべく、ある社会学者チームが興味深い実験を行なった。対象と したのは、西アフリカで製造業、サービス業、販売業などの小規模なスタートアップを経営す る男女千五百人の起業家たち。年齢層は三十代から五十代である。彼らは無作為に三つのグ ループに分けられた。  第一グループは、通常通り業務を続ける対照群。あとの二つは実験群で、一週間の集中ト レーニングに参加して、新しいビジネスコンセプトを学び、他社の事例研究を通じて分析し、 さらに白身の事業に置き換えてロールプレイングを行なったり、内省を促す演習などをこなし たりした。この二つの実験群の違いは、トレーニングで重点を置くポイントにある。一方は 「認知スキル」(頭の力)の向上、もう一方は「性格スキル」(心の力)の育成を目指した。  具体的には、「認知スキル」のトレーニングでは、国際金融公社が認定するビジネスコース ぜ受講。金融、会計、人事、マーケティング、価格戦略といった知識を習得し、それらを駆使 して問題を解決し成功に導くための実践的な演習に取り組んだ。一方、「性格スキル」のト レーニングでは、心理学者が開発した「個人の主体性」に焦点を当てたコースを受講。積極性、 目己統制力、意志の力といった資質について深く考察し、それらを実際の事業にどう活かすか ぜ学び、繰り返し練習した。  性格スキルのトレーニングは、驚くべき成果を上げた。参加した起業家たちは、たった五日 凹の性格スキル向上プログラムに取り組んだだけで、その後二年間の事業利益が平均して三〇 (Iセントも増加したのだ。これは、知識習得を主眼とした認知スキルトレーニングを受けた クループの約三倍にあたる。  金融やマーケティングの知識を得た起業家たちは既存のチャンスを掴んで利益を伸ばした。 一方、積極性や自己統制力といった内面を鍛えた起業家たちは、「自らチャンスを創り出す 刀」を身につけ、市場の変化を待って対応するのではなく、変化を先読みする術を習得し、よ り革新的なアイデアで新製品を次々と開発した。経済的な困難に直面しても、簡単には諦めず、 まい精神的回復力(レジリェンス)を発揮し、巧みに資金を調達していった。  このように、性格スキルは私たちが大きな目標を達成するための強力なエンジンとなる。し かも、先の実験が示したように、性格スキルは年齢に関係なく、何歳からでも伸ばすことがで ざるのだ。  ウィリアムージェームズは偉大な心理学者だったが、「性格や人格は三十歳で固まる」とい う彼の説は、間違っていたようだ。人の性格や人格はギプスで固定されるようなものではなく、 生涯を通じてしなやかに変化し続ける可能性を秘めているのである。  ところで、「性格・人格(キャラクター)」とは、一体何を指すのだろうか。この言葉は、し ばしば「個性(パーソナリティ)」という言葉と混同されがちだが、実はこの二つは、本質的 に異なる。  まず「個性」とは、その大が生まれ持った気質や、物事に対する反応の仕方といった、比較 的変わりにくい個人の傾向で、その人の考え方、感じ方、行動のスタイルといった、いわばそ の大ならではの「色合い」のようなものとして現われる。  一方、本書で探求する「性格・人格」とは、その大の人間的な器の大きさや、精神的な深み といったものを指す。それは、困難な状況にあってもそのときときの感情や直感に流されるこ となく、自身が本当に大切にしている価値観や信念に基づいて、粘り強く行動し続ける力、そ ういった後天的に磨き上げていくことのできる「心の力」といえるだろう。  確固たる信条を持つからといって、常にそれに基づいて行動できるとは隕らない。すべてが 順調に進んでいる時に、断固たる決意を抱き、積極的に行動することは比較的容易だろうが、 ストレスやプレッシャーを感じている時は、そうはいかない。  しかし、その人の持つ真の「性格・人格」の強さは、むしろ不利な状況に置かれた時に自ら の価値観に沿って行動できるか否かによって試されるのである。平穏な日常生活における私た ちの振る舞いが、その大固有の「個性」に基づくものであるならば、困難な日々をいかにして 米り越えるかは、まさに「性格・人格」の力にかかっている。 「個性」は、その人ならではの思考や行動のパターン、つまり傾向であって、生まれながらに してすべてが決まっているわけではない。そして「性格スキル」とは、そうした自身に備わっ 廴いる行動パターンを超え、自身が大切にする信条に忠実であり続けることを可能にする力で のる。  本当に重要なのは、あなたがどのような「性格」かではなく、自分の「性格」をいかにして 佶かし、「人格」を磨いていくかである。あなたが人生のどの段階にいようとも、「性格スキ ル」を磨き始めるのに、遅すぎるということは決してない。  積極性や決断力といった性格スキルは、長らく「ソフトスキル」として軽視されてきた。 ソフトスキル」という言葉が生まれたのは、一九六〇年代末である。当時、アメリカ陸軍は 訓練の焦点を戦車や銃器といった機械の操作に置いていたが、訓練の幅を広げるため、複数の 心理学者に助言を仰いだ。ヒューマンスキル(対人関係能力)の重要性を認識していた心理学 百たちは、軍の結束力を高め、部隊の生還率を上げるために、リーダーシップとチームワーク りスキルの育成が不可欠であると説いた。ただ、これら二種類のスキルセットに名称を与える 際、不幸な選択をしてしまった。  戦車や銃といった金属製の兵器を扱う技術を「「Iドスキル」と名づけた。一方で、「機械 ざ全く、あるいはほとんど必要としない、重要な仕事に関連するスキル」を「ソフトスキル」 と呼んだのである。  実際には、それらは社会的・感情的・行動的スキルであり、兵士が任務を遂行する際に不可 欠なスキルだった。「ソフト」と呼ばれたのは、単に金属を扱わないという理由からであった (この定義に従えば、筆者にとって難解な財務管理でさえソフトスキルに分類されてしまう)。  数年後、心理学者たちはこの名称の使用中止を進言した。「ソフト」という語には「軟弱」 なイメージがあるからである。兵士たちは強さを求めていたが、性格スキルこそが活力の源泉 となり得ることに気づいていなかったのである。  認知スキルが人間と動物を区別する要素だとすれば、性格スキルは人間が機械を超えるため の鍵となる。今日、コンピューターやロボットは自動車を製造し、航空機を操縦し、戦場で活 動し、資金を管理し、法廷で弁護を行ない、癌を診断し、心臓手術さえ執刀する。  認知スキルの自動化が加速する現代、我々はまさに人問形成の革命期にいる。技術が進歩し、 人間同士の交流や関係性が再評価される中で、人間特有のスキルを磨くことの重要性は増すば かりである。  人は、成功と幸福を人生の最重要目標に掲げる。そのリストの上位に性格がないのはなぜだ ろうか。職業スキルを磨くのと同様に、白身の性格スキル向上により多くの時間を費やしたな ら、どうなるだろうか。もしアメリカ独立宣言に、「すべての人間は生命、自由、そして性格 スキルを追求する権利を有する」という一節があったなら、現在のアメリカはどのような姿に なっていただろうか。  私は性格スキルを研究し、秘めた可能性を解き放つ鍵となる特性を特定した。それは、積極 は、意志力、そして自己統制力である。目標へ至る長い道のりにおいては、不快感と向き合い 剛難に挑む勇気、情報を積極的に吸収し応用する能力、そして不完金さを受け入れる覚悟が求 ?にっれる。       性格というのは、安楽の中で培うことはできません。       試練と苦難を経験してこそ、心は強くなり、視野が広がり、       野心に火がつき、成功への道がひらかれるのです。                   ヘレンーケラー(教育家、社会福祉事業家) 「不快な経験」こそ最高の成長剤 −学びに伴う「居心地の悪さ」を受け入れる  サラーマリアー(ズバンは、ある特異な能力を培った。二〇一八年、同じ能力を持つ人が他 にいるかもしれないと考え、世界へ向けて旅立った。各国を巡り、同様の背景を持つ多くの 人々と出会う中で、彼女はいくばくかの安堵感を覚えた。彼らは国籍も、職業も異なり、一見 したところ共通点はない。だが、そろって非凡な才能と独自の目標を持ち、互いに心を通わせ ることができた。  新しいコミュニティに飛び込むたびに、サラーマリアは新たな挑戦に身を投じた。スロバキ アのブラチスラヴアでは「Ahoj「 volam sa Sara Maria!」、日本の福岡では「Konnichiwa! Wata no namae wa Sara Maria desu!Jと、当地の言語で自己紹介し、自分がカリフォルニア出 身の起業家であることを伝えた。パンデミックの渦中、中国で足止めを食らった時は、北京の 聴覚障害者団体でボランティア活動を始め、中国手話で人々と交流した。  これだけ聞けば、ちょっとした余興と思うかもしれない。だが、サラの言語能力は自己紹介 の域を遥かに超えるものだった。旅の途中、サラーマリアはペニー・ルイスというアイルラン ド出身のエンジニアと意気投合し、中国標準語、スペイン語、フランス語、英語、アメリカ手 話など多言語を駆使して一時間にわたり、語り合った。  サラーマリアもペニーもポリグロット、つまり複数の言語で考え、話すことができる人たち だ。サラは五カ国語を流暢に話し、日常会話程度ならさらに四カ国語をこなす。一方、ペニー は六カ国語を完全にマスターしていて、さらに四カ国語で中級レベルに達している。二人は毎 年開催されるポリグロットの国際イベントで再会すると、どちらもが堪能な五カ国語で会話す る。それ以外の言語を使いたければ、周囲を見渡せばいい。サラは多くの場合、韓国語とイン ドネシア語でおしゃべりする相手に出くわし、初級レベルの広東語、マレー語、タイ語を鍛え るための練習相手を容易に探し出す(ニカラグア手話は残念ながらパートナーを見つけるのが 難しく、なかなか上達できない)。ペニーもまた、ドイツ語やアイルランド語、エスペラント 語、オランダ語、イタリア語、ポルトガル語(さらに「スタートレック」のクリンゴン語まで も!)を操る相手を遅かれ早かれ見つけ出し、会話を楽しむのである。  これらの多言語使用者の膨大な知識量には目を見張るものがあるが、驚くべきはそれだけで はない。習得のスピードがとても速いのだ。サラは六カ国語を全くのゼロから学び始めて十年 足らずでマスターした。ペニーに至っては、ほんの数力月チェコに滞在しただけで、チェコ語 が一通り話せるようになった。(ンガリーでは、三ヵ月もしないうちに(ンガリー語で日常会 話をこなせるようになった。アラビア語のエジプト方言も同様に(ブラジルに住んでいる間 に)三ヵ月で聞き覚え、中国標準語は中国滞在中に五ヵ月で中級レベルに達して、一時間の討 論もこなせるようになった。  ポリグロットは特異な存在だと、私は長年思い込んでいた。彼らは生まれながらに特殊能力 を持ち、新たな外国語を学ぶ機会に恵まれると、その類い稀な才能を発揮するのだ、と。私の 大学時代のルームメイトがまさにそうだった。彼は六言語を操り、その卓越した言語力を使っ て独自の新しい言い回しをつくり出すこともしばしばだった(例えば、誰かが自分の感情的な グチをぶちまけた際に彼が凵にした「おいおい、俺のスーツケースには入れないでくれよな」 は私のお気に入りだ)。彼が新しい外国語をマスターする速さや、言語間を自在に行き来する その器用さに、私は驚嘆したものだ。  サラーマリアとペニーに出会った当初、彼らもまた、語学の才能に恵まれているのだろうと 思っていた。しかし、それは、全くの勘違いだった。  ペニーは幼少期、自分には言語の才能がなく、バイリンガルになることなど到底不可能だと 信じ込んでいた。学校ではアイルランド語を十一年間、ドイツ語を五年間学んだが、いずれも 話すのが苦手たった。大学卒業後にスペインに移住したものの、六ヵ月たってもスペイン語を 話すことはできなかった。二十一歳になっても流暢に話せるのは英語のみで、他の言語習得は 諦めかけていた。「私には言語の才能がないのだと、いつも自分に言い聞かせていました」と ベニーは語る。  サラーマリアもまた、当初から順風満帆だったわけではない。スペイン語を六年間学んだに もかかわらず、話せるのは母語である英語だけ。言語習得を左右する重要な時期を逸してし まったに逮いないと考えていた。父親はエルサルバドルの出身だったが、英語を流暢に話した ため、サラがスペイン語に触れる機会は少なかったという。  サラーマリアは当時をこう振り返る。  「家での会話はすべて英語でした。高校でスペイン語を習い始めた時、その難しさに愕然とし ました。英語を母語とする人にとって、スペイン語は最も習得しやすい外国語の一つだと言わ れています。でも私は悪戦苦闘しました。私の出来の悪さに先生たちでさえ戸惑っていたほど です。頻繁にスペイン語で話しかけられるものの、ろくに言葉を返すことができず、自分に失 望しました。多くの生徒は苦もなく外国語を習得しているようなのに、なぜ私はこの言語を習 得できないのだろう、と」  スペイン語の宿題を父親に手伝ってもらう日々が何年も続き、サラはついに父親からこう優 しく諭された。  「お前はスペイン語を話せるようにはならないだろう。でも、いいじやないか。アメリカに住 んでいればスペイン語など必要ないのだから。気持ちを切り替えて、自分の得意なことに時間 を費やしたらどうだい」    成長のために必要な「三つの勇気」  外国語を自在に操りたいと願う人は多い。しかし、その目標はあまりにも遠く、到底、到達 不可能だと多くの人が思い込んでいる。ペニーのように、自分にはそもそも素質がないのだ、 と決めつけてしまう人もいる。あるいはサラーマリアのように、自分は学ぶのに適した時期を 逸したのだ、幼少期に始めていたなら、今頃は習得できていたはずだと考える人もいるだろう。 十八歳頃を境に言語学習能力が低下するというのが通説である。だが、その要因は、生物学的 なものではないことを示唆する証拠が次々と現われている。問題は、私たちの学習方法にある のだ。  成人してからでも新しい言語を習得できることは、ポリグロットたちが身をもって証明して いる。私はサラーマリアとペニーにオンラインで出会った時、言語習得の専門家である彼らか らその秘訣をぜひ聞き出したいと考えた。そして彼らの話を聞いて、驚愕した。彼らが最初の 外国語をやっと習得できたのは、いわゆるメンタルブロックを打ち破ったからではない。「恐 れ」という障壁を乗り越えたからだというのである。彼らは、学習プロセスに必然的に伴う不 安感に、自らを意図的に慣らしていったのだ。  何を学ぶにせよ、居心地の悪さを伴う経験を重ねることで、内に秘めた可能性を引き出すこ とが可能になるが、あえて不快なことと正面から向き合うには、強い意志力が不可欠だ。そし て意志力こそ、性格スキルの中でもとりわけ重要な資質といえるだろう。そこでは三つの勇気 が求められる。  第一に、「自分にとって最適」だと信じ込んでいる手法を捨てる勇気。  第二に、自分の心の準備が整う前に、挑戦の場に飛び込む勇気。  第三に、誰よりも多くの失敗を経験する勇気。  成長を加速するための最良の方法は、不安感を受け入れ、探し求め、さらには意図的に増幅 させることだ。    「慣れ親しんだスタイル」を手放す勇気  アメリカの学校教育では、学習者が苦手意識や不安感を持たないよう配慮した指導方法が主 流となっている。それは、かつてアメリカの教育システムに蔓延していた問題への「善意に基 づいた解決策」として考案されたものだ。それ以前、多くの学校は何十年もの間、あたかも工 場のベルトコンベアのように画一的に運営されていた。そこは若い頭脳の大量生産工場で、生 徒は交換可能な部品のように扱われたのである。学校は個々の多様な長所を伸ばす代わりに、 画一的な授業を通じて、生徒に均質な知識を詰め込んだ。  一九七〇年代の教育改革に伴い、学校教育での指導方法も見直されることとなった。その背 景にあったのが学習スタイル理論で、それによれば、生徒が学習に苦戦するのは、指導法が 個々の学習スタイルに適合していないためで、学習者は自分に適した認知モードで学ぶ時、最 も効果的に新しい情報を処理・吸収できるという。例えば、新しい学習内容を理解するために は、言語型の学習者には読み・書き、視覚型の学習者には図表やホワイトボード、聴覚型の学 習者には口頭での説明、運動感覚型の学習者には体を使った実践的な学習が効果的だというの である。  今日、個々の学習スタイルに合わせた指導は、教員養成課程においても、また生徒たちの実 際の学習においても、基本的な要素として位置づけられている。世界的に見ても、教員の八九 パーセントが、学習スタイルに応じた指導法を支持しているという。私の教え子の中にも、自 らを聴覚型の学習者とみなし、教科書よりもポットキャストを好む学生は少なくない。  さて、本書を手に取ったあなたは、言語型の学習者であろうか、それとも視覚型の学習者で あろうか。  しかし、学習スタイルの理論には一つ、看過できない問題がある。それは、この理論が科学 的根拠に乏しい、いわば神話に過ぎないことである。  ある研究チームが過去数十年間分の学習スタイルに関する研究を包括的にレビューしたとこ ろ、この理論を支持する証拠は皆無に等しいことが明らかになった。特定の授業の対照実験や 一学期に及ぶ縦断的調査から、学生、成人学習者のいずれも、各自の得意とする、あるいは好 みの学習方法で学んだからといって、テストでより優れた結果を収めることはできないことが わかったのである。  研究者たちは「学習スタイルに合わせた指導法や学習法を全面的に導入する有効性を示す十 分な証拠はない」と結論づけている。「学習スタイル別アプローチは教育現場で熱狂的な支持 を得ているが、その効果を裏づける証拠の欠如との間の差異は著しく、憂慮すべき状況だ」と 警鐘を鳴らしている。  むろん、過去の画一的な教育方法に戻りたいとは誰も思わないだろう。かといって、学習ス タイル別アプローチが万能だと抉めっけてしまうのもまた問題だ。新しい知識やスキルを習得 する際、誰しも好みの学習方法があるだろう。しかし、周知の通り、人の好みは変わるものだ。 また、自分の得意な方法だけに固執していては、不得意を克服する機会は得られない。  特定の学習方法を好むのは、それが自身にとって快適だからであって、その方法が必ずしも 学習効果を高めるとは隕らない。むしろ最も不快で不得手と感じる学習方法のほうが、よい結 果が得られることさえある。というのも、居心地の悪い状況こそが、私たちにより一層の努力 を促すからだ。不快感を受け入れ、慣れ親しんだ学習スタイルを手放すIこれこそが、先に 述べた第一の勇気なのである。    「コンフォートソーン」に留まるな  その最たる例を、私はコメディ界で見つけた。コメディアンのスティーブーマーティンは 一九六〇年代にスタンダップコメディの世界に足を踏み入れたが、当初、彼のパフォーマンス は全く笑いが取れず、壊滅的だった。あるショーでは、観客の一人が立ち上がり、野次を飛ば しながら赤ワインの入ったグラスを投げつけた。「私には才能がなかったんだ」とスティーブ は回想する。当時の批評家たちも同意見たった。「ロサンゼルス史上で最悪の失敗は、ス ティーブーマーティンのショーのチケットを予約することだ」と、ある批評家は書き記してい る。  芸を極め、偉大なパフォーマーになるためには、どうすべきか?‐1聴いて、観て、実践す る」のが妥当なやり方だと考えるのが普通だろう。実際、スティーブもそう考えた。他の芸人 のジョークに耳を傾け、身体表現を観察し、誰かのネタに自分の経験を一つ、二つ盛り込んだ ものを練習してステージで演じてみる。しかし、準備にいくら時間を費やしても、彼のパ フォーマンスは冴えなかった。ショー開始から五分経っても、客席からは笑い声が上がらずス ティーブは汗だくで話し続けるも、さらに五分、また五分と時間が過ぎ、二十分が経過しても 静かな笑い声すら聞こえてこない夜もあった。「聴いて、観て、実践する」というやり方では、 彼は成長できなかったのである。  コメディ創作において、スティープが唯一避けていたアプローチが、「書く」ことだった。 書くことは嫌いだ、自分のスタイルではないし、その才能もないと思い込んでいたからだ。 「書くことが本当に辛かったんだ」と彼は述懐している。  書くことを不得手とする人は少なくない。それは、一流と称される書き手であっても例外で はない。私の知る限りでも、執筆を可能な限り先延ばしにしたいと考える書き手は、数名存在 する。先延ばしは、誰もが直面し得る問題である。自身のコンフォートソーンから踏み出す必 要に迫られた際、人は先延ばしをしがちになる。  ブロガーのティムーアーバンによれば、私たちの頭の中には、困難な義務よりも安楽な快楽 を優先させる「サル」が棲みついているという。白身の力不足や怠け心に屈すれば、私たちは この「サル」の支配下に置かれることになる。先延ばしは自己肯定感を蝕み、結局は自己嫌悪 に陥るだけである。  多くの人は、先延ばしにするのは怠け者だからだと考えがちである。しかし、心理学者の見 解はこれと異なる。先延ばしをするのは、時間管理能力の欠如が原因なのではない。先延ばし をする者は、自らの心の管理ができないのである。何かを先延ばしにするのは、努力そのもの を回避しているからではない。回避しているのは、その活動に伴う不快な感情なのである。し かし、遅かれ早かれ気づくだろう。先延ばしを続ける限り、目標達成は不可能であるという事 実こ。  スティーブーマーティンもまた、しばらくの間、自身のネタづくりを先延ばしした。一人机 に向かって嫌いなことをするよりも、他人のジョークを拝惜して、ステージで即興で演じるほ うがずっとラクだった。目先の快楽を求めるサルに脳を乗っ取られていたのである。スティー ブは数年間、スタンダップで悪戦苦闘を繰り返した後、こう語っている。「ようやく恐ろしい 事実に気づいたんだ。もしコメディアンとして成功したいなら、自分でネタ原稿を書かなけれ ばいけないことに」  スティーブは勇気を奮い起こしてコンフォートソーンから一歩踏み出した。そして、ネタ原 稿の執筆を学ぶことを決意する。あるバラエティ番組が若手ライターを募集していると聞きつ け、自分の書いた原稿を提出したものの、採川されなかった。スティーブ曰く「なにしろ、僕 には文章を書くノウ「ウがなかったから」。それでも、主任ライターはいちかばちか、彼を試 川することにした。以前、スティーブがバンジョーを演奏する姿を目にし、風変わりな男だと 印象に残っていたからだ。主任ライターは、自分の給料からスティーブに報酬を支払った。シ ナリオの冒頭部分を少し書いてみろと言われた時、スティーブはパニック状態に陥った。書く ことに対する心理的障壁があまりにも強固だったのだ。タイプライターを前にすると頭は頁っ 白になり、一文字も思い浮かばない。ルームメイトに電話をかけて、教えてもらったジョーク を打ち込むという有様だった。それでも雇われたこと自体がラッキーだった。  それから数年間、スティーブは昼間はテレビ番組のシナリオを書き、夜はスタンダップコメ ディの舞台に立ち続けた。虫‥くことは多大な苦労を要したが、次第にその作業にも慣れていっ た。ステージでは相変わらず失敗続きで、「書くことに専念したらどうだ」とエージェントに も言われる始末だった。  しかし、その時エージェントは知る由もなかったのだが、スティーブは書くことを通じて、 芸人としての実力を徐々に高めていたのだ。ステージでの即興は、話が冗長になりがちだった が、文章にするには、余分な要素を削ぎ落とさなくてはならない。自身のネタを書き留める習 價を身につけるのは苦痛を伴ったが、そのおかげで自分のジョークを要点だけに絞り込む術を 学んだ。「つまるところ、核心をついているかどうかが肝心なんだ」とスティープは言う。 「ジョークはシンプルなほうがいい。凝りすぎは駄目なのさ」  書くことに伴う不快感を受け入れるようになって初めて、彼はジョークのセンスを研ぎ澄ま し、絶妙なオチを生み出せるようになった。例えば、次のようなジョークがある。  「去年、シナリオ原稿を提出したんだが、テレビ局は書き直しを要求してこなかったんだよ。 八十七ページ目のひと言だけを除いてね」  一九七〇年代半ばには、スティーブはアメリカで最も人気のあるスタンダップコメディアン の一人として認められるようになった。全国ツアーに出れば、各地の巨大アリーナを満席にし、 発表したコメディアルバムは、プラチナディスクに認定された。『サタデー・ナイトーライ ブ』への出演も果たした。コメディアンとして成功を収めるまでの過程で、スティーブは書く ことに楽しさを見出していった。そして、それが俳優としてのキャリアを切り閧くことになっ たのである。もし、彼が文筆のスキルを習得しなかったなら、大ヒットした映画「天国から落 ちた男」の脚本執筆も、その主演も叶わなかっただろう。  書くことを苦手だからと敬遠する人は、私が知る限りでも少なくないが、彼らが見落として いることがある。書くことは、コミュニケーション手段であるのみならず、極めて有効な学習 ツールでもあるという点だ。書くことを通じて、自身の知識と論理の間にある矛盾や飛躍があ らわになる。その結果、自分の仮定を明確化し、それに対する反論を深く考察できるようにな る。不明瞭な文章は、思考そのものが不明瞭であることの証左だ。「言葉の使い道を知ってい る人もいれば、まあ、道すらない人もいるだろ」とスティーブは冗談めかして言った。  書くことが嫌いであってもぜひ文章を書くべきだ、と言っているのではない。ここで言いた いのは、苦手な学習方法に伴う不快感を回避し続けていると、自分の成長を妨げることになる。 ということだ。アメリカの人気ドラマ「テッドーラッソ」の主人公もまた、心理学者さながら の名言を残している。「それが心地いいと思うなら、そのやり方が間違っているということだ」。 これこそポリグロットたちが外国語をマスターする過程で発見した極意なのである。    「挑戦の場」に我が身を投じる勇気  学習方法は人それぞれであり、言語型の学習が向いている人もいれば、聴覚型の学習が有効 な人もいる、と学習スタイル理論の支持者は反論するかもしれない。しかし、学びにおいて重 要なのは、必ずしも自身に合う方法を見つけることではない。むしろ多くの場合、課題そのも のに適合した手法を見出すことなのである。  この点を裏づける興味深い実験を紹介する。被験者である学生たちは、一篇の科学論文を理 解するために二十分の時間を与えられた。被験者は無作為に半々に分けられ、一方は論文を読 み、もう一方はその論文の音声記録を聴いた。音声で学んだグループは、文章で学んだグルー プよりも学習自体を楽しんだものの、習得した内容は遥かに少なかった。その二日後に行なわ れたテストでは、音声グループの正答率が五九パーセントであったのに対し、文章グループは 八一パーセントであった。  聴党は直感を刺激するので、聴党による学習は楽しいと感じやすい一方、読むことは情報の 分析的処理を促進するので、文章による学習は理解力と記憶力を向上させる。  研究によれば、英語話者と中国語話者のいずれにおいても、雑学クイズやなぞなぞ、パズル が口頭ではなく書面で提示された時のほうが、より優れた論理的推論が可能になるという。読 者もまた、活字を読む際には、核となる情報を処理するために文節の冒頭では速度を落とし、 段落問の空白や見出しを利用して情報を区切りながら理解しているはずだ。識字障害や学習障 害により構文解析に困難がない限り、クリティカルーシンキング(論理的・客観的・合理的な 思考展開)を養うのに、読書ほど効果的な手段はないのである。  他方、外国語学習は異なるアプローチを要する。サラーマリアー(ズバンは、スペイン語の 教科書を読み込み、膨大な量の単語カードを作成することで語彙と文法を習得しようとした。 学校の授業では会話練習には重点が置かれていなかったため、大量の単語を暗記するまでは話 すことに不安を感じ、間違うことを恐れていた。その居心地の悪さから逃れるために、彼女は 英語を話し続けたのである。  大学で言語学を専攻したサラーマリアは、やがて白身のアプローチに疑問を抱き始める。ピ アノやフィギュアスケートに関する隶‥物をどれほど読み込んだところで、クララーシューマン のように協奏曲を奏でたり、クリスティーヤマグチのようにトリプルアクセルを成功させたり することはできない。どれほど意識を集中しようとも、スペインのカスティーリャ方言を「見 る」ことはできないし、頭の中で図式化することも、ダンスで表現して習得することもできな い。その言語を理解するには自らの耳で聴くしかなく、話すには声に出して練習するしかない のだと、彼女は悟ったのである。  耳で聴き、声に出して話す練習の有効性は、十数件の実験を対象としたメタ分析によっても 裏づけられている。新しい言語を学習する際、読解だけでなく会話の指導も受けると、学生も 成人学習者も、理解力と会話能力が一層向上したという結果が出ている。また、学習者は「反 転授業」(授業前に各自で単語を予習し、授業中は会話練習に充てる学習形態)においても、 より効果的に学習を進められた。「使わなければ失う(Use it or lose一’)」という格言は広く知 られているが、これは必ずしも正確ではない。なぜなら、使わなければ失うどころか、そもそ も何も習得していないことすらあるからである。  不快感が生じた際、それを最小限に受け流すだけでは不十分である。驚くべきことに、人間 は不快な経験を積極的に重ねることでこそ成長するのである。サラーマリアはその好例である。 彼女はマドリードへ移住し、英語教師として働きながら、あえてスペイン語しか通じないホス トファミリーを探し出し、そこで生活した。その結果、数カ月後の夏の終わりには、スペイン 語を流暢に話せるようになっていたのである。不安に身を哂すことに慣れさえすれば、いかな る言語も習得できると、サラは確信するに至った。  サラと彼女のブレイクスルーについて語り合う中で、私は突如として気づいた。学習におけ る安心感とは、一つのパラドックスである、と。幾度となく練習を重ね、スキルを習得して初 めて安心感は得られる。しかし、スキル習得前の練習過程は不快感を伴うものである。それゆ えに、人は練習を回避しようとする。習得を加速させるには、第二の勇気が不可欠となる。学 んだことを躊躇なく即座に実践するIすなわち、挑戦の場へ自ら飛び込む勇気である。    あえて「多くの失敗」をおかす勇気  心理学者のケイトリンーウーリーとアイェレットーフィッシュバックが行なった興味深い実 験を紹介しよう。数百人の被験者に即興コメディのクラスを受講してもらうことにし、その際、 被験者をいくつかのグループに分けてそれぞれに異なる目標を無作為に割り当てた。最も長く 持続し、最もクリエイティブなことに挑戦する姿勢を見せたのは、単に学ぶことに集中するよ う指示されたグループではなく、意図的に不快な体験を追求するよう助言されたグループだっ た。  インストラクターはそのグループの被験者に「あなたの目標は、居心地の悪さや不快感を味 わうこと。それこそが、この練習が成果を上げている証拠です」と伝えた。不快感が成長の証 だと理解すると、被験者はコンフォートソーンから抜け出すことに躊躇しなくなったのである。  この原則は、政治の世界においても有効性を示唆するものであった。私たちアメリカ人は、 民主党支持者と共和党支持者がそれぞれのエコーチェンバー(ネット上のSNSなど、自分と 似たような考えや価値観などを持った人たちとばかり交流することで、自分の意見が増幅され てしまう空間)から抜け出して、新しい情報を求めるよう絶えず働きかけている。しかし、あ る調査によれば、党員たちは不快な情報源を積極的に探すよう強く促された場合、反対政党の 論説をダウンロードする傾向が強いとしE・不快感が進歩の印であるならばヽそこから逃避す べきではない。成長し続けるためには、不快感を受け入れながら前進するしかない。  結婚式の七ヵ月前のことだ。サラーマリアは、結婚式当日に新郎とその家族を驚かせようと、 彼らの母語である広東語で乾杯の挨拶をすることにした。考えただけで足がすくむ思いだった が、同時にワクワクもした。まず、英語でスピーチ原稿を書き、家庭教師に頼んで英語の原稿 を広東語に訳してもらい、さらに音声データ化してもらった。その後、音声データをプレイリ ストに載せ、暗唱できるまで、音楽を聴くように繰り返し聴くと共に、新郎に気づかれないよ う、食料品店へ買い物に行く道すがら、何度も声に出して練習した。  しかし、乾杯の挨拶の後に義母に語学力を試されるだろうと考えたサラーマリアは、「脳の スパミング」と自身が呼ぶ方法で、さらなる練習に励んだ。広東語のポットキャストを聴き、 広東語の映画を観た。周囲に気づかれないように毎日、広東語の家庭教師と会話の練習を重ね た。自己紹介で単語を間違えた時の恥ずかしさ、スピーチ暗唱で声調を間違った時の悔しさな ど、あらゆる不快感を受け入れて失敗と正面から向き合った。言葉に詰まったりする夢にうな されることさえあった。そのたびに、不快感や失敗こそが学習の証なのだと自分に言い聞かせ た。その結果、サラーマリアは結婚式で広東語の九つの声調を正確に操り、素晴らしい挨拶を 披露した。広東語しか話せない新郎の祖母とは、冗談を交えながら談笑するまでになった。義 理の両親は、サラが時間をかけて広東語を習得し、彼らの文化に敬意を示してくれたことに深 く感動した。  コミュニケーションとは、図書館に匹敵するほどの膨大な知識を得てから始めるものではな い。知識はコミュニケーションの過程でこそ増えていくものだ。では、会話を始めるのに、ど れほどの知識が必要なのか? サラーマリアは、初めから臆せず人々に話しかけるという。以 前は上級レベルの知識がないと話せないと思っていたが、今では「待つことをやめてすぐに話 し始めるよう、皆を説得しています」という。むろん、そのためには恥をかく覚悟も必要だ。  「文を一つ二つ覚えるだけでいい。短い自己紹介をして、なぜその言語を学んでいるのかを簡 単に説明するだけでいいんです」  この助言はペニー・ルイスの人生を変えた。スペイン滞在中、ペニーは愛読書『ロードーオ ブーザーリング』のスペイン語版を買い、辞書を片手に翻訳してみた。最初のIページを訳し 終えるのに一週間を費やした「よしIページが片づいた。残り七百ページだ」。半年が経って もスペイン語は一向に上達せず、ペニーはようやくある事実に気づいた。それまで多様な学習 法を試みてきたが、実際にスペイン語を「話す」ことは全くなかった。  そこでペニーは、第三の勇気を出した。不快感を探し求めて受け入れるだけではなく、あえ て多くの失敗をおかすことで不快感を増幅したのである。    「恥ずかしさ」「恐れ」をどう克服するか  私が、いとことコスタリカに旅した時のことだ。長い(イキングの後にレストランに入ると、 いとこは搾りたてのオレンジジュースがおいしそうだと言った。彼がスペイン語で注文した途 端、ウェイターは耐えきれず笑い出した。注文したのはugo de naranjajではなく「fruto de periodicoj’つまり「新聞の果物」だったからだ。  習いたての外国語を初めて使おうとしたことが、あなたにもあるだろうか? おそらく、不 安や緊張で心臓がドキドキしたことだろう。言葉がスムーズに出てこなければ恥ずかしいし、 うっかり無礼なことを言って、相手を怒らせるかもしれない。私の妻のアリソンは、高校時代 に日本語を学んだことがある。ある年、クラス全員でレストランに行き、日本語で注文するこ とが学期末試験の一環だった。問違いをおかして落第点を取ることを恐れた彼女は、仮病を 使ってその場を逃れた。ここでもまた、勇気が求められるのだ。外国語を話す練習では、どん なに気まずい思いをしようとも、失敗を重ねる必要がある。失敗は多ければ多いほどいい。  だからこそ、子どもは大人よりも速く外国語を吸収できるのだ、とサラーマリアは言う。確 かに、子どもの脳は柔軟で(発達途上の脳は成熟した脳よりも迅速に情報を書き換える)、既 存知識による干渉も少ない(言葉の文法に囚われない)。加えて、子どもは、羞恥や失敗への 不安といった感情に大人ほど左右されない。コミュニケーションをとることに躊躇がなく(い くつかの単語を覚えると、すぐに片言で話し始める)、兮‥葉を発する時に自分を愚かしいと感 じたり、他者の反応を過度に恐れたりすることもない。「新聞の果物」のような間違いも、臆 することなく連発するだろう。  失敗について思いを巡らせるのは苦痛である。とりわけ内気な人問にとっては、なおさらだ ろう。「恥ずかしい」というのは、社会的な状況において否定的な評価を受けることへの恐れ に他ならない。ペニー・ルイスは極度の恥ずかしがり屋だった。十代の頃は人づき合いが苦手 で、パーティでは早々に部屋の隅へ逃げ込み、携帯電話のゲームで時間を潰していた。外国語 の授業では、率先して発言することもなかった。スペインに住み始めた当初も、居心地の悪さ を回避するため、英語を話す人々とばかり交流していた。  セラピストは恐怖症治療を行なう際、患者の状態に応じて二種類の曝露療法を使い分ける。 一つは「系統的脱感作法」、もう一つは「フラッディング法」(洪水療法)である。  系統的脱感作法とは、まず不安を感じる程度が低い対象に身を晒し、慣れるに従って徐々に 負荷を高めていく手法である。例えば、クモ恐怖症であれば、まずクモの絵を描き、それに慣 れたら、部屋の反対側に置かれたゲージ内のクモを見つめる、というように段階を踏んでいく。 不安強度の低い状況下で、不安に身を置くことに徐々に慣れると共に、自身が抱く恐怖心に対 処する方法を学んでいくのである。そうすることで、いずれは入浴中にアシナガグモに遭遇し ても、取り乱さなくなるかもしれない。  フラッディング法は、その逆のアプローチを取る。例えば、セラピストがいきなりクモを患 者の腕に這わせる、といったこともある。もちろん、患者は瞬間的にパニックに陥るだろうが、 その強烈な試練を無事に乗り越えると、本能的な恐怖は次第に薄らいでいく。  曝露療法とは、意図的に不快感を増大させることによって、結果的にその不快感を軽減させ ていく治療法なのである。  極端な例として、パイロットの飛行訓練を挙げておく。飛行中、一番の恐怖は航空機の主翼 が十分な揚力を失って失速し、急降下することだろう。多くは、飛行速度の過度な低下や、上 昇中の機首の上げすぎといった、パイロットの操作ミスが原因である。旅客機の致命的事故の 一五パーセント、そして自家用機の墜落事故の約二五パーセントは、失速が原因であるとされ ている。自らが操縦する航空機が墜落する悪夢にうなされるパイロットは少なくない。  パイロット訓練生は、まずフライトシミュレーターを使って系統的脱感作法を経験する。フ ライトシミュレーターは、失速を航空力学的および感覚的に(例えば、落下開始時の操作手順 や、その際の水平線の見え方など)体験し学ぶ上で最適なのである。しかし、実際に操縦室に 座ると、突如として教官から身の凍るような指示が飛んでくる。  「速度を落とせ。そして操縦桿を引いて、失速するまで機首を上げろ」  失速の恐怖は、フラッディング法によってしか体験できない。たとえ事前に何度もシミュレー ターで練習を重ね、実際は数千フィートの上空では進路修正の時間が十分にあると理解してい ても、情動を司る扁桃体(脳内の情動の中枢とも呼ばれ、不安や恐怖といった感情に深く関 わっている神経細胞の集まり)は容赦なしだ。機体が地上へ向け急速に垂直降下する中、訓練 生は巨大な金属製の檻のような操縦席に閉じ込められたままである。しかし、意図的に飛行機 を石のごとく落下させるといった方法以外に、人を究極の恐怖に備えさせる術はない。  アメリカでパイロットライセンスを取得するには、飛行機を巧みに操縦し、失速状態から機 体を回復させ、安全に着陸させるまでの一連の技能を備えていることを、実技試験で証明する 必要がある。効果的な訓練プログラムには、学習者が経験したことのない、予想不可能な脅威 が意図的に組み込まれている。このような不意打ちの重要性は、数多くの研究によって証明さ れている。もし、失速訓練が予測可能な定型的なものになれば、実際の緊急事態に即応できる 能力を訓練生に習得させることはできない。あらゆる状況に備えた訓練を経なければ、準備万 端とはいえないのである。パイロットは、恐怖感を意図的に増幅させる経験を通じて、それに 耐え、そして克服する術を学ぶのだ。    失敗は成果を上げるための「経験値」  ペニー・ルイスにとってもまた、不安を意図的に増幅させる経験は新たな言語を習得する上 で不可欠だった。極度の恥ずかしがり屋で消極的な性格を改善するために、ペニーはまず系統 的脱感作法を採用し、不安の程度が弱い場面から段階的に挑戦していった。緑のレプラコーン (ツト(アイルランドの伝説上の妖精が被る緑色の山高帽)を被ってスペインの街中を歩いた り、ディスコライト風フィルター付のレーザーポインターを手にコンサートへ出かけたりと、 まずは見知らぬ人たちから話しかけられるような状況を自らつくり出した。その後、騒がしい イベントでは耳栓を配ったり、バーで見知らぬ人たちと杯を交わしたりするうちに、他者との 交流にも徐々に慣れていった。その結果、半年間のスペイン滞在でスペイン語が流暢に話せる ようになり。その後、新たな外国語を習うための拠点をイタリアに移し、これが転機となり、 ペニーは言語習得のスペシャリストになっていく。新たな外国語を学ぶ際には、数カ月以内に 見知らぬ人と会話ができるレベルに達すること、かつその習得法を人々に伝授することを目標 に掲げ、その目標を達成するためにフラッグィンク法を取り入れた。  ペニーはこれを「ソーシャルースカイダイビング」と呼んでいる。行ったことのない国に到 着すると、周囲の見知らぬ人に思い切って話しかけるのである。そして、単なる雑談をするの ではなく、会話がより有意義なものに進展するよう、一歩踏み込んだ試みを行なうのだ。  例えば、白分か以前住んでいたバレンシアの出身であるスペイン人と知り合った際には、ス ペイン語でバレンシアのご当地ソングを歌い出した。ブラジルのホテルにチェックインした際 には受付係と対話を始め、白身もローマのホテルで働いた経験があり、残業が多くて薄給だっ たことなどを語った。「語学とは知識の習得だと信じている学習者は多い。でも、それは大き な勘違いだ。新しい言語を学ぶことは、コミュニケーションカを磨くことなんだ」とペニーは 一百’つ。  「学び」とは、間違いを発見し、それを修正・ 回避することだと考えられがちだ。しかし、ペ ニーは、外国語を流暢に操りたいのなら、間違 いを回避するのではなく、むしろ積極的に間違 いを重ねるべきだ、と確信している。  そして実際、彼の主張は正しい。数多くの研 究報告が示すところによれば、無作為に選ばれ た学生たちが新しい知識を習得する際、事前に 正しい解答を与えられず、あえて誤答を経験さ せられた者のほうが、後の試験での誤答が少な い傾向にあるという。人は失敗を経験するよう に促されると、かえって失敗しなくなるものな のだ。早い段階で間違えることで、正しい答え を記憶しやすくなる。その結果、学習意欲が高 まり、継続的に学ぶことができるのだ。   一日に二百以上の間違いをするI新たな言 語を学び始める際、ペニーはこんな野心的な目 標を掲げる。そして、進歩の度合いを失敗の数によって測るのである。  ペニーは自身の経験から、「失敗の数が多ければ多いほど、失敗への恐れは薄れ、進歩は速 まる」と語る。そして、「数多くの失敗を経験することこそが、不安に対処する最善の方法な んだ」と。  この過程において、彼が気まずい状況を生み出してしまったことも一度や二度ではなかった。 自己紹介の際に白身を女性として紹介してしまったり、「バスに恋している」と言ってしまっ たり、意図せず他人のお尻を褒めてしまったりといったこともあった。そのような時でさえ、 ペニーは自身を責めることはない。なぜなら、失敗すること自体が目標だからである。たとえ 失態を演じても、周囲の人々はたいてい彼の努力を称えてくれる。それが彼の意欲を高め、さ らなる努力を促すのである。  心理学において、専門家はこうした循環を「学習によって獲得される勤勉性」と呼ぶ。努力 が認められ賞賛されると、努力を費やす行為に伴う肯定的な感情が二次的に強化される。その 結果、人は努力を継続するよう自身に強いるのではなく、自ら進んで努力したいと思うように なるのである。  初日から話し始めるという発想は、学習に対する私の見方を一変させた。であるならば、プ ログラミングも、人に教えたり指導したりすることも、初日から実践可能なのではないか。ス キルを磨く前に安心感を求める必要はない。安心感とは、スキルを磨く過程でこそ醸成されて いくものだからである。  数年前、サラーマリアは家族のネットブリッグスのアカウントで、誰かが韓国ドラマを視聴 していることに気づいた。それは彼女の父親だった。韓国に住む娘を訪ねた際、その文化に魅 了され、密かに韓国語を学ぼうと決意したようである。現在、七十七歳という年齢でありなが ら、語彙や文法を娘の助けを借りつつ着実に習得している。  サラーマリアは言う。「父は韓国語の知識が豊富で、読み隶‥きの練習も重ねていました。で も、怖くて話せなかったから話すことができずにいたのです。今ではようやく、私と少し会話 ができるようになりました」と。  現在、サラーマリアは言語および翻訳サービスを提供する企業を設立し、CEOを務めてい る。学ぶのに遅すぎるということは決してない、と彼女は言い切る。肝心なのは、不安に身を 置くことを恐れないこと。その勇気は周囲へと伝播していく、と。  新たな目標を掲げても、心の準備が整うのを待っていては、目標は永遠に達成できない。あ る朝、目覚めたら突然心の準備が完了していた、などということはあり得ないのである。困難 を克服する力は、挑戦する過程においてこそ培われるものなのである。       生き残るのは、もっとも賢いものではない。       もっとも強いものでもない。       変化にもっともうまく適応できる種こそが、存続するのだ。                     レオン・C・メギンソン(経営学者) 「人間スポンジ」のように生きる Iあらゆる経験を、成長の糧に変える  およそ五億年前、自然の猛威が地球に大災害をもたらした。火山が大噴火して火山灰が大気 中に放出され、リンが海洋へ流出。大量の氷床が繰り返し形成されては融解し、酸素濃度は急 降下した後に、急上昇した。当時生息していた全生物種の少なくとも四分の三が絶滅したと考 えられている。これは地球史上、最古にして最悪と目される大量絶滅事変の一つで、恐竜を絶 滅させた事変よりも壊滅的であったとさえ言われる。  しかし奇妙なことに、当時、少なくとも一種の生物が生き残り、しかも繁殖を続けた。海綿 (スポンジ)である。彼らは海底に森のごとく群生し、大いに繁栄した。アニメキャラクター のズボンシーポフのミームがインターネットを席巻する遥か以前から、海綿こそが海洋の支配 者だったのである。  発見当時、研究者たちは海綿を植物の一種と見なしていた。海綿は概して茂みのような形態 を取り、ほとんど動かない。脳も神経もなければ、特定の臓器や筋肉もない。しかし、海綿は 生息に太陽光を必要とせず、動物と同様に摂食する。今日では、海綿を最も原始的な動物群の 一つと見なす学者が多数派を占める。 「海綿」と聞けば、食器洗い用のスポンジのように、まわりのものすべてを吸い込む姿を思い 浮かべるかもしれない。しかし、生物としての海綿は、ただ受動的に食物や酸素を吸収してい るだけではない。有毒な物質や、体によくない粒子を濾過することにも長けているのだ。鞭毛 と呼ばれる、ごく小さな毛のような器官が水流をつくり出し、栄養分を捕らえ、バクテリアを 排出するのである。体壁から水を取り込むと、上部にある口のような小さな開口部から排出す る。驚くべきことに、くしゃみをするように、体中の孔から粘液を噴き出すことまでやって のける。  海綿類の中には、二千年以上も生きてきた種もあるという。その体は柔らかく多孔質だが、 骨格構造は強靭で耐久性に富む。強い海流によって損傷したり、捕食動物に食害されたりして も、流失したり死滅したりすることはない。一部の種は、芽球から細胞を再生させる能力を持 つ。  このように、吸収し、濾過し、環境に適応する能力こそが、海綿の生存と繁殖を可能にして いるのだ。そして、これらの能力は人間にとってもまた、極めて重要なのである。  「スポンジになる」とは、単なる比喩ではない。それは、性格スキルの一つである「積極性」 を獲得することを意味するのである。積極性は、内に秘めた可能性を解き放つために不可欠な スキルである。この性格スキルの向上は、「求める知識の量」ではなく、「吸収する知識の質」 に左右される。  要するに、費やした努力の量よりも、いかに質の高い学びを得たかが、成長へとつながるの である。    努力の「効果」を高めるためには  シングルマザーの家庭に六人兄妹の末っ子として生まれたメロディーホブソンは、シカゴで 過酷な幼少期を過ごした。母親に経済的な余裕はなく、支払いも滞りがちだった。ヤカンで沸 かした湯を浴槽に注いで入浴するしかないことすらあった。学校から帰宅すると、電気や電話 が止められていたことも一度や二度ではなかった。母親が生活費の捻出に四苦八苦する中、金 融危機が起こり、一家は電気やガス、水道などのライフラインを絶たれた上、車を差し押さえ られ、家賃滞納により立ち退きを強いられたことも度々たった。  メロディはアイビーリーグの大学の一つに進学すると心に決めていた。とはいえ、その時点 で既に学力面では同年代の子どもたちに後れを取っていた。小学校入学当初は、なかなか環境 に順応できず、集中力にも欠けていた。さらに、読み書きに困難を抱えていたため、補習授業 を受けなければならなかった。  メロディはプリンストン大学への入学を果たし、今日では成功した投資会社の共同CEOで あり、スターバックスの元会長でもある。米タイム誌の「世界で最も影響力のある百人」の一 人にも選出されている。近々完成予定のプリンストン大学の学生寮の一つには、彼女の名が冠 されるという。これは、黒人女性としては初の栄誉だ。  メロディがどうやって逆境に打ち勝つたかを人々に尋ねたなら、誰もが彼女の伝説的な勤勉 さを挙げるだろう。小学生の時、彼女の乗っていた通学バスが事故に遭った。同級生たちが家 族の迎えを待つ中、メロディは徒歩で登校した。高校時代、常時全教科でA(五段階評価の最 高評価)の成績を維持すると共に、生徒会執行部でも精力的に活動した。卒業アルバムの寄せ 書きページの校正責任者を務め、薬物乱用防止クラブの会計と副会長も務めた。放課後には、 ボランティアで地元の小学生たちに学習支援も行なった。  メロディの成功は、無一文から大金持ちになった典型的なアメリカンーサクセスストーリー を彷彿とさせるだろう。一世紀前、偉大な社会学者マックスーウェーバーは、プロテスタント 的な勤労モラルを持つ者こそが著しい成功を収めるのだと説いた。宗教改革以前、労働は必要 悪と見なされていたが、幸いなことに十六世紀のマルティンールターの教えによって労働観に 変化が生じ、労働は神から与えられた使命だと考えられるようになった。よきプロテスタント は生産性の高い労働を通じて社会に貢献し、道徳的責任を全うすべきである、という見方が広 がった。意志力や自己統制力は美徳とされ、無為や浪費は悪徳とされた。その影響で、今口、 がむしやらに突き進むこと、歯を食いしばって努力することが善であると信じて疑わない人が 多くいるのだろう。しかし実際のところ、大いなる進歩は費やされた労苦の量よりも、むしろ その過程で得られた経験によってもたらされるのである。  近年、経済学者サッシヤーベッカーとルドガー・ヴェスマンは、宗教改革が与えた影響につ いて大規模な調査を行なった。宗教改革によって生じた労働観の変化は、人々の成功に大きな 影響を与えたのだろうか。まず二名は、プロテスタントの教えが広まるにつれ、各国の経済が 向上した事実を突き止めた。だが、それは必ずしも人々がより勤勉になったことだけが要因で はなかった。  プロテスタント主義が根を下ろした地域の多くは、宗教改革以前、カトリック教会の強い影 響下にあった。当時、カトリック教会は聖書の解釈を独占し、信者は概して教会の教説をその まま受け入れていた。この状況に異を唱えたのがマルティンールターである。ルターはラテン 語で書かれていた聖書を独力でドイツ語に訳し、すべての街のすべての学校で子どもたちに聖 書を読むことを教えるべきだと説いた。ということは、人々はまず文字を読むことを学ばなく てはならなかった。文字が読めるようになると、多くの知識や情報へのアクセスが容易になっ た。聖書の教えに留まらず他の分野の知識も、より迅速に習得できるようになった。ベッカー とヴェスマンは、宗教改革がもたらした経済的発展の原動力となったのは、信者の労働倫理感 よりも、識字能力の向上であったと主張している。  次の二つのグラフに注目してほしい。いずれも横軸は一九〇〇年における各国のプロテスタ ントの割合を示している。次ページのグラフは一人あたりのGDP(国内総生産)、88ページ のグラフは識字率との相関関係を表わしている。北欧の国々ではいくつかの例外があるものの (詳細は後に述べる)、正の相関関係はほぼ一致している。  プロテスタント人口の比率の低い国々(例え ばブラジル、イタリア、メキシコなど)は、経 済成長率も識字率も低い傾向にあった。一方、 宗教改革が浸透した国(ドイツからイギリス、 スウェーデンに至るまで)は、比較的高い経済 成長率と識字率を示した。  むろん、これらの国々は非常に多くの点にお いて異なり、それらごく少数の国々をサンプル とした相関関係のみから因果関係を特定するこ とはできない。  そこでベッカーとヴェスマンは、ドイツ帝政 期における四百五十以上の領邦を対象にした自 然実験を行なった。二人はまず、宗教改革の中 心となった街がヴィッテンベルクであることと、 対象領邦における宗教改革以前の教育水準、経 済的発展が、ヴィッテンペルクからの地理的距 離とは無関係だったことを確認した。ヴィッテ ンベルクの近隣の領邦はプロテスタント主義の 影響をより強く受ける傾向があるため、この地 理的要因が彼ら研究者を異なった結論へ導くか どうかが焦点となったのである。  さて、結果は以下の通りである。宗教改革運 動の中心地に近ければ近いほど、人々の平均所 得および識字率は高い傾向にあった。さらに、 識字率の影響を統計的に調整した後は、ヴィッ テンベルクからの距離と高所得との間に相関関 係は見られなくなった。したがって、宗教改革 の中心地近隣の住民の所得が増加した主たる要 因は、識字能力の獲得にあったことは明白であ る。  ここから得られる教訓は、示唆に富むもので ある。私たちが日頃、多大な努力の成果と考え がちな進歩も、実は、その努力の量よりも、い かに賢明かつ効率的に取り組んだかという「努 力の質」や「方法」のほうが大きく影響してい るのかもしれない。  学習において、真の成果を上げるには、情報を理解し処理する「認知スキル」が、その賢明 さや効率性を支える基盤として不可欠である。そして、読み書き能力のような基礎的な認知ス キルは、物事を深く理解し、自ら考えて行動するための「性格スキル」(例えば、情報を積極 的に吸収し応用する力や、困難に立ち向かう意志力など)を効果的に育むことができる。その 結果、より積極的に、より多く、そしてより速く学ぶことが可能となるのである。人間は、新 たなアイデアを吸収し、旧弊なものを淘汰(濾過)する能力を高めるにつれて進歩していくの である。  認知スキルは情報を取り込み理解する能力を増幅させ、我々が「スポンジ」となるための基 盤を築く。そして、我々が「スポンジ」のように吸収力を高めていくと、より大きな目標を達 成する能力が培われるのである。ミュージカル『「ミルトン」の一節にもある通り、「自発的 に行動すれば、より偉大なことを達成できる」のである。これこそが、まさにメロディーホブ ソンが体現したことであった。    何でも吸収して成長していける人  メロディが読み書きを習得したのは、小学校二年生の時だ。同年、作文コンテストで入賞し、 賞品としてE・B・ホワイトの『シャーロットのおくりもの』という本をもらった。それは彼 女にとって初めて手にする児童書で、分厚く難易度も高かったが、隅から隅まで読んで、知ら ない言葉の意味をすべて学ぼうと決意したのである。  新たな言葉も、自分を取り巻く世界も、すべてを学び吸収したいというメロディの渇望は、 年齢を重ねると共にますます強くなっていった。大学時代のある夏、メロディはその飽くなき 探求心に導かれ、ジョンーロジャースのもとでインターンとして学ぶ機会を得た。ジョンーロ ジャースは、今日マイノリティ経営の中で全米最大手ともいわれる投資信託会社の創業者だ。 当時、ロジャースは毎週土曜日の朝にマクドナルドで新聞を読むのを習慣としていたため、メ ロディは彼に会うべく(すでに朝食をすませていたとしても)せっせとマクドナルドに迦った。 これが、彼女が株式投資を学び始めるきっかけとなった。  「投資の世界に足を踏み入れた時点で、彼女はすでに私以上にウォーレンーバフェットについ て詳しかったよ」とロジャースは回想する。そして、「関心を抱いた金融界のすべてを学ぼう と、目を輝かせていた。メロディはまさにスポンジだった」と。  そのスポンジのような特性こそ、私がメロディに抱いた第一印象だ。彼女と初めて会ったの は十年前、自分の研究に関するプレゼンテーションを大勢の著名人の前で行なった時だ。会場 は、オスカーを幾度も受賞した映画監督や、テクノロジー業界の大富豪といった錚々たる顔ぶ れで埋めつくされていた。その中で、私に最も多くの質問を投げかけ、かつ唯一熱心にメモを 取っていたのがメロディだった。情報を探し求め吸収する力において、彼女に勝る人はいない だろう。その積極的な姿勢は、単なる好奇心から来るものではない。社会科学で「吸収能力」 と称される資質が、彼女の場合、ずば抜けて高いのだ。  吸収能力とは、新たな情報を認識し、評価し、消化し、応用する能力を指す。この能力は、 主に二つの傾向に左右される。  第一に、情報をどのように捉えるかである。視界に飛び込んでくる物事をそのまま受動的 (リアクティブ)に受け入れるのか。それとも能動的(プロアクティブ)に、新たな知識やス キル、見解を探し求めるのか。  第二に、情報をふるい分ける際に、何を達成しようとするかである。自己中心的に、情報に よって自らのエゴを満たそうとするか(エゴ駆動型)。あるいは、情報を自己の成長の糧とし ようとするか(成長志向型)。  「受動的」で「自己中心的」なタイプは、短絡的な学習(事の本質を深く追求したり、長期的 な視点で知識を積み重ねたりすることのない学習)には適しているといえるかもしれない。こ のタイプは、フィルターバブル(インターネット上で好みの情報しか目に触れなくなる現象) に陥りやすい。新しい情報を選り好みし、白身の既存観念を揺るがす情報や意見は拒絶する。 言い換えれば、精神的に脆く、それゆえに多くを学び取ることができない。  「能動的」でありながら「自己中心的」なタイプは、より多くの情報に対して門戸を開く。情 報が自然に入ってくるのを待つのではなく、白分から他者の意見を求める。ただし、自身に向 けられる否定的な意見は、不快であるという理由から排除してしまう。建設的な批判にも耳を 貸そうとはしない。このタイプはテフロン加工の調理器具に似ている。すなわち、何も付着し ない(身につかない)のである。  「受動的」でありながら「成長志向」である夕 イプは、他のタイプの人より効果的に学べる。 向上心を持ち、入ってくる情報に素直に反応す るので、「粘土」のように柔軟に形を変えるこ とができる。このタイプは、指導しやすい、教 えがいがあると評価されることが多い。自尊心 を傷つけるような批判に対しても比較的耐性が あり、不快感と向き合い、白身の成長につなが る意見や情報は貪欲に取り入れる。  しかし、容易に入手できる情報には反応する ものの、それ以上の情報を積極的に探し求めよ うとはしない。そのため誰かが手を差し伸べ、 方向性を示してくれないと、成長は望めない。 進歩するために、他者の指導に頼る傾向があり、 自力で学ぶことはほとんどない。  最良の結果を出すのは、「能動的」かつ「成 長志向」の人間である。このタイプはまさに「スポンジ」である。自らの可能性を広げ、環境 に適応しようと常に積極的に行動する。この性格スキルは逆境に直面した時、とりわけ大きな 力を発揮する。その好例として、アフリカ出身の二人の若きアスリートを紹介する。    「才能」と「意欲」、どちらが遠くへ行けるか  ジュリアスーイェゴは、電気も車もないケニアの小さな農村で育った。幼少期、兄と棒投げ をして遊び、どちらが遠くまで飛ばせるか競うのが好きだった。将来は優秀なやり投げ選手に なろうと、既に高校に入る前に心を決めていた。とはいえ、トレーニングに適した施設を利用 できる環境になく、理想的なトレーニング法も知らず、必要な練習器具もなく、指導者すらい なかった。ジュリアスはたった一人で練習を重ね、独力で可能な限り技術を磨いた。だが、最 大の好敵手に対しては、圧倒的に不利な状況に置かれていた。  一方、イ(ブーアブデルラーマンはエジプトの貧しい村に生まれ、家族はスポーツに無関心 たった。十七歳になるまで、彼が知るスポーツはサッカーのみだった。ある教師の勧めでやり 投げを始めると、初めての試合で優勝。それからほんの二年の間に、世界ジュニア大会で銀メ ダルを獲得するまでに成長した。  経歴だけを見れば、ジュリアスとイ(ブには共通点がたくさんあるように思える。二人とも アフリカの小さな村の出身だ。機会に恵まれない環境において、スポーツは生活を向上させる ための手段だった。二人とも幼少期にサッカーに親しみ、後に陸上競技に転向してやり投げに 夢中になった。しかし、体格は、少年ダビデと巨人ゴリアテほどの差があった。  やり投げは、まさしく力と技の競技である。早くから、あるトップコーチがイ(ブの腕を見 て、「今まで出会った中で、最高の逸材だ。体が大きくて力強いし、天賦の投擲センスがあ る」と言った。身長百九十三センチ、体重九十六キロと、イ(ブの体格はアスリートとして理 想的だった。  一方、ジュリアスにはそのような身体的な優位性はなかった。身長百七十五センチ、体重は ほんの八十四キロと、生まれながらの強者ではない。イ(ブに勝利するには後天的に最強の選 手になる必要があった。  二〇一〇年、七年間の孤独な練習を経て、ジュリアスはついにアフリカ選手権でイハブと相 見えた。銅メダルを獲得したものの、金メダルはイ(ブに奪われた。その上、当大会における ジュリアスの最高記録は、イ(ブの自己最低記録にさえ及ばなかった。  翌年の全アフリカ選手権でのことだ。ジュリアスは金属製のやりを手に取り、助走路の端に 立った。肩の上にやりを構え、投擲ラインへ向かって走り出す。だが、勢いよく腕を振り切っ てやりを放った瞬間、バランスを崩してよろめいた。  ジュリアスはなんとか体勢を立て直し、自分の放ったやりがフットボール競技場ほどの距離 を飛んでいくのを見た。自己最高を記録した上、これは国内新記録だった。  ジュリアスは初の金メダルを獲得。一方のイハブは、この大会を五位で終えた。その日、 ジュリアスの投擲動作はベストではなかったも のの、イ(ブのベスト記録を破るのには十分 たった。ダビデがゴリアテを敗ったのである。  ジュリアスの軌跡を、イ(ブ、そして 二〇〇八年の世界ジュニア選手権で上位入賞を 果たした選手たちと比べてみよう。上のグラフ は、主要大会での各選手の自己ベスト記録の推 移を示すものである。イ(ブや他の選手は年を 重ねるにつれて、進歩が鈍化し、停滞し、ある いは後退さえしている。これに対し、ジュリア スの記録は着実に右肩上がりで伸びている。し かも進歩の速度が著しく速い。  イ(ブは、指導しやすいタイプの選手だった といえる。奨学金を受けて、やり投げの強豪国 として世界的に知られるフィンランドに拠点を 移し、トップコーチのもとで練習に励んだ。彼 はアドバイスに耳を傾け、自身の技術を改善し、 投擲速度を高めていった。  しかし、イ(ブは「スポンジ」ではなく「粘土」だった。彼のアプローチは能動的(プロア クティブ)ではなく、受動的(リアクティブ)たった。エジプト政府からの資金援助が途絶え、 フィンランドでのトレーニング継続が不可能になると、独力で学ぶ道を模索しようとはせず、 トレーニングから完全に離れ、再開したのはなんと五ヵ月後たった。  対照的に、ジュリアスは自力で成功を掴み収った。指導者は? と問われると、彼はこう答 えた。「ユーチューブさ」  二〇〇九年、ジュリアスはインターネットカフェに通いつめ、やり投げのトップ選手たちの パフォーマンスをユーチューブで研究し始めた。彼らの技術を注意深く観察し、そこから得た 知見を自身のトレーニングに取り入れた。「練習のすべてが変わり始めました。やり投げには 技術、筋力、体の柔軟性、そしてスピードが不可欠ですが、それらの要素の中で私が見逃して いた点はたくさんあった」とジュリアスは言う。  二〇一五年、ジュリアスは世界陸上競技選手権でついに優勝を果たす。九二・七ニメートル と、過去十四年間における自己ベストをたたき出し、世界歴代三位の記録を樹立した。  フィンランドで数カ月間トレーニングした時を別にすれば、ジュリアスは一貰して独学で技 術を磨き続けた。進歩に必要とあらば、情報や知識を積極的に探し求めた。当初、彼の投擲ス タイルは非正統的で荒削りなものだった。他の選手とは異なり、やりをリリースする際に両足 が宙に浮き、顔而から着地するようなフォームだった。その動きはブレイクダンスのワーム (芋虫の動きを模倣したダンス)のようだった。彼は見て学んだことをすべて吸収する一方、 自分の独自のスタイルに適合しないものは削ぎ落とし、世界一を目指して自分のリリースの フォームとタイミングを改善していった。  二〇一六年、ジュリアスは高い志を掲げてリオデジャネイロオリンピックに出場する。だが 不運にも鼠蹊部の負傷により、決勝では辛うじて一投したものの、残る五投は棄権した。それ でも、八八・二四メートルで銀メダルに輝いたのである。  独学による自己流のアプローチは、ある特定の学習分野においては、有効なこともある。例 えば、やり投げのような身体的技能であれば、技術を客観的に観察し吸収することで、大きな 進歩を遂げることも可能だ。しかし、人生の多くの場面でもそうだが、真にIスポンジ」とな るためには、他者の主観的な意見をより多く取り入れて、吟味しなければならない。私自身も、 この道に入って早い時期に経験したが、フィードバックを求めても得られないこともある。実 のところ、有益な情報を収集するのは、思うほど簡単ではないのである。    「受け入れがたい真実」を乗り越えていくには  「お前はこの場にふさわしくない」  大きくはっきりした声が私の頭の中で響いた。吹き出す汗でシャツが湿り、緊張で胸がざわ めく。壇上に立つことは、大の苦手だった。恥ずかしがり屋で内向的だった私は、子どもの頃、 授業中に手を挙げるだけでも緊張した。発信者番号通知機能がまだなかった時代には、かかっ てきた電話に出る時でさえ声が上ずる始末だった。  大学院時代、私は人前で話すことへの恐怖を早いうちに克服しようと自分に誓った。比較的 無難な曝露療法を段階的に試していく時間の余裕がなかった。そこで、フラッディング法を用 いて、最初からあえて恐怖に向き合うことにし、友人たちが履修する学部課程の授業で、無償 のゲスト講師として講義を行なうことを申し出た。学ぶためには、友人たちからの有益な助言 が不可欠だと考えたからだ。だが、講義後に彼らにフィードバックを求めても、「興味深い内 容だった」「熱意が感じられた」といった漠然とした褒め言葉しか得られなかった。  他者に対して意見を持つ場合、それが相手にとって有益であっても、人は往々にして口をつ ぐんでしまう。例えば、友人の歯に食べかすがついているのに気づいても、それを本人に伝え ることに躊躇する。私たちは、礼儀正しさと親切とを混同しがちだ。礼儀正しさとは、相手が 今この時を気分よく過ごせるように、自分の意見や感想を控えることである。対して、親切と は、相手が将来、よりよくなるために、率直な意見を伝えることだ。  伝え方に配慮する必要はあるが、率直に意見を述べることは可能である。「君に恥ずかしい 思いをさせたくないが、知らないでいるほうが恥ずかしいことだと思うから、あえて言わせて もらうよ。君の歯茎からブロッコリーが見え隠れしてるんだ」というふうに。  プレゼンの冒頭で、「今朝はよい天気ですね」と挨拶した際に、「それは素晴らしいご意見 だ」などと聴衆から声が上がるとしたら、それは非常に芳しくない兆候だ。受講生たちが臆せ ず私に意見を述べられるよう、私は匿名アンケート用紙を配った。何としても聴衆から得られ るものすべてを吸収し、無益なものは濾過する「スポンジ」になりたかったからだ。しかし、 事態は私の期待通りには運ばなかった。  学生たちは私の講義を酷評した。「緊張しすぎており、呼吸音がダースーベイダーのようだ」  その後、私はある一流大学で初めての教員採用面接試験に臨んだが、採用には至らなかった。 その理由は、数カ月後にようやく判明した。「君は自信に欠けている。だから学生からの敬意 を得られないんだ」と同僚が教えてくれたからだ。その翌年、アメリカ空軍で初めて指導者向 けの講座を開いた際は、複数の大佐から手厳しく非難された。「この講座で私か得たものは皆 無だ。むしろ講師である君のほうが我々から有益な情報を得ただろう」  皮肉なことに、その講座のテーマは、「不必要な批判がもたらす士気の低下について」たっ た。  批評家やチアリーダーになることは、誰にとっても容易い。しかし、真のコーチとなるのは、 そう簡単ではない。批評家は弱点を見つけ出し、一番痛いところを突く。そしてチアリーダー は長所を見つけ、最も素晴らしいところを称賛するだろう。だが、潜在能力を見抜き、成長を 後押ししてくれるのが、コーチなのである。  人前で話す技術を習得するには優れたフィルターが必要だ、と私は考えた。そこで、白‥分の まわりにいる批評家やチアリーダーたちをコーチへと変えていこうと決心した。しかし、過去 には既に、人々にフィードバックを求めて失敗した経験があった。実際、フィードバックの効 果が限定的と示唆する研究もある。  誰かにフィードバックを求めるよりも、アドバイスを仰ぐほうが有益なのである。というの も、フィードバックとは往々にして、前回のパフォーマンスのよし悪しといった「評価」に終 始しがちだからだ。これに対し、アドバイスは、「次回に改善すべき点」に焦点を当てる。複 数の実験が示すところによると、依頼の仕方を少し変えるだけで、より具体的かつ建設的な意 見を引き出すことが可能となる。フィードバックは、過去の誤りを指摘するに留まるかもしれ ないのに対し、アドバイスは、あなたが何を正せばよいのか、未来の正しい行動を指し示して くれるのだ。  私はアンケート用紙の質問を、フィードバックではなくアドバイスを引き出せるものに変更 した。「私の改善すべき点はどこですか? 一つ挙げてください」  途端に、受講生たちは有益な助言を与えてくれるようになった。例えば、「笑いが取れそう もないジョークはやめたほうがいい」。確かに、聴衆が私のとぼけたユーモアを理解してくれ るとは限らず、気まずい沈黙が流れると、私の緊張はいっそう高まる。また、「冒頭で少し個 人的なエピソードを織り込むと親近感がわく」という助言もあった。  確かに、私は自分のことよりも、聞き手ばかりに的を絞っていた。その結果、自分白身を彼 らから遠ざけてしまい、真のつながりを築けずにいたのだ。  十年間の練習を経て、私はTEDトークから登壇の依頼を受けた。壇上ではまず、ワービー パーカー(アイウェアブランドを展開するユニコーン企業)への投資機会を逃した自身の失敗 談から始めた。最初のジョークをくり出すタイミングは、開始から四十二秒後まで待ち、そし て見事に笑いを取ることができた。その後、もう一つジョークを試みたが反応は薄く、焦りか ら声がところどころで上ずる場面もあった。しかし、私のトークは総じてまずまずの出来だっ たと思う。それから五年間で三度、私は再びTEDのレッドサークルに立つ機会に恵まれた。 そして、私の中に濳むダースーベイダーは、ほんの少し顔を出す程度に収まったのである。  私はスピーチの後、毎回ホストに私の改善すべき点はどこかを尋ねることにしている。そこ で気づいたのは、すべてのアドバイスが等価ではない、ということだ。提案やアドバイスを授 かり、その数が増えるほど、取捨選択(フィルタリング)がいっそう大事になる。だがどうす れば、信頼に足るアドバイスを見分けることができるのだろうか?    「情報源として信頼できる人」の見極め方  メロディーホブソンは大学に入学願書を提出し、(Iバード大学とプリンストン大学の双方 から入学許可を得て、興奮した。プリンストン大学は新入生勧誘の一環として、各界で活躍す る卒業生を招いた朝食会に彼女を招待した。そこで彼女の隣席に配されたのが、NBA(北米 のプロバスケットボールリーグ)のスター選手から米国上院議員へと転身したビルーブラッド リーであった。ブラッドリーはメロディから質問攻めに遭いながらも、その旺盛な好奇心に感 銘を受け、彼女に助言を与えるようになった。  ある日の昼食の席で、ブラッドリーはメロディに厳しい意見を述べた。バスケットボール選 手時代、パスを出さずにドリブルからシュートまですべてを一人でこなそうとする有能な選手 を数多く見てきた、と前置きした上で、ブラッドリーは言った。「君にはその場を支配しよう とする傾向が見受けられる。よく注意しなければ、利己的で協調性のない人間になってしまう だろう」と。  この言葉を聞き、メロディの目には涙が溢れた。  批判を個人的に受け止めること自体は、必ずしも悪いことではない。個人的に受け止めると いうのは、辛辣な意見にも真摯に耳を傾けている証左なのである。たとえ気分を害したとして も、それが精神的な打たれ弱さや過剰な自己防衛の表われであるとは隕らない。大事なのは、 エゴに囚われず、自身の学びの道筋を見失わないことである。  「スポンジ」となるためには、どの情報を吸収し、何を無視するかを吟味することが鍵となる。 問題は、いかなるコーチを信頼すべきか、である。私は信頼性を、「配慮」「信憑性」「親密 性」という三要素に分類した。  対象者を気にかけていないコーチの意見に耳を傾ける必要はない。コーチに十分な専門的技 能や能力がなく、対象者の成果や潜在能力を正しく評価できないのであれば、その見解は信用 に値しない。その評価が誤りであることを証明 すればよいのである。しかし、対象者を気遣い、 その分野に精通し、対象者の能力を認めている のであれば、そのコーチは成長のための情報を 提供しているのである。  だからといって、すべての建設的な批判を受 容する必要はない。批判に同意できなくとも、 そこから学ぶことは可能である。評価の根拠を 理解しようと努めることで、次回に異なった評 価を得るための手がかりとなる情報を見出せる だろう。  フィードバックやアドバイスを受けるという 特権は、誰にでも与えられるものではない。  「利己的になるな」というビルーブラッドリー の警告を受けた時、メロディはそう考えた。今 ここで涙を見せれば、ビルは二度と私に助言を 与えてくれないであろう、と。ビルは私のため に時間を割き、私の可能性を信じるからこそ愛の鞭を振るってくれるのだ、私が成長するよう 手を差し伸べてくれているのだ、と自身に言い聞かせた。無論、ブラッドリーの言葉の信頼性 は疑いようがなかった。彼はバスケットボール選手時代も政治家時代も、貪欲で利己的な人物 を数多く目の当たりにし、その本質を熟知していた。メロディのメンターとなってからは、彼 女の長所も短所も明確に把握していたのである。  メロディは涙を堪え、代わりに何を改善すべきかについて助言を求めた。独りよがりな傾向 も、度を越さなければ、必ずしも害となるわけではない。しかし、彼女の並外れた吸収力は、 時として場の空気までをも吸い尽くしてしまう危険性を孕んでいた。そして、その学ぶことへ の強烈な意欲は、悪意がなくとも他者の発言を封じ込めてしまう可能性があった。メロディは、 情報に対する自身の渇望を表現する方法を、状況に応じて調整する必要があることを学んだの である。  メロディの前向きな姿勢は、ブラッドリーの指導意欲をさらに高めた。ブラッドリーは指導 を継続し、二人の絆はいっそう深まっていった。ブラッドリーの紹介でスターバックスの創業 者に引き合わされた後、メロディはその能力を認められ、同社の経営陣に名を連ねることに なった。自身の結婚式では、ブラッドリーのエスコートでバージンロードを歩んだ。母子家庭 で育った彼女にとって、ブラッドリーは父親にも等しい存在となったのである。  建設的な批判を受けた時、感情的に取り乱し、それを改善の糧とできずに終わる人は少なく ない。メロディは「順応性の高い者が勝者となる」という信条のもと、批判から学び取ること を固く心に誓った。他者に誠実な関心を寄せるよう努め、持ち前の吸収力を活かして、人々に ついて学ぶために積極的に質問を投げかけた。かつてコーチたちが自身にしてくれたように、 愛の鞭をもって人々の成長を後押ししたのである。これが彼女の大きな強みとなり、周囲から 高い評価を得るに至った。取締役としては、人々の視野を広げ、より深い思考を促すよう働き かけ、メンターとしては躊躇なく真実を伝えた。私白身も、これを直接体験する機会があった。  つい最近、私が新たなテーマで講演を行なった際、聴衆の中に偶然にもメロディの姿があっ た。講演後、彼女の同僚からは通り一遍の賞賛を受けたが、メロディからは問違いなく有益な 助言が得られるだろうと期待していた。そして期待通り、私が歩み寄ると、メロディはノート を片手に感想や改善点を率直に伝えてくれた。私の今後の課題は、聴衆が主題を見失わぬよう、 明確な一本の筋(スルーライン)を通すことである、と。  メロディは単に自身が情報を得るために講演を聴いていたのではなかった。聴衆全体が同様 に情報を吸収し応川できるよう、細心の注意を払って私の講演を評価し、アドバイスをしてく れていたのである。これこそ、「スポンジ」の特性の中で私が最も素晴らしいと感じる点なの である。    「スポンジになる」ことで習得できる社会的スキル  過去のある時点において、海綿動物は他の多細胞動物から分岐し、独白の系統樹を形成して いった。我々人類は海綿の直接の子孫ではない。しかし、海綿が動物の素晴らしい祖先であっ たことに変わりはない。  海綿類について調べていくと、私は吸収能力以上に驚くべき海綿の力に気づき、興奮した。 それは、医薬資源としての海綿の秘めたる可能性だ。海綿は、毒素を産生する微生物を取り込 むだけではない。海綿内部の微生物が特定の生理活性物質を生産し、その一部が抗癌剤や抗菌 薬、抗ウイルス剤、抗炎症薬など、人の命を守り生活の質を向上させるための薬として機能す ると考えられている。  カリブ海産の海綿から発見された物質は、HIVやヘルペスや白血病治療に画期的な進展を もたらした。日本で採取された海綿由来の物質からは、細胞分裂を阻害する化学療法薬が開発 され、進行性乳癌患者の延命に貢献している。また、南極海から採取された海綿に含まれるペ プチドを利用して、マラリアの抗感染症薬の開発も進められている。  こうした近年の臼覚ましい発展にもかかわらず、海綿動物が他の生命体に及ぼした最も偉大 な影響は、約五億年前に生じたと言われている。当時、新たな動物種が出現したのは海洋中の 酸素濃度上昇が原因であると、科学者たちは数十年にわたり信じてきた。  しかし近年の研究は、海綿動物がそのプロセスに貢献していた可能性を示唆している。水中 の有機物を濾過摂食することにより、海綿は海洋の酸素濃度を高め、結果として新たな動物種 の進化を促進したというのである。であるならば、海綿は、私たちが知る生命システム全体の 成立において、その一端を担っていたのかもしれない。海綿動物が存在しなければ、大類もま た存在しなかった可能性があるのである。  「スポンジになる」とは、積極性というスキルを獲得することだけでなく、社会的なスキルを 習得することでもあるのだ。これを正しく実践すれば、有益なものを吸収し、白身の成長を促 すことができる。しかし、それだけではない。吸収したものを他者に還元することにより、他 者の成長に貢献することも可能となるのである。       すべてのものにヒビはある。       光はそこから差し込んでくるのだ。                 レナードーコーエン(シンガーソングライター) 「完璧」という幻想を捨てる I欠点を受け入れ、成長の「最適点」を探る  日本で大規模な地震が発生したIその知らせが舞い込んだ時、安藤忠雄は地球の反対側に いた。  居ても立ってもいられず、空港へ駆け込み、ヨーロッパを発つ最初の便に飛び乗った。船で 神戸へ向かう間、過ぎゆく一秒一秒が重く感じられたという。自宅の被害も気がかりだが、そ れ以上に彼の心に重くのしかかる懸念があった。コミュニティは無事だろうか。安藤は神戸の 人々から厚い信頼を得、山麓の斜面に立つ集合住宅から仏教寺院に至るまで、数多くの建築設 計を手がけてきた。  安藤が案ずるのも無理からぬことだった。彼は建築家としての専門教育を受けていなかった のである。一九四〇年代前半、まだ日本が貧しかった時代に生まれ、木造平屋建ての長屋で祖 母に育てられた。凍てつく冬の日には、壊れた窓から吹き込む隙間風に震えていた。放課後の 午後や夜は、木材でボートをつくったり、ガラスを吹いたり、金属を加工したりして過ごした。 やがて近所の大工の手伝いをするようになり、いつか、自らの手で家をつくりたいと夢見るよ うになった。  経済的な事情から大学進学を断念し、独学で建築を学ぶことを決意した。家賃を支払うため いくつものアルバイトに明け暮れる中、時間を見つけては周囲の建物を丹念に観察した。建築 書を友人から借り受け、建築資材や技術、そして様式の変遷について学んだ。製図技術は、既 存の建築図面を模写し、紙面が真っ黒になるまで練習を重ねることで磨き上げていった。  建築科の学生が履修する内容のすべてを独学で習得した後、建築士試験に合格した。 一九九五年の阪神・淡路大震災発生までに、安藤は神戸の地にI活断屑の上に1数多くの 建築物を于かけていた。  悲惨なことに、二十万棟以上の建物が倒壊して、街全体が瓦礫に覆われ、余震が終息するま でに少なくとも六千人の尊い命が失われた。  胸も張り裂ける思いで現地に到着した安藤は、荒廃した街を歩き、惨状を目の当たりにした。 危険を顧みず、亀裂の入った道路を飛び越え、垂れ下がって火花を散らす電線を避け、全壊し た十階建てビルの瓦礫を乗り越えて進んだ。驚くべきことに、彼が手がけた三十五棟の建物は すべて倒壊を免れ、その姿を留めていた。建物の状態を確認したところ、目立った亀裂一つ見 当たらなかった。  安藤忠雄は、これまでに世界の最も権威ある四つの建築の賞をすべて受賞した。ミニマリズ ムの先駆者、そして自然光とコンクリートを融合させる建築の巨匠として知られ、彼の作品は、 個人住宅から寺院、美術館に至るまで、自然を引き立てる堅牢な構造で世界中の人々を魅了し 続けている。安藤の建築は耐震性に優れると称賛され、その様式はあたかも俳句のような凝縮 された効果を生み出すと評されている。     安藤忠雄の「住吉の長屋」が語りかけてくること  優れた建築物の特性とは何かを考える際、私か最初に思い浮かべたのは「完璧さ」であった。 人の美的感性に訴えかける傑作を創造するには、細部に至るまで徹底的にこだわり抜く必要が ある。言うまでもなく、地震に耐え得る堅牢さは不可欠である。建築家が注意を怠り、すべて の要素を適切に扱わなければ、設計に瑕疵が生じ、建物は倒壊に至る。しかし、私はある意外 な事実を学んだ。建築家とは、妥協なき質を実現するためにこそ、時に妥協することを。そし て、この点において最も卓越しているのが安藤忠雄であるということだ。  安藤は、限られた予算と空問を最大限に活かす手腕で高い評価を得ている。これを可能にし ているのは、彼が「完璧主義」という観念を断固として拒否しているからに他ならない。いく つかの要素を制御するには、他の要素で妥協せざるを得ないことを彼は熟知している。どこま で究極を追求し、どの時点で「これで十分だ」と自らを納得させるか。彼は自らを律し、その 潮時を見極めることができるのである。  これは安藤にとって、時として利便性よりも耐久性や意匠を優先することを意味する。形態 に対しては禁欲的なまでに細部にこだわる一方、機能性には絶対的な価値を置かない。これこ そが、安藤の特筆すべきスタイルなのである。  「住吉の長屋」は安藤が手がけた初期の作品であり、かつ代表作とされている。この住宅を設 計するにあたり、彼は五七平方メートルという 限られた敷地では、完璧を追求しても実現不可 能であると考え、何か根本的な要素を犠牲にせ ざるを得ないと判断した。  そうして建てたのは、外壁に窓を持たないコ ンクリートの箱であった。中央には屋根のない 中庭を設け、採光はそこからのみ得られる構造 となっている。安藤は、「最低限の通風、採光、 口照を確保した上で、機能性の問題は居住者の 工夫に委ねようと考えた」と回想している。  居間から寝室へ移動するには、屋根のない中 庭を通らなければならない。すなわち、雨の囗 には家の中で傘を差さなければならないのであ る。ある建築賞の選考において、審査員の一人 は「この環境で生活し、生き延びている勇敢な 住人にこそ、本賞を授与すべきであろう」と記 した。  安藤がそうした不便さをあえて受け入れたのは、「都市に抗するゲリラ」となるべく、白身 のビジョンに忠実たらんとしたからである。シンプルでありながら洗練された、永遠のオアシ スとも言うべき空間を、都市の喧騒の只中に創造したかったのである。外壁に窓を設けないこ とで住まいから都市の雑踏を遠ざけ、中庭をつくることで自然の素朴な美しさと融合させた。 利便性の欠如にもかかわらず、「住吉の長屋」は著名な建築賞を受賞し、安藤の名を世に知ら しめることとなった。  完璧な結果を得るには、美的感覚や技術的熟達を極限まで高めねばならない、と人々は考え がちである。しかし、私が偉大なデザイナー、ダンサー、水泳の飛び込み競技選手の特性を調 査して理解したのは、内に秘めた可能性を解き放つ鍵は、完璧さの追求そのものにあるのでは ないという事実である。自らの欠点を受け入れる必要性は、初心者に限ったことではない。専 門家へと成長するため、そしてスキルを磨き続けるためにも不可欠なのである。成長するにつ れて、自身のどの欠点を受容すべきかを見極められるようになるのだ。    「優等生」が実社会で必ずしも活躍できない理由  私か子どもの頃、母はしばしばこう言ったものである。[学校でどんな成績を取ろうと関係 ないわ。あなたがベストを尽くしてさえいれば、それで私は満足よ」と。そして、こう付け加 えた。「でも、もしAを取れなければ、それはあなたがベストを尽くしていないってことよね」  母は微笑みながら言ったものの、私はこれを真剣に受け止めた。何事においても完璧でなけ ればならない、と考えたのである。  全力で失敗を回避し、成功を追求することは、一つの姿勢である。まあまあの出来で満足す るような心臓外科医に、手術を任せたい人などいないだろう。  しかし、完璧主義とは、期待を究極のレベルにまで引き上げるものである。面接でよく耳に するような「私の址大の弱点は、完璧すぎることです」といった次元の話ではない。完璧主義 者とは、もっと極端なのである。  完璧主義とは、何事にも万全を期して努力することを指す。完璧主義の目標は、欠点ゼロ、 誤謬ゼロ、欠陥ゼロ、失敗ゼロである。  例えば、私の大学時代には、SAT試験(アメリカの大学進学適性試験。千六百点満点)で 満点を取って已に陶酔し、電子メールのユーザー名を「JOO{吉呂}とした同級生がいた。あ るいは、卒業から十年を経ても、自分の経歴書やリンクトインのプロフィールに、卒業時のG PA四・〇(アメリカの、成績評価における最高値)を記載し続ける人もいる。外見や内而の 欠点を内心で恥じながらも、ソーシャルメディア上では完璧な人生を演出する知人たちも、完 璧主義の範疇に入るだろう。  完璧主義が、長年にわたってアメリカや英国、そしてカナダで拡大していることを示す有力 な証拠がある。ソーシャルメディアがその傾向を助長していることは明らかであるが、実際に 完璧主義者が急増し始めたのは一九九〇年代、加工された画像がインスタグラムに投稿される ようになる一世代前のことだ。激化する競争社会の中で、子どもたちは完璧さを求める親から のプレッシャーに哂されている。期待に応えられなければ、手厳しい批判に直面するのである。 その結果、欠点がないことこそが白身の価値を決定づけると考えるようになる。そのため一つ ひとつの欠点や失敗が自己肯定感を打ちくだく。私自身、これを痛感してきた、  私は小学五年生の時、世界の探検家をテーマとしたクイズ大会で優勝した。それにもかかわ らず大会後、一間の誤答を犯した自身を責め続けた(「インド航路を発見したのは、マゼラン じゃなくヴァスコーダーガマだった。忘れたなんて信じられない」)。対戦型格闘ゲーム「モー ダルコンバット」のトーナメントで決勝へ進出し、地元の映画館の生涯無料パスを獲得した際 も、全く喜びを感じなかった(「三位なんて、敗者も同然じゃないか……」)。数学の試験で学 年最高点を取った時でさえ、自身に失望した(「たった九十八点? 満点まで二点も足りな い」)。  完璧主義者は、単純で既知の問題を解くことには長けている。学校では、多肢選択式のよう に、複数の選択肢から唯一の正解を選ぶ問題を得意とする。穴埋め問題でも、丸暗記した知識 をそのまま記述するだけなので、楽々と高得点を上げる。  「ミケランジェロの大理石製建築構成要素は、薄い青灰色のピエトラーセレーナ(砂岩の一 種)の型枠にはめ込まれていた」  これは私が大学一年生の時、学期末試験前の週末に丸暗記した一文だが、今なお頭から消え ない。にもかかわらず、私はその正確な意味が全く理解できていない。  現実の世界は、試験問題とは違い、正誤がはっきり分かれているわけではない。学校の試験 のような予測可能で制御された環境(コクーン)から離れた途端、唯一の「正しい」答えを見 出したいという欲求が、かえって困難を招く場合がある。  メタ分析(複数の研究結果を統合・分析する手法)によれば、完璧主義と職場での業績との 間に相関関係は見られなかった。課題遂行能力において、完璧主義者の成果は他の人々と同等 であり、場合によっては劣ることさえあったのである。すなわち、高校や大学時代に彼らを頂 点へと導いた技能や執念は、実社会においては必ずしも有効に機能しない可能性があるのだ。    完璧主義の「副作用」とは  多々あることだが、その道の達人とされる人々は、学生時代に完璧な成績を収めていたとは 隕らない。世界のトップクラスの彫刻家を対象とした調査によると、その過半数が学生時代の 成績は平均的だったという。三分の二がBあるいはC評価(平均的な成績)で高校を卒業して いるのである。同様の傾向は、アメリカで大きな成功を収めた建築家を、同業の平均的な実績 を持つ同僚と比較した場合にも観察される。  今日の優れた建築家たちは学生時代、必ずしも模範的な優等生であったわけではなく、大半 が平均B評価で大学を卒業しているのである。一方、完璧主義的な傾向を持つ建築家は、学生 時代の成績が優秀だったとしても、実際に手がけた建築作品に、ずば抜けて創造性の高いもの はあまりない。  研究によれば、完璧主義者は完璧を追求する過程で、主にEつの過ちを犯す傾向があるとい @些末な細部に過剰に固執する。取るに足らない問題の解決に没頭するあまり、本質的に解決  すべき重要な課題を見過ごす。木を見て森を見ないのである。 A失敗を恐れるあまり、困難な課題や未知の状況を回避する傾向がある。その結果、既存の隕  定的なスキルは磨かれても、新たな能力の習得は遅々として進まないのである。 B失敗する度に自身を過度に非難するため、失敗から建設的に学ぶことが困難となる。失敗の  経験を省みることは、過去の自身をただ恥じる行為ではなく、未来の成長へとつなげる糧で  あるという認識に欠けているのである。  もし完璧主義という医薬品があったなら、取扱説明書には副作用についてこう記されるだろ  「注意‥成長不良を引き起こすことがあります」  完璧を追い求めすぎると、視野狭窄(トンネルビジョン)に陥ったり、間違いをおかすまい とするあまり強迫観念に囚われたりしてしまう。すると、より重要な課題を見過ごし、既存の 隕られたスキルを反復して磨く程度に留まってしまう。  自分は完璧主義ではないと自認する人でも、少なくとも自分にとっての重要課題については、 完璧を目指した経験があるだろう。誰しも、重要なプロジェクトで執拗なまでに修正を重ね、 一〇〇パーセントの満足を得るまで時間と労力を注ぎ込んだ経験があるはずだ。しかし、完璧 さというのは幻想なのだ。いずれ目指すゴールに到達したければ、その事実を理解し、ある程 度の不完全さを受け入れることを学ぶ必要がある。    「欠陥の中にも優美さが宿り得る」という美意識  十六世紀の伝説にこういう話がある。一人の若者が茶の湯を学ぶために、ある茶人を訪ねた。 茶人は若者を試すため、庭のそうじを命じた。若者は雑草を抜き、熊手で落ち葉を掃き、地面 がきれいになるまで一心に働いた。だが、完璧に片づけられた庭を眺めた時、何かが足り・ない ことに気づく。そこで、木に歩み寄り、木の葉が地面に舞い落ちるまで枝を揺らした。不完全 さの中に美を見出したその若者は、やがて茶道を大成させた。  十六世紀といえば、新たな茶の湯の精神が生まれ、発展を遂げた時代だ。人々は華美なもの よりも、年を経て一部が欠けた茶碗などを愛でた。慎ましく質素なものの中にこそ豊かさや奥 深さといった趣を見出す精神性は、「わび・さび」と称される。  わび・さびとは、不完全なものの中に美を見出す精神である。意図的に不完全さを創出する 技巧ではない。不完全さを必然であるとして受容し、欠陥の中にも優美さが宿り得ることを認 識することである。この美意識は、安藤忠雄の建築、そして人生観にも色濃く反映されている。 安藤は、ある種の不完全主義者といえるだろう。何に重きを置くべきかを熟知しているのであ る。  幼少期の安藤は、学校ではいわゆる落ちこぼれであったという。成績順位は下から数えたほ うが早く、それでも本人は全く意に介さなかった。高校時代、最も好んだ美術の授業ですら、 成績は芳しくなかった。当時、授業料を支払う経済的余裕があったとしても、建築を専門的に 学ぶための教育機関へ入学するための学力は持ち合わせていなかった。その頃、彼はプロボク サーの資格を取得している。  安藤の、不完全さを受容する精神は、ボクシングによっていっそう鍛えられた。リング上に おいて、完璧なパフォーマンスなど存在しない。必ず打撃を受けることは承知の上である。し かし、勝ちたければ、ただ打たれ続けるわけにはいかない。自身の欠点を糊塗したり、困難か ら逃避したりすることも許されない。ミスを犯したからといって、自らを打ちのめす必要はな い。それは対戦相手が十分に果たしてくれるだろう。顔面や頭部を防御しようとすれば、がら 空きになった腹部への打撃を覚悟せねばならない。  安藤は言う。「ボクシングでは、危険に立ち向かうリスクを冒さねばならない。さもなけれ ば、自身の技を最大限に活かすことも、試合に勝利することもできない。新たな建築プロジェ クトも同様の精神性を要求する。未知の領域へ果敢に踏み込むことが不可欠なのである」と。  二年間のリング生活の後、安藤はボクシングを断念した。独学で建築を学び始め、洞察力を 磨いた。完璧さではなく、「十分に受容可能な」不完全さを追求したのである。美観を損なう として当時の建築家たちが敬遠していたコンクリートを、安藤は敢えて採用し壁を構築した。 コンクリートの持つ力強さと、その「複雑な荒々しさ」に彼は魅了された。初期のプロジェク トでは、コンクリート壁を覆い隠す予算がなかったため、打ち放しのままにしたという。  今では、打ち放しのコンクリートは安藤建築を象徴する素材となった。その「不完全さ」は、 すべての壁面に明確に見て取れる。継ぎ目や気泡の跡には、部分的にモルタルが充填されてい る。周囲の美と調和させるため、打ち放しコンクリートの表面は、カシミアやシルクのごとく 滑らかになるまで丹念に仕上げられる。ある専門業者によれば、安藤は「バターのような表 面」になるまでバイブレーターによる仕上げを要求するという。視覚的には粗野で未完成な印 象を残しつつも、その触感が完璧なまでに滑らかであることによって、コンクリートは不完全 な美を獲得するのである。  打ち放しコンクリートが鮮烈な印象を与える「光の教会」は、安藤建築を象徴する作品の一 つである。建築界の常識では欠陥と見なされかねない要素を、安藤は設計に大胆に取り入れた。 コンクリートの壁に、外部の景色が垣間見えるほどのスリットを意図的に設けたのである。コ ンクリート壁の十字形のスリットから光が差し込む様は、荘厳な趣を醸し出し、人々を圧倒す る。  安藤が唯一妥協したのは、その十字架にガラ スを嵌めることであった。教会側から寒すぎる との指摘を受け、やむなく同意したのである。 それでもなお、いつかそのガラスを取り払いた いと彼は考えている。教会を訪れる度にこの件 に冗談めかして触れると、牧師からは「それだ けはご勘弁を」と懇願されるという。  わび・さびの梢神は、一つの性格スキルとも いえる。それは、自制心を持って、達成不可能 な理想から達成可能な基準へと、白身の意識を 転換させることである。そして、その基準を段 階的に高めていくことで、いずれは目指すゴー ルへ到達できるであろう。しかし、不完全さの 中に美を見出すことは、決して容易ではない。 完璧主義を乗り越えてきた私には、それが痛い ほどわかるのである。    「明確かつ困難な目標」を掲げる効用  私は夏休みに入ってから、ほとんどの時間、室内でビデオゲームに興じていたが、ついに業 を煮やした母親に無理やり地元のスイミングプールベ連れていかれた。水深のある飛び込み プールに目を向けると、一人のライフガードが普段とは異なる優美な足取りで飛び板の上を歩 く姿が見えた。彼の体が宙に舞い、ボールのように丸まり、目にも止まらぬ速さでスピンする。 二回転して降下した後、水しぶきも上げずに水中へと姿を消した。私は感動した。  夏休みの残りの期間を基本的な飛び込みの練習に費やした後、進学した高校でダイビング部 の入部テストを受けた。テスト結果を告げる際、当時のチームコーチだったエリックーペスト (後に複数のオリンピックメダリストを育成する名コーチ)は、「よい知らせと、悪い知らせが ある」と言った。悪い知らせとは、こうだった。飛び込み競技は、優雅さや柔軟性と跳躍力が 求められるが、君の歩き方はフランケンシュタインのようだ。膝を曲げないと手の指がつま先 に届かない。うちのばあちやんのほうが、君よりも優美に飛び込めるはずだ。「あのう、よい 知らせもあるとおっしやいましたよね?」  よい知らせも、確かにあった。エリックはこう続けた。  「君がどれだけヘタでも構わない。飛び込みをやりたくて来た生徒を、拒んだりはしない。だ いいち、飛び込みは、少々マニアックなスポーツだ。体力や体格、スピードに恵まれず、人気 のスポーツに向かない者たちが集まってくる。練習に励めば、卒業するまでには州大会の決勝 戦に出場できるくらいになるかもしれない」  がぜん、私のやる気に火がついた。当初は初心者向けの技を練習しているだけだったが、完 璧にできないと気が済まなかった。自分の番が終わっても、「もう一度、お願いします!」と 頼み込んで練習することもしよっちゅうだった。  すべての失敗を修正し尽くすまで、私はプールを離れたくなかったのである。練習後には、 エリックが私をプールから強制的に退去させねばならないこともしばしばだった。  飛び込み競技の採点においては完璧さが要求され、些細な失敗もすべて減点対象となる。回 転不足や回転過多、踏み切り位置のずれ(遠すぎる、あるいは近すぎる)、指先がつま先に屈 いていない、つま先がまっすぐ伸びていない、など。そして、着水時の禅かな水しぶきに至る まで、すべてが減点につながる。完璧な踏み切り、完璧な空中姿勢、完璧な入水が不可欠なの である。  それならば、私のような完璧主義者には有利に働くだろう、と私は思った。ところが現実は その逆で、不利にこそなれ、有利に働くことはなかった。私は、苦手な垂直飛びの向上といっ たより本質的な課題に取り組む代わりに、着水時のごく僅かな水しぶきも上げないことに何時 間も費やした。取るに足らない細部に囚われている間に、より大きな問題にも直而した。跳躍 そのものを躊躇してしまうようになってしまったのである。  助走を開始し、飛び板に乗り、その先端へと進む。しかし、いざ跳躍しようとすると、足が すくんでしまうのである。言い訳はいくらでもあった。体重が前方あるいは後方に偏りすぎた、 飛び板のしなりに合わせるタイミングが早すぎた、あるいは遅すぎた、体幹が左右どちらかへ 僅かに傾いた、等々。私は、すべてが完璧な状態に整わなければ納得できなかった。まるでイ ギリスの童話の主人公ゴルディロックス(何事においても「ちょうどよい」状態を求める少 女)のように。  跳躍の瞬間に躊躇する傾向は、新たな技に挑戦する際に特に顕著となった。ある凵の練習で は、四十五分もの間、飛び板の上を行き来しただけで、一度も跳躍しなかった。飛び板の上で 凍りついたように立ち尽くす間、私は時間を浪費したばかりか、自らの進歩をも凍結させてい たのである。高難度の技を習得することはできず、簡単な技をわずかに改善するのが精一杯で あった。真の進歩のためには、何としてもこの完璧主義を克服する必要があったのである。  しかし、どうすれば、完璧主義を変えられるのだろうか。完璧主義者は、それ以外の在り方 を知らない。自身が完璧主義ではないとしても、重要な目標がある場合、いかに自らを律すれ ばいいのだろうか? 何を優先し、何を最小限度に留め、いつ手を引くべきか、そして、避け られない欠陥をどうやって受容するかを見極めるのは困難である。  成長を促進する上で有効なのは、完璧を追求することではなく、自身の基準を高く設定する ことだと、数多くの研究結果は示唆している。ならば目標を「ベスト(完璧)であること」か ら「ベスト(最善)を尽くすこと」へ変えればいいだろうと、安易に解釈する人は多い。だが、 ベストを尽くすことを目標とするのは、最良の代替策とはいえない。無作為に選ばれた被験者 を対象とした数百もの実験から、ベストを尽くすように促された人は、明確かつ困難な目標を 課された人と比較して、パフォーマンスで劣っていたばかりか、学習成果も乏しかったことが、 明らかになっている。  「ベストを尽くせ」という指針は、完璧主義者にとっては誤った処方箋だ。目標があまりにも 曖昧で、具体的な努力につなげることも、意欲を高めることもできない。何を目指して努力し ているのか、果たして意味のある進歩を遂げているのかさえわからなくなる。完璧主義に対処 する上で理想的なのは、明確かつ困難な目標を掲げることだ。これにより、関心が最も重要な 課題に向けられ、「これで十分だ」という適切な水準を見極められるようになる。  飛び込み競技の大会で、アナウンサーが満点を獲得した選手をべた褒めした際、チームコー チのエリックは私に、その評価は誤りであると言った。「完璧な演技など存在しない」と。実 際、オリンピック競技においても、十点の最高評価は「完璧(パーフェクト)」ではなく、「卓 越している(エクセレント)」、すなわち非の打ち所がない演技を意味する判定基準なのである。 エリックは、私にわび・さびの精神を教えようとしていたのである。  この教えは、私の心に深く響いた。そうだ、完璧である必要はない。私に必要なのは、明確 な目的と高い目標だけなのである。  そこで私は、エリックの助力を得て、各種目における目標を自身の能力の限界点に合わせて 設定した。得点が期待できる基本的な前飛び込みえび型では、まず六・五点を目指すこととし た。一方、私か不得手とするより複雑なひねり技では、五点取れれば十分であるとした。新た な技を習得する際には、○点でなければ、まずまずの成果と見ることにした。要は、とにかく 飛び込み、完全な失敗に終わらなければよいのである。練習では毎回、エリックが私の試技を 採点し、改善点を指摘してくれた。そして、少しでも成功に近づきたいのであれば、誤りを明 確に認識しなければならない、と教えてくれたのである。  失敗した自身を責めることをやめ、進歩することに焦点を絞った。完璧な助走ができるまで 跳ばないのではなく、まずまずの助走ができればよしとした。また、高難度の技にも挑戦し、 自身の能力の限界を引き上げるべく努力した(その結果、数年のうちに、二回宙返り一回ひね りができるようになった)。  とはいえ、常に順調であったわけではない。チームの打ち上げでは、キャプテンから「あの 時、こうすればよかったで賞」を授与された。そこには、「あの入水時に、左足の小指が伸び ていれば、八点ではなく八・五点が取れたかもしれないのに」とぼやいている私の似顔絵が添 えられていた。  それでもなお、結果がベストでなければ、私は失望した。演技が不調で、「今日はよい日で はなかった」とチームの誰かが囗にすると、エリックはしばしば二つの問いを投げかけた。 「今日、白身がよりよくなるために努力したか? 他の選手の演技が向上するよう支援した  その答えが共にt冂定的ならば、その目はよい一日であったということになる。エリックの姓 はベスト(Best)であるが、彼の哲学はすべてにおいてベター(FI「」を口指すものであっ た。    「欠点を受け容れる」と、人としての器が大きくなる  私は、自身の演技に納得がいかなかった時でも、別の視点から自身を評価し満足を得る術を 学んだ。私自身にとって有効たった、完璧主義から脱却するためのもう一つの方法を紹介する。 それは、心理学で「メンタルータイムトラペル」と称される手法である。文字通り、心の中で の時間旅行である。  期待とは、何かを達成する度に膨らんでいくものである。向上するにつれて白身への要求水 準も上がり、その結果、自分の漸進的な進歩を見過ごしがちになる。自身の成長を正しく評価 するには、過去の自分が現在の成長した自身をどう捉えるかを想像してみるとよい。現在の自 分が達成したことを、五年前の白身が知ったならば、きっと誇らしく思ったことだろう。  回転すらままならなかった十四歳の私は、その後の数年間で白身が遂げた進歩に、きっと感 動したはずである。私は、飛び込みを始めたばかりの頃のビデオを見返すことにした。すると、 かつての屈辱感は消え去り、自身の成長を明確に実感することができたのである。  失敗した自分を打ちのめしたところで、強くはなれない。ただ傷を負うだけである。白身に 寛容であることは、自己を甘やかすことではない。それは、失望から学びを得ることを自身に 許容することなのである。人間は、自らの欠点を受容することで成長する。ただ責めるだけで は不十分であり、失敗や欠点を認め、受け止める必要があるのだ。  完璧主義者はしばしば、一度の失敗で自分を敗者と見なし、不安に苛まれる。しかし、八つ の研究でも明らかになっているが、人は他者の能力をたった一つの結果のみで評価するわけで はない。これは「否定的評価の過大推測」(自身の過ちや失敗などを、実際よりも過大に憶測 する傾向)と呼ばれる現象である。  一皿の料理が不味かったからといって、その人を料理下手だと断じる者はいない。カメラの レンズに指を置いてしまったからといって、写真の技術がないと見なされることもない。それ らが特定の一時点における偶発的な出来事であることを、人は理解しているからである。  研究によれば、人は他者の技能を評価する際、不調時ではなく絶頂期の結果を重視する傾向 があるという。  例えば、セリーナーウィリアムズがサーブでダブルフォルトを繰り返すのを囗にしたとして も、彼女のエースを一度でも見れば、その卓越したテニス選手としての実力はわかるだろう。 アップルーリサが大失敗に終わった後も、人々はマッキントッシュで成功を収めたスティー ブージョブズを、依然として先見の明のある革新者と見なし続けた。  また、私たちはシェイクスピアの偉大さを、その傑作(例えば『「ムレット」や『リア 王」)によって判断し、必ずしも出来がよいとは言えない戯曲(私にとっては「アテネのタイ モン」や「ウィンザーの陽気な女房たち」など)のことは忘れがちである。人々は、絶好調の 時の姿を見てその人の可能性を判断するのであり、不調時の姿で判断するわけではない。であ るならば、白身に対しても、より寛容になってみてはどうだろうか。  飛び込み競技においては、私の能力は明らかに限界に達していた。オリンピック代表選出レ ベルには、到底及ばなかった。それでも、私は自身が設定した目標を達成した。高校卒業まで に、全国レベルの優秀選手に選ばれ、全米ジュニアオリンピック大会の出場資格も二度獲得し たのである。  しかし、それ以上に私が誇りに思うのは、エリックからの称賛の言葉である。彼が指導した 全生徒の中で、私は最も能力に恵まれなかったが、誰よりも大きく進歩した、と告げられたの だ。その時、私は気づいたのである。成功とは、完璧さにどれほど近づけたかではなく、その 過程でどれほどの困難を乗り越えてきたかなのだと。    完璧を目指すより「まず終わらせる」  スポーツの世界では、卓越性は極めて客観的に判断される。例えば、飛び込み競技では、す べての演技に難易度に応じた係数が設定されており、これに基づいて採点が行なわれる。しか し、多くの分野では評価が主観的になりがちだ。ある人の目には美しい白鳥と映るものが、別 の人の目には、醜いアヒルと映ることもある。個々の評価軸が異なれば、どの不完全さが許容 範囲なのかを判断することは難しくなる。  二〇〇二年の夏、シカゴの劇場で行なわれたダンスミュージカルのプレビュー公演の初口、 千人を超える観客は早くも第一幕目で当惑し、暗い表情で舞台を見つめていた。幕間の休憩で 観客が席を立ってしまうのではないかと、制作者は不安になった。評価は散々だった。劇評家 のマイケルーフィリップスは「激しく、無秩序だ……y〃ゝ「」‘りじゅうにムラがある……構成が悪 い」と記している。  このセリフのない、ビリー・ジョエルの楽曲による独創的な「二時問に及ぶダンスの祭典」 を制作したのは、トワイラーサープ。ミハイルーバリシニコフ主演のバレエの振付師として名 を馳せ、映画『ヘアー』や『アマデウス』の振り付けを担当したことでも知られている。サー ブは八百五十万ドルもの資金を調達し、舞台芸術の世界で長年、不遇な扱いを受けてきた有能 な踊り手たちにスポットライトを当てるためにも、この作品をなんとしてもヒットさせたかっ  ブロードウェイでの木公演初日まで、残された時間はわずかだった。この公演は大失敗に終 わるのだろうかI酷評を受け、サーブは自問自答を繰り返した。  「私も含めて、スタッフ全員がやり遂げることができるかどうかは、賭けでした」  構成を根本から練り直すべきか、あるいはセリフを入れるべきか。人物の造形をもっと深め るべきか、あるいは楽曲をいくつか削除すべきか。いずれにしろ、変更を加えればパフォー マーたちは、それを習得し直して、さらなるリ(Iサルに励む必要がある。  酷評された初日から1ヵ月後、シカゴ公演の終盤でサーブは改訂版を披露する。再び訪れた 劇評家のマイケルーフィリップスは、その著しい進歩に囗を見張った。  「大胆な変更だ……明確で、より満足のいくショーに生まれ変わった。随所で観る者を爽快な 気分にさせる」とフィリップスは評した。「サーブが加えた変更によって、ブロードウェイで の成功も夢ではなくなった」  依然として、演出は完璧ではなかった。しかし、サーブの迅速な方向転換のおかげで、欠点 は影を潜め、美点が際立つようになったのだ。  方向転換(ピボット)は、シリコンバレーでは広く浸透している概念である。ソフトウェア 開発者の問では「完璧を目指すよりも、まず終わらせよ」がモットーになっている。迅速に改 良を重ねていくことを前提に、起業家やエンジニアたちは、まず最低限存続可能な製品(MV P: Miniヨ’‘ヨく一able Product)を開発して市場に投入することを目指す。しかし、真の卓越 性は、それよりも高い基準を要求する。私白身はこれを、人々から「程々に愛される」製品を 目指すことだと解釈している。  「程々に愛される」ショーをつくり上げるために、サーブは「スポンジ」となって何を不快に 感じているのかを正確に把握する必要があったが、どの批評やコメントを信頼すべきか判断が つかない。有益なフィードバックを吸収して改善するには、すべての情報を吟味し、不要なも のを選り分ける必要がある。そこでサーブの息子のジェシーが、主要なコメントをテーマ別に 分類し一覧表を作成した。  研究によれば、複数の客観的な意見の価値を正確に見極めるには、それらの意見に共通する 点を探すのが最も有効な方法であるという。もし苦言を呈しているのが一人だけだったら、そ れはその人の主観的意見である可能性がある。しかし、十人以上が同じ問題をそれぞれに指摘 したなら、それは客観的に認識された欠点と見なすべきだろう。これは、心理学で「評価者間 信頼性」と呼ばれる概念である。  サーブ親子は、多くの批評の中から有益な意見を選りすぐる方法を見出した。二人以上の批 評家が個別に同じ懸念事項を指摘している場合、それは個人の好みの問題ではなく、作品の質 に関する問題であると受けとめることにした。「批評は極めて有益でした。容赦ない批判にと ても感謝しています」とサーブは冗談まじりに語る。  批評を選別した結果、多くの観客に共通する不満は、第二幕ではなく第一幕に集中している ことがわかった。サーブは第一幕で力を入れすぎていたのだ。ある観客は、あまりに多様な刺 激に圧倒され、一曲が終わるまで目を閉じ、次の曲では終始耳を塞いでいたという。改善すべ き問題点は明らかになったが、残された時間は少なかった。  彼女は後に、「私に必要だったのは、すべての問題を完璧に解決する単一の方法ではなく、 実行可能な複数の解決策でした」と語っている。    「程々に愛される」ための基準  ショーを完璧なものに仕上げようとするならば、振り出しに戻り、全体の構成を練り直し、 セリフを歌と踊りの間に挿入する必要があっただろう。しかし、サーブは不完全主義者だ。彼 女が目指したものは完璧な作品ではなく、卓越した作品だ。「程々に愛される」作品をつくる ために必要なのは、ストーリーの簡略化、各登場人物の明確化、そして大衆の期待との摺り合 わせ作業のみだった。彼女が選んだ解決策は、いたってシンプルなものだった。ミュージカル ファンに馴染み深いプロローグ(序幕)を追加したのである。  プロローグを追加するとなれば、数日以内に新しいオープユングナンバーの振り付けを完成 させなくてはならない。サーブは完璧なアレンジをゼロから考案するのではなく、過去の自身 の創作を再利用することにした。数十年前のショーで手がけたダンスと、ビリー・ジョエルの 楽曲のリズムの間に顕著な類似点があることに、プロダクションデザイナーが気づいたのだ。  サーブは過去の作品から再利用した振り付けを、わずか数時間で二十人余りのダンサーに教 えた。プロローグの追加により登場人物の輪郭が明確になり、観客を魅了するオープユングが 完成した。翌年の春、このブロードウェイショー『ムーヴインーアウト』はトニー賞にノミ ネートされ、サーブは最優秀振付賞を受賞した。ここにもまた、わび・さびの美意識が反映さ れている。サーブは、ストーリーが不完全であっても、美しいダンスミュージカルは成立し得 ることを示したのである。そして、観衆と評論家はそれを高く評価した。  欠点を特定し、その解決を図るのに、必ずしも土壇場で奮闘する必要はない。近年、サーブ は情け容赦のない評論家の評価に自分の運命を委ねることをやめた。新たなプロジェクトを立 ち上げる度に、少人数の小さなグループを招き、製作途中の作品を評価してもらうようになっ た。アドバイザーとなる人々は、サーブが見落としている問題を指摘し、解決の糸目を見つけ 出す手助けをしてくれる。彼らはコーチであると同時に、批評者でもあった。彼らの役割は、 サーブが有望な軌道に乗っているか否かを確認することだ。  誰もが同様に、自身の向上を手助けしてくれる批評グループを結成すべきだと、サーブは推 奨している。私もこれに同感だ。それは私自身の飛び込みの経験に基づいている。  飛び込み競技を引退した後、○点(失敗)から十点(卓越)までといった競技採点のように、 自身のパフォーマンスの成果を明確に知る機会が失われ、私は残念に思っていた。そこで、記 事や本の草稿を書き終える度に、それを信頼できる同僚数人に送って評価してもらうことにし た。  ここ十数年来、自分にとって大事なプロジェクトがある度に、私は原稿を批評してもらうグ ループを立ち上げている。私の批評グループは恒久的なものではなく、必要に応じて一時的に 編成される。いわば、期間限定のワークショップのような形態である。各プロジェクトにおい て、五〜七人の関係者や補完的な技能を持つ外部の人間から成る多種混合グループを形成する。 グループはその都度、結成・解散され、状況に応じて構成員も変化するのである。  私が最初に依頼するのは、フィードバックやアドバイスではなく、採点だ。批評者たちには、 私の草稿を十点満点で個別に採点するよう、依頼している。ちなみに、これまでに十点をくれ た人はI人もいない。そして採点してもらった後、十点に近づくためには何を改善すればいい のか、具体的な助言を求めるのである。  私が目標とする点数は、その分野においての自分のスキルや、課題の重要度によって異なる。 本書のような主要プロジェクトに関しては、私は二段階の目標得点を定める。野心的な目標で ある九点、そして十分納得のいく結果だといえる八点だ。グループ全体から八点の評価をもら えば、自分は進歩したのだと満足できるはずである(とはいえ、「もしも、あの時、別の文章 を……」と後悔することもある)。  採点による明確な評価は、私にとって有益な情報源であると共に、モチベーションの源泉に もなる。複数の人から七点以下の評価を受けたら、批評者からの助言を真摯に受け止め、そこ から学ぼうと努める。私の性格上、小手先の修正程度では気が済まない。徹底的に見直し改良 を重ね、目標との隔たりを埋めなければ気が済まないのだ。初稿で四・五点といった評価を受 けとると、私の闘志に火がつく。最初に採点結果を知ることで、その後のフィードバックや助 言に備えて気を引き締めることができる。  私のお気に入りのコメントは「つまらなくて読み進めることができない」だ。すると私は、 批評者から少なくとも平均八点を、そしていくつかの九点をもらえるようになるまで修正を重 ねる。これこそが私の「程々に愛される」ための基準なのである。人生は飛び込み競技のよう なものだと私は解釈するようになった。もし、私が幸運にも十点を得ることがあれば、それは 完璧なのではなく、卓越性の表われなのだ。  とはいえ、評価者からの採点にこだわりすぎないように注意する必要はある。多くの研究結 果が示すところによれば、完璧主義者は他者の評価に纂づいて、卓越性を定義する傾向が強い という。他者の目に完璧に映るよう自己を演出し続けると、不安やうつ、バーンアウトをはじ めとするメンタルヘルス問題を引き起こす恐れがある。  社会的な承認に執着しすぎると、多大な犠牲を払うことになりかねない。七万人以上を対象 にした百五件の調査によれば、成長や人とのつながりなどの内面的な目標よりも、名声や体 裁・外見のような外面的な目標を重視する人は幸福度が低いと予測されている。  他者からの承認による自己確証の追求は、底なし沼のように際限がない。地位や名声を渇望 しても、真の満足感は決して得られない。しかし、外部からの評価が自己成長の手段となり得 るのであれば、賢く活用すべきである。  突き詰めれば、卓越性・秀逸さとは、他者の期待に応えることだけではない。自身の基準を 満たすことでもあるのである。いずれにせよ、すべての人を満足させるのは不可能だ。問題は、 あなたが誰を失望させているのかである。他者を落胆させたとしても、自身に失望するべきで はない。  何かを世に問う前に、最終的な評価者である 自身に問いかけてみるべきだろう。もしそれが、 自身が世に出す唯一の作品だとしたならば、そ の出来栄えに誇りを持つことができるだろうか。  安藤忠雄は、この問いを常に自身に投げかけ ている。  「まわりからの評価が、私の主要な原動力では ありません」と安藤は言う。「己を満足させた い、自らに挑戦したいという欲望が私を突き動 かしているのです」  神戸が大震災に見舞われた後、安藤は過去の 芸術作品を保存し、未来への希望を取り戻した いという思いを強めた。その一つの具現として、 安藤は神戸の山々を見渡せるウォーターフロン トに美術館を建築した。この兵庫県立美術館の 屋外デッキには、安藤自身を象徴する巨大な青 いりんごのオブジェがある。 「人生においては、未熟な青いりんごであるほうがいい。青ければ青いほどいい。青いりんご は青春のシンボルです」と安藤は言う。現在、八十歳を超えた安藤の内なる若さは、人間とし て成長し続けることへの真摯な姿勢に反映されている。  青いままであり続けようとする志は、絶え間ない進歩、そして不完全であり続けることへの 決意表明だ。熟していないりんごは、まだ完全に形を成していない。未完全で、不完璧だ。だ からこそ、美しいのである。 は    モチベーションを h(/` いかに高めるか        I−      lif! ■I I!r`・″一‐’fr。II一一−−rl r一r l・f『IIf。一♂鈩♂ 一 一一 一■一 Irl I        −llI        困難を克服するための「足場かけ」  ゴールを目指す時、その行く手には必ず障害が立ちはだかる。外部からの障壁に直面した際、 人はしばしば代償を支払うことになる。退屈なルーティンワークは、徐々に意欲を削ぎ、やが ては完全に失わせる。行き詰まりは自信を喪失させる。困難な課題は、私たちを、失敗、意気 徇沈、そして自己への疑念へと誘う。そして私たちは自問するようになる。前進はおろか、果 瓦して立ち直ることができるのだろうか、と。 「性格スキル」さえあれば、目標へ到達できるわけではない。新たなスキルの多くには、確立 された手順書などない。そして、傾斜のきつい坂道を登るには、しばしばリフト(助け)が必 旻となる。それが「足場かけ(スキャフォールディング)」なのである。  ここで言う足場とは、独力では到達不可能な頂点を極めるための一時的な支援のことである。 このサポートがあることによって、レジリェンス(逆境からの回復力、再起力)を高め、目前 の障壁に脅かされたり成長を阻害されたりしても、それを克服できるようになるのである。  心理学者はレジリェンスに関する実験を行なう際、多くの場合、精神的苦痛を伴う映像を提 不することで、被験者に心理的ストレスを与える。テレビや映画で戦慄的、あるいは衝撃的な 場面を目撃した時のことを思い出してほしい。例えば、好みの登場人物がライトセーバーで首 ?刎ねられた場面(「スター・ウォーズ」)や、巨大なコウモリの餌食となる場面(『ストレン ンヤー・ジンクス 未知の世界」)などである。そうした情景は私の子どもたち(そして妻も てうだが)、読者の脳裏にも、繰り返し再生されることだろう。そしてその鮮烈なイメージは、 吠画のエンドロールが流れた後もなお、脳裏に焼きついて離れない(これもすべて、鬼才ダ ノアー兄弟の演出の賜物なのだが)。  しかし、心理学者によれば、ある種の「足場」を利用すれば、そうした忌まわしいフラッ ソユバックを遮断することができるという。  当初、私はそれを何らかの心理療法だろうと考えていた。例えば、問題の映像を繰り返し見 fることで不安に慣れさせる曝露療法や、場面に対する脅威感を軽減するよう認知の変容を促 jコーピング(対処行動)といったものである。しかし、私の推測は誤っていた。レジリエン 人(困難や試練への適応力)を高めるために心理学者が推奨する方法とは、テトリスなのであ り。そう、あのコンピューターゲームのテトリスである。  とりわけ衝撃的な映画の場而を見た後、人は通常、その後一週間で六〜七回の不穏なフラッ ンユバックを経験するが、無作為に選ばれた被験者がその場面を見た直後にテトリスを数回プ レイしたところ、翌週のフラッシュバックの回数がその半分になったという。幾何学的なブ リックの回転、移動、落下といった視覚的・空間的処理が、どういうわけか、望まぬ非自発的 …心考や嫌悪感を遮断するのである。  誤解なきよう言い添えておくが、テトリスは依存症を治療したり、心的外傷後ストレス障害 一PTSD)を治癒させたりするものではない。いかなるゲームも、専門的な治療的・薬理的 介入の代替とはなり得ない。しかし、このテトリス効果は、複数の異なる研究チームによって 再現性が確認されている。当初、私は興味を引かれただけだったが、多くの証拠を検討するう ちに、テトリス効果が「足場かけ」の四つの主要な特徴を示す好例であることに気づいた。 @足場は通常、他者が築いてくれるものである。テトリスをプレイすることが辛い記憶のフ  ラッシュバックを防ぐ足場になるとは、私は思ってもみなかった。これを思いついたのは、  関連分野における経験や専門知識を持つ人たちだった。我々は困難に直面した際、自力で克  服しようとするのではなく、メンター、教師、コーチ、ロールモデル、あるいは友人など、  外部に支援を求めることも可能である。   直面する課題によって、周囲の人々が提供してくれる足場は、その形態も、込められた思  いも異なるだろうが、その支援効果に変わりはない。足場は目標達成の基盤となり、我々を  力強く後押ししてくれるのである。 A足場は、行く手を阻む障害に応じて構築される。心理学者がテトリスを推奨するのは、記憶  イメージを形成する脳の活動パターンを変化させることができるからだ。脳をスキャンした  ところ、テトリスは空間認知能力を活性化させ、侵入してくる記憶イメージを阻止すること  がわかった。人間は落下するブロックを目で捉えようと集中していると、つらい記憶の脅威  を意識しなくなるのである。トリビアクイズなど他の種類のゲームでは、フラッシュバック  を軽減する効果は見られなかった。テトリスは、特定の試練を乗り越える上で有効な「足  場」なのである。 り足場かけは、重要な転機において活川される。映画を観る前にテトリスをプレイしても、遮  断すべき記憶がまだ形成されていないので、何の効果もない。効果があるのは不快な場面に  辿遇した後で、その効果は二十四時間持続するという。テトリスをプレイするまでに時間が  経過してしまうと、記憶は既に脳内で固定化されてしまう。その場合、まず不快な場面を思  い出し、その後にテトリスでそれを遮断する必要が生じる。 吩足場は、一時的な支援である。ホラー映画の恐怖を払拭するために、テトリスを一生プレイ  し続ける必要はない。記憶の固定化を防ぎ、フラッシュバックを軽減するには、十分程度プ  レイするだけで十分なのである。必要な支援が得られれば、それ以降はそれに依存すること  はない。自力で前進できるようになっているからである。  足場の種類は、状況に応じて異なる。なぜなら、いかなる課題に、いつ直而するかによって、  む要とされる支援は変わってくるからである。克服不可能に思える障害物も、コーチやメン  クーの手にかかれば、あたかもブロックを回転させて階段に変えるかのように、鮮やかな解決  來へと姿を変えるかもしれない。欠けている重要なヒースは身近なところにあると、チームメ イトやメンティー(指導を受ける側)から指摘されることもある。そして、不利な状況下では、 他者と協力し、一歩ずつ着実に前進しなければならない局面もあるだろう。  私たちは、失敗ばかりが続くと、全く進歩していないかのように感じがちである。必要な時 に適切な支援があれば、困難を克服し、成長を遂げることができる。  そうした支援体制を構築する方法を学ぶため、私は、大きな試練に直面しながらも精神的・ 肉体的な強靭さを発揮し、とりわけ長い道のりを経て成功を収めた人々に会い、話を闘いた。  登山家、音楽家、軍の士官候補生、そしてアスリートである。  彼らがいかにして苦境を乗り越えたのかを知り、私の「足場かけ」に対する見方は一変した。 スポーツファンならずとも、彼らの洞察の卓越性には気づくはずである。そして、それらの洞 祭は、あらゆる職業において応用できるのである。  「足場」とは、我々が独力では見出せない道を発見し、着実な進歩を遂げられるよう支えるも のである。これによって、我々が内に秘めた可能性が解き放たれる。さらには、日々の退屈な 業務の中で意欲を見出し、行き詰まりから脱する力を得て、困難や疑念をも成長の原動力へと 転換できるようになるのである。       われわれの心を満たしてくれるのは、仕事でも遊びでもなければ、       目的の有無でもない。それらの調和なんだ。              ト  バーナードーデーコーヴェン(ゲームデザイナー) 単調な日々に「遊び心」を………〈 」」  −「やらなければ」を「もっとやりたい」に変える練習の科学  願書を完璧に書き上げ、十代の少女は期待に胸を躍らせた。少女の名はエヴェリンーグレ ニー。スコットランドの農場で育ち、幼い頃からミュージシャンになることを夢見ていた。ト ラクターの唸るようなビート、牛の低い(ミング、蹄鉄を打つカンカンという音の響き、風に 揺れる木の葉のざわめきなど、身の回りの音が生み出すリズムに魅せられた。四年間パーカッ ションの腕を磨き、ピアノの練習に励んで、準備は万全であると確信した。そして、英国で最 も権威ある音楽学校に入学願書を送ったのである。  王立音楽アカデミーは、秀でた音楽的才能の持ち主しか受け入れない。その卒業者リストに は、エルトンーションやアニー・レノックスも名を連ねる。ロンドンで行なわれたオーディ ションでエヴェリンに与えられた演奏時間は、わずか二十分。この隕られた時間の中で、エ ヴェリンは自分の技術を証明しなければならなかった。ティンパニで『ウィリアムーテル序 曲』を、スネアドラムとシロフォンで様々な曲目を演奏し、さらにピアノでモーツァルトのソ ナタを弾いた。  結果は不合格。審査員を務めた専門家数名が、エヴェリンの能力の欠如に懸念を示し、この 少女がプロのミュージシャンになる見込みはないだろう、という結論に至ったのだ。  それから十年も経たないうちに、エヴェリンは世界で初の、フルタイムで活躍するソロ・ パーカッショニストとなった。  通常、パーカッショニストは観客を熱狂させるタイプのミュージシャンではなく、オーケス トラやバンドの背景で演奏することが多い。リンゴ・スターがジョンやポールの影に座してい たように。しかし、エヴェリンがソリストとしてワールドツアーを行なえば、毎年少なくとも 百の会場でチケットが完売するという。それほどまでに彼女の演奏は素晴らしいのだ。  エヴェリンは、グラミー賞のクラシックーインストゥルメンタルーソロ部門、小規模アンサ ンブルーパフォーマンス部門で最優秀賞を受賞。さらにクラシックークロスオーヴァー・アル バム部門で最優秀賞に輝いたアルバムにソリストとして参加している。また、ロックミュージ シャンのビョークと共同制作を行なったり、「セサミストリート」に客演したりと、その活動 は多岐にわたる。二〇〇七年、彼女は大英帝国デイムの称号を授与された。二〇一五年には、 パーカッショニストとして初めて、音楽界のノーベル賞と称されるポーラー音楽賞を受賞。こ れで事実上、音楽界のレジェンドたち(エルトンーションやヨーヨー・マ、ポールーマッカー トニー、ジョニー ttf ツチェル、ポールーサイモン、ブルースースプリングスティーン、ス ティーヴィー・ワンダーなど)と肩を並べたことになる。  王立音楽アカデミーがエヴェリンを能力不足と判断した際、厳密に言えば、審査員の見解は 誤りではなかった。エヴェリンは音楽的な聴覚を持っていなかったのである。すなわち、音を 聞く能力が全くなかった。世界初にして最高のソローパーカッショニストは、聴覚障害という (ンディキャップを背負っていたのだ。  聴覚障害が現われたのは八歳の時で、十二歳になる頃には、人の声が聞き取れなくなった。 聴覚専門医から神経変性による聴覚障害と診断され、楽器の演奏は不可能だろうと告げられた。 ミュージシャンになるという夢を叶えるには、あまりにも多くの困難が、そして、あまりにも 長い道のりが横たわっていた。  重度の聴覚障害者にとって、音楽の学習はとりわけ(Iドルが高い。だからといって、エ ヴェリンは退屈な練習にひたすら打ち込んだわけではない。彼女にパーカッションを教えた学 校教師のロンーフォーブスが、無味乾燥な反復練習を強いることもなかった。その代わりに、 彼女が楽しみながら技術を習得できるよう、二人で学びの「足場」を築いていった。  ロンはエグェリンに初めて会った時、どうやって音を「聞く」のかと尋ねた。音が聞こえな いのであれば、他の感覚で補う学習スタイルを取り入れざるを得ない。エヴェリンは、音程を すべて耳で聞き分けることはできないが、個々の音の振動は手や腕、腹部や胸、頬骨や頭蓋骨 など、体の様々な部位で感じ取ることができる、と答えた。彼女は自分の体を巨大な「耳」と して捉えるようになっていたのである。ロンがティンパニを叩くと、エヴェリンは手を壁に当 て、体のどの部位がどの音程に共鳴するのかを擽った。高音は、顔や首のあたりに響きやすく、 低音は、脚や足に響く。振動をはっきりと感じ取るために、彼女は裸足で練習するようになっ た。  レッスンでは最初に音を感じ取る練習を行なったが、エヴェリンは毎回、その難題に嬉々と して取り組んだ。ロンはエヴェリンの上達具合に応じて、あたかもビデオゲームでレペルアッ プするように、音程を狭めていった。やがてエヴェリンは、指先だけで微妙な音の違いも識別 できるようになった。すると、ロンはエヴェリンの知的好奇心をさらに刺激するために、全く 新しい課題を与えた。  「バッ(のこの曲を『感じる』ことができるかい? これをスネアドラムで表現できるかな?」  課題に変化を持たせ、難易度を上げていった。学びは彼女にとって喜びになった。「楽しく て、努力を努力と感じませんでした。私はスポンジのようにすべてを吸収しました」とエヴェ リンは語る。そうして彼女は、バッ(の楽曲をドラムを用いた現代的なスタイルに編曲し、独 自のバージョンをつくり上げたのである。  スキルを磨きたければ、どんなに退屈な練習でも、時間と労力を惜しんではならない、と私 たちの多くは教えられてきた。しかし、内に秘めた可能性を解き放つ最善の方法は、単調で退 屈な練習にただ耐えることではない。日々の退屈な練習を、日々の喜びの源に変えることなの  このような練習法においては、プレイ(演奏・競技)をしながら、同時にプレイ(遊び)の 楽しさや喜びを味わうことができる。    心をすリ減らさない、本当の情熱の育て方  いかなる分野においても、天才であるだけでは一流になれない。持って生まれた才能だけで 「アメイジングーグレイス」をバグパイプで演奏したり、ベイクドーアラスカをこんがり焼き 上げたり、七つものボールでジャグリングしたり、難しい言葉(私の場合は「Onoヨatopoeia (オノマトペ)」や「∃ayonnaise(マヨネーズ)」など)を正確に綴ったりすることなどは、誰 にもできることではない。そのスキルを獲得するためには、練習が不可欠なのである。  一流になるには一万時間の練習が必要であると説く「一万時問の法則」が一世を風靡して以 来、親やコーチ、教師たちは、「デリバレイトープラクティス(限界的練習)」と呼ばれる練習 方法に強い関心を寄せるようになった。これは体系的に構築された反復練習のことで、明確な 目標を設定し、継続的にフィードバックを行なうことによって効率的な向上を図るものである。 ただし、その練習法でどれほどの時間が熟達のために必要なのかは、一万時間説とは異なり曖 昧である。  研究によれば、一流になるために実際に必要となる時間数は、人によっても活動によっても 異なるという。また、デリバレイトープラクティスは、ゴルフのスウィングや、ルービック キューブ、バイオリンの演奏など、一貫した動作を伴う予測可能な課題では、より効果的に向 上を促すことが明らかになっている。  神童と呼ばれる子どもでさえも、デリバレイトープラクティスに脇目も振らず打ち込む。バ イオリニストだったモーツァルトの父親は、息子に厳しい訓練と過密な演奏スケジュールを強 要した。ある伝記作家はそのあまりの過酷さを「絶対服従を強いられた奴隷のようだ」と描写 した。そのような狂信的な練習には弊害が伴う。モーツァルトが疲弊している様子は、彼の手 紙からもありありと伝わってくる。十代の頃、「あまりにも多くのレチタティーボ(叙唱)を 作曲せねばならず、指が痛む」と手紙にしたため、二十代後半には「疲れた……い演奏会が多す ぎる」と告白している。彼は強制的な練習にもかかわらず成功したが、成功は決してそのおか げではないと考えるのが妥当だろう。  研究によって明らかになっているが、取りつかれたように働く人は、他の人より長時間仕事 をするものの、よりよい結果を出すことが難しく、身体的および情緒的な疲労に苦しむ傾向が 強いという。単調なデリバレイトープラクティスは、燃え尽き症候群(バーンアウト)や退屈 症候群(ボアアウト)のリスクが伴う。そう、退屈症候群は、れっきとした心理学用語だ。燃 え尽き症候群が極度のストレスや疲労の蓄積による情緒的消耗感であるのに対し、退屈症候群 とは、単調で刺激のない状況が継続することで引き起こされる虚無感である。偉業を成すには デリバレイトープラクティスが必要だが、好きなことに喜びを感じなくなったり、ワーカホ リックになったりするまで、過酷な訓練に打ち込むべきではない。  コンサートピアニストに関する研究を見ると、四十歳以前に国際的に高く評価された人たち が寝る問を惜しんで練習に励んだわけではない。多くの場合、幼少期の練習時間は一日に一時 間程度だったという。彼らの親たちは奴隷監督者でも鬼軍曹でもなく、我が子の内発的な意欲 を心から歓迎し、支援したに過ぎない。そのような子どもたちは十代になると、日々の練習量 を徐々に増やしていったが、それでも練習にのめり込みすぎたり、退屈したりすることはな かった。心理学者のローレンーソスニアックに よると、「その活動が面白いから練習したのだ し、教師と二人三脚で学ぶことも楽しかったの です」。  一流の音楽家は、強迫観念に駆られることは ほとんどない。むしろ、調和のとれた情熱に突 き動かされることが多いのだ。心理学でいう 「調和のとれた情熱(調和型の情熱)」とは、プ レッシャーを感じることなく、目標を達成する までの過程そのものに夢中になる状態をいう。 勉強しなければならない、練習しなければいけ ないといった義務感に駆られるのではない。  むしろ、勉強したい、練習が楽しみだ、と いった「やりたい」という欲求が湧き上がり、 容易にフロー状態(精神的な高揚状態)に入っ ていくのである。  フロー状態にある時は、演奏に完全に没入し、 周囲や時の流れを忘れ、自身の楽器と一体化す る。人生が練習に支配されるのではない。むしろ練習や学びが、人生を豊かにするのである。  情熱の重要さは、音楽の世界に隕ったことではない。四万五千人を対象にした百二十七の研 究で、粘り強さと情熱が組み合わさると、成功につながる傾向が強いことが明らかになってい る。それでは、どのような足場を築けば、練習に情熱を傾けることができるのだろうか? 私 のおすすめは「デリバレイトープレイ」という方法だ。    「単調な課題」に楽しく取り組むコツ  デリバレイトープレイはデリバレイトープラクティスの要素と教育的なゲームやプレイを組 み合わせたもので、楽しみながらスキルを伸ばせるように構築された体系的な活動である。つ まり、デリバレイトープレイはゲームのように楽しいが、活動を通じて学び、スキルを積み上 げていくことも目指す。特定のスキルを磨くために、複雑な課題はよりシンプルな要素に分割 される。  エヴェリンーグレニーに練習方法について尋ねると、練習時問のほとんどをデリバレイトー プレイに費やすという。退屈になると、楽器を替え、数種類の打楽器の間を軽やかに往復する。  「マリンバの新しい技術を習得したい時は、退屈する前にドラムセットに移動します」と。  楽器を切り替えることで、単調にならないようにし、情熱をうまく保つことができるのであ る。  「私にはルーティンというものがありません」とエヴェリンは笑いながら言う。「お決まりの 手順に縛られるのがイヤなのです」  デリバレイトープレイではよく、練習に目新しさや多様な変化を加える。練習の方法や使用 する道具を新しくしたり、設定する目標や関わる人を変えたりして、獲得しようとするスキル によっては、ゲーム形式を取ることもあれば、ロールプレイや即興的な練習を取り入れること もある。  デリバレイトープレイに関する研究報告に初めて触れた時、私はその秘められた可能性に大 いに心惹かれた。もしかすると、人が何かの技能を習得する際、常にあの「調和の取れた情 熱」を持って取り組めるようにできるのではないか、と。例えば、これまで当たり前とされて きた職業訓練の方法も、このデリバレイトープレイの考え方を取り入れれば、単調な課題をよ り魅力的なものに変えられるのではないか。そんな考えが私の頭を巡り始めた。  そこで同僚と共に、医療従事者を対象に実験を行なった。その結果、医療従事者たちが最も 精神的に疲弊する課題にデリバレイトープレイの要素を取り入れると、彼らの燃えつきが軽減 されることがわかった。  例えば、アレルギー科の看護師が、自己紹介で「クイック注射の名看護師」を自称したとこ ろ、まず患者の緊張がほぐれた。そして、その看護師が注射にかかる時間を患者に計測しても らったところ、患者は再来院の際に同じ看護師を指名し、前回のタイムを更新できるか挑戦す るよう促したという。  近年、専門的能力を伸ばすために、デリバレイトープレイを取り入れる動きが見られる。例 えば、いくつかの医科大学では、言葉以外の合図(非言語的サイン)を読み取るという難しい 練習を、楽しみながら行なえるよう、トレーニングの一環として即興コメディのコースを設け ている。  その一つに「外国映画」と名づけられた演習がある。この演習では、医学生が意味不明な咎‥ 葉を大声で話す同級生を観察し、表情や身振り手振りからその意図を理解する訓練を行なう。 学生たちからは、デリバレイトープレイは単に楽しい上に、優れた医師になるために必要な技 術も高めてくれるとの声が上がっている。  この効果を裏づける有力な証拠も存在する。ある医科薬科大学では、こうした即興コメディ をコミュニケーションの授業に取り入れたところ、医学生の「相手の心情を察する力」が伸び て問診能力が向上し、患者の訴えから的確な診断を下すようになったのである。  デリバレイトープレイが効果を上げるのは、医療分野だけではない。例えば、販売促進の研 修コースで、参加者を販売員役と顧客役に分けるロールプレイを取り入れている企業は多い。 ある演習では、顧客役の参加者が一つの箱を持って店に入り、販売員役がその箱の中に何が 入っているかを尋ね、会話を三分間途切れさせることなく続けることを目標とする。このロー ルプレイに参加したグループは、後日、プロスポーツチームのチケット販売という課題で、参 加しなかったグループよりも四三パーセント多くチケットを売り上げた。そして、より楽しく 学習できたのも、ロールプレイを行なったグループのほうであった。  多くの場合、教師やコーチが「学びの足がかり」として、デリバレイトープレイを練習に取 り入れる。しかし、独力で大きく進歩することも不可能ではない。  例えば、ピアノの初見演奏能力を高めたいのであれば、新しい楽譜でどれだけ多くの音符を 間違えずに弾けるかに挑戦し、その成果を毎週記録する。あるいは、スクラブル(アルファ ベットの駒で単語をつくり得点を競うゲーム)でアナグラム(文字の並べ替え)の技術を磨き たいなら、ランダムに並べた文字から一分間でいくつの単語を見つけ出せるかやってみる。    「やる気の維持」と「スキルの向上」の両立法  デリバレイトープレイは、とりわけスポーツの世界で広く活用されている。若い頃から一つ の競技に専念しすぎたアスリートは、早期にピークを迎え、燃え尽きてしまう傾向があること は多くの研究が示している。幼少期から成功のみを目指して厳しい訓練を重ねてきた場合、心 身の健康を損なう危険性も高まる。しかし、練習にデリバレイトープレイの要素を取り入れる と、競技への喜びを持続させ、より大きな成果へとつなげることが容易になる。  スポーツにおけるデリバレイトープレイは通常、パフォーマンスの向上や競争の楽しさを軸 に設計される。例えばテニスでサーブを磨く際には、狙った場所に何球連続で打ち込めるか、 といった目標を自身に課すのである。スポーツでの成功とは、ライバルに打ち勝つことでもあ れば、新たな技術レベルに到達すること、記録を更新することでもあるだろう。重要なのは、 費やした練習時間を数えるのではなく、自身の進歩の軌跡を辿ることである。得点や勝敗は、 単なる結果ではなく、成長を測るための一つの尺度に過ぎない。  ブラジルの、あるスポーツ心理学者がデリバレイトープレイとデリバレイトープラクティス のどちらが若手バスケットボール選手の育成に有効かを検証する、ちょっとした実験を行なっ た。一方のグループの選手たちは、練習時間の大半をデリバレイトープラクティスに充てた。 ディフェンスのいる状況といない状況の両方で、ドリブル、パス、シュートといった基本的な 技術の反復練習を行ない、コーチから定期的なフィードバックを受けた。  もう一方のグループの選手たちは、練習時間の四分の三をデリバレイトープレイに費やした。 コーチたちは、技術を磨くために特訓するのではなく、独自に考案したゲーム形式の練習を導 入した。ある練習では、チームメイトの一人がパスのみを許可されシュートは禁止される、と いう制約の中でプレイした。また別の練習では、一人対二人とか三人対四人といった、人数的 に不利な状況でのプレイを経験させた。  数カ月後、心理学者たちは両グループの選手のゲームーインテリジェンス(試合状況を理解 し判断する能力)と創造性をテストした。評価したのは、相手ディフェンスを巧みにかわし、 コート上の有利なスペースへ移動できるか、効果的なパスを出せるか、である。その結果、よ り著しい技術向上を示したのは、デリバレイトープラクティスを行なったグループではなく、 デリバレイトープレイを取り入れたグループであった。  調和のとれた情熱を伴うデリバレイトープレイは、単調さからくる退屈症候群や、負荷のか けすぎからくる燃え尽き症候群を回避する助けとなる。デリバレイトープレイは、一見すると ゲーミフィケーション(ゲーム以外の分野にゲームの要素を応用すること)に似ているように 思えるかもしれないが、その本質は根本的に異なる。  多くの場合、ゲーミフィケーションは巧妙な工夫であり、いわば退屈な課題に報酬や競争と いった「おまけ」を付け加えた仕掛けである。その主な目的は、ドーパミンの放出を促して退 屈さを感じさせないようにし、疲労感を乗り越えさせることにある。  確かに、得点表のようなものがあれば意欲も刺激され、困難な課題も何とかやり遂げられる だろう。しかし、そのような表面的な工夫で、自身の好まないルーティン作業そのものを好き になることはない。デリバレイトープレイでは、モチベーションとスキルの両方が向上するよ うに、課題そのものの設計を何度も見直すことができる。その最たる例として、あるバスケッ トボールトレーナーが考案した練習法を紹介しよう。    「過酷な練習」から「引き込まれる練習」へ  私は、個人トレーナーのブランドンーペインが掲げる練習の信条を読んで、ぜひ話を聞きた いと思い、彼に電話をかけた。米ノースカロライナ州シャーロットの郊外で育ったブランドン は、幼い頃からバスケットボール一筋であった。バスケットボールコーチである父親に早くか ら基礎を叩き込まれ、午後も、夜も、週末も、車庫の前でシュート練習に明け暮れたという。 やがてフリースローとスリーポイントシュートを高確率で決めるシュートの名手として知られ るようになった。  だが、ツイングート大学へ入学し、野心を持ってバスケットボール部へ入部して間もなく、 大きな壁に突き当たった。オープンスペースを見つけて走り込んでも、相手選手より速く到達 できない。一方ヘドリブルすると見せかけて反対側へ切り返しても、相手ディフェンスを振り 切れない。  しばらくするとブランドンの技術は伸び悩み、コーチからはプロのバスケットボール選手に なれる見込みはないと宣告された。「絶望しました」とブランドンの声が悲しく響く。「プレイ することがこんなにも好きなのに、お前のキャリアはここまでだと誰かから告げられる。これ 以上辛いことはないと思います」  ブランドンはバスケットボールが好きだったが、シュート以外の練習を好まなかった。しか し、相手ディフェンスをかわして、シュートの機会をつくり出すには、瞬発力と敏捷性を向上 させなければならない。「私の運動能力は隕られていました。やらなければならないことをや らなかったからです」とブランドン本人も認めている。スピードを高めるために必要なスプリ ント練習も、柔軟性を養うために不可欠なストレッチも、フットワークを鍛えるための反復練 習もやってこなかったのである。  ブランドンは方向転換し、コーチングの道へと進んだ。今度は自身が選手たちの意欲を高め る番である。かつて自身が避けて通った訓練を、選手たちにさせなければならない。選手たち は、激しい疲労を伴う訓練を嫌った。コートの端から端まで全力疾走するスプリント練習は筋 肉に負担がかかるし、フットワークの反復練習は単調でひどく退屈だった。  その一方で、シュート練習には、かつてのブランドンがそうであったように、誰もが喜んで 取り組んだ。だが、シュートに向ける情熱は、退屈な練習に向けられるどころかむしろ、それ らの練習を一層つまらないと感じさせた。ジャンプシュートする喜びが高まれば高まるほど、 その前段階である延々と続くドリブル練習に対する嫌悪感は強まっていったのである。  人は一つの課題に情熱を傾けると、他の、やらなければならない退屈な課題を疎かにしがち である。この傾向は、私がかつての教え子であるジヘーシンと共同で行なった研究でもはっき りと見られた。韓国の販売員を対象としたある調査では、職場において、好ましい課題への熱 意が強ければ強いほど、好ましくない課題における成果が低下することが明らかになった。さ らに、私たちは再現実験として、電話帳に記載された氏名と電話番号を書き写すという単調な 課題を被験者に課した。そのうち無作為に選んだ被験者に、事前にユーチューブで愉快な動画 を視聴してもらったところ、彼らは課題においてより多くのミスをおかした。事前の楽しい体 験との落差が、データ書き写し作業を極めて退屈に感じさせたのだ。  練習では通常、様々なスキルを磨くものであり、そのすべてを好む者はいないだろう。ブラ ンドンは、どうすれば練習の一つひとつに情熱を持って取り組めるようにできるか、その方法 を模索し始めた。練習に伴う苦痛を取り除くことはできなくとも、練習に楽しみを加えること はできる。最も過酷な演習を選手に押しつけるのではなく、選手たちが夢中になるような練習 の仕組みを考え出すことにした。「選手たちが私と同じ過ちをおかさないよう、新しいシステ ムをつくりたかったのです」とブランドンは当時を振り返る。選手たちがバスケットボールへ の情熱を力に変え、才能を開花できるよう、学びの足場を築こうと決意した。  二〇〇九年、ブランドンはバスケットボール選手のためのトレーニングセンターを設立する。 ある日、一人の若いNBA選手と出会った。この選手にはいくつかの弱点があった。それは多 くのスカウトの目にも明らかたった。「身体能力が低すぎる」と一人のスカウトは記している。 「体格、筋力、横方向の俊敏性、運動能力のいずれにおいても劣っている。爆発的なパワーが ないため、リーグのスター選手になる見込みは薄いだろう」と失望をあらわにするスカウトも  この選手が自分と同じ欠点を抱えていることに気づき、ブランドンは彼に名刺を渡した。こ うして翌朝から、ブランドンとその若手選手の二人三脚が始まった。ブランドンと共にトレー ニングを積んだ後の最初のフルシーズンで、彼はNBAでスリーポイントシュート成功数の最 多記録を樹立した。数年後には、シーズン連続でNBA最優秀選手賞を獲得する。その選手の 名は、ステフィンーカリーだ。    「非凡な才」を引き出す工夫  ステフィンーカリーは、NBA史上最高のシューターとして名高い。マイケルージョーダン がスラムタンクでそうだったように、ガリーはスリーポイントシュートによって、試合をあた かも射撃コンテストのごとく変貌させ、バスケットボール界に革命をもたらした。スリーポイ ントシュートの通算成功数における過去の記録保持者二人は、それぞれの記録を樹立するまで に少なくとも千三百試合を要したが、ガリーはわずか七百八十九試合で彼らの記録を塗り替え てしまった。  父親もNBA選手だったにもかかわらず、ガリーはバスケットボールの名門大学から奨学金 をもらうことができなかった。高校卒業時、彼はひどく過小評価されていたのである。リク ルーターからの評価も星五つのうち、わずか三つである。高校最終学年を迎える前の夏、デイ ビッドソン大学のコーチがガリーのプレイを見にきた。「ボールを観客席に放り込んだり、パ スされたボールを受けそこなったりと、それはひどいものだった。ドリブルを自分の足に当て てしまうし、シュートも外した」と、そのコーチは当時を振り返る。  「だが、彼はゲーム中に一度たりとも審判を非難したり、チームメイトをなじったりしなかっ た。常にベンチからチームを鼓舞し、決して臆するそぷりも見せなかった。それが私の脳裏に 焼きついたんだ」  そうしたガリーの性格スキルは、既に早いうちから顕現していた。幼少期に父親のチームに ついていった際、ガリーは「まるで小さなスポンジのようだった。どこへ行っても知識を吸収 していた」と、当時の選手の一人は言う。高校時代には、自分が苦しい状況にあっても力を尽 くしてチームを支え、白らを律して冷静に振る舞った。だが研究によれば、自制心の強い人ほ ど、そのスキルを実際に活用する機会は少ないという。  自制心の強い人は、努力を要する状況に直面した際、強い意志力によって乗り越えようとす るのではなく、状況そのものを変えることで乗り越えやすくする傾向が強いと、私の同僚であ るアンジェラーダックワースは指摘する。  それを示す好例として、マシュマロテストに関する研究を挙げる。マシュマロテストは、心 理学史上最も有名で、おそらく最も誤解されがちな実験の一つだ。既にご存じの読者も多いと 思うが、どういうものかざっと説明する。心理学者は四歳児に、皿の上にマシュマロを一個置 き、数分間食べずに待つことができたら、後から二個のマシュマロをあげると伝える。後に得 られる、より大きな報酬のために、目の前のマシュマロを囗に運ぶのを我慢できた子どもは、 十代になってからの大学進学適性試験(SAT)で、より高い得点を獲得した。この結果につ いては、近年になり再現実験も行なわれている。  私はマシュマロテストのビデオを初めて観た時、とてつもない意志力を持ったスーパーキッ ズたちが登場するのを期待した。しかし、ビデオに映っていたのは、必死に我慢するのではな く、我慢しなくてもいいように、ちょっとした工夫を凝らす子どもたちの姿たった。目やマ シュマロを手で覆う子もいれば、手をお尻の下に敷く子も数人いた。マシュマロを手でこねて ボールのように弾ませたり、おもちゃにして遊んだりする子もいた。要するに、子どもたちは 自分なりのデリバレイトープレイを即席でっくり出したの沍。これこそ、まさにブランドンー ペインがステフィンーカリーのために行なったことだ。    人が「急速に進歩する」時の条件  ブランドンがガリーの専属トレーナーになって、既に十年以上が経つ。当初、彼が掲げた モットーは「我々のワークアウトに退屈なことはない」。ブランドンは、練習の中で最も(I ドな訓練を容易にするための足場を構築し、ガリーが強い克己心に頼らずとも、大きな進歩を 遂げられるようにした。  テクニカルスキルを磨きながらも楽しく練習できるよう、ブランドンはデリバレイトープレ イのメニューを作成した。例えば、「トゥエンティワン」と呼ばれる練習。この練習では、ス リーポイントシュート、ジャンプシュート、レイアップシュート(一点として加算)を組み合 わせて一分間のうちに二十一得点上げることを目標とする。ただし、一同シュートする度に コート中央までダッシュして戻らなければならない。このゲームは息が上がるが、実際の試合 における疲労感を模擬体験できる。  「一つひとつの練習がゲームです」とブランドンは説明する。「常に時間との戦いであり、常 に得点を追い続けなければなりません。時間も得点も制することができなければ、それは負け です」  他者と競う場合、技術向上を図らずとも勝利できるという欠点がある。勝囚は、相手の調子 がたまたま悪かったのかもしれないし、白分の運がよかっただけかもしれない。  一方、ブランドンのデリバレイトープレイでは、競う相手は自分自身だ。過去の自分と競い、 未来の自分のために難易度を上げていく。完璧を目指すのではない。より向上するために、 シュートする。成長することこそが、勝つための唯一の手段なのだ。  理想の練習法は、一つの技を進歩が見られるまで集中して徹底的に磨くことであると、私は 思っていた。だがブランドンは、同じ課題を延々と繰り返すのではなく、多様な要素を組み合 わせる。ガリーは二十分毎にシュートと瞬発力を鍛える演習から他の演習へと移行する。変化 を取り入れることは、モチベーションのみならず、学習の質も高める。数百もの実験が明らか にしているように、異なるスキルが交互に刺激される時、人は急速に進歩するのだ。  これは心理学で「インターリーブ(同時進行)法」と呼ばれ、絵画から数学に至るまで、あ らゆる分野に応川可能である。とりわけ、類似するスキルや複雑なスキルを交互に磨く時、効 果が高い。わずかな変化(例えば、細い絵筆と太い絵筆を交互に持ち替える、あるいはバス ケットボールの重さを少し変えてみるなど)でさえ、大きな違いをもたらす。  デリバレイトープレイは、練習が退屈になりがちな夏のオフシーズンを乗り切る際に、とり わけ有効である。シーズン中は一週間のうちに複数の試合があるため、モチベーションを保つ ことはさほど難しくない。だがオフシーズンになると、途端に選手は練習への興味を失う。そ れはトッププレイヤーとて例外ではない。期待の新人ルカードンチッチも、体が鈍った状態で シーズン開幕前の練習に現われたことがあった。そこでブランドンの指導の下でトレーニング に励み、体重を落とし、同時にスピードを向上させたのだ。  「夏が長く感じられることもあります。ストリートバスケでもしていれば別ですが、気をつけ ていないと、ワークアウトが単調になりがちです」とステフィンーカリーはリポーターに語っ た。ガリーによると、デリパレイトープレイは、「プレッシャーを感じながらゲームのような 状況をつくり出す。のめり込んで、集中力を保たなければなりません」。  十年にわたってトレーニングを積んだ後、ガリーは自分の中に秘めていた可能性を解き放っ た。身長百八十ハセンチ、体重八十四キロと体格的には不利であるものの、爆発的なパワーと 極めて精度の高いシュートでそれを補っている。この成功の大きな力となったのは、ブランド ンが考案したデリバレイトープレイだとガリーは言う。このおかげで調和のとれた情熱を持っ て練習できた。だが、デリバレイトープレイの練習から多くを学ぶことができたのは、ガリー 自身の意志力のおかげでもある。  「彼は学ぶ過程を楽しんでいる。これはすべての優秀なアスリートに共通することでもありま す」と長年、ガリーのコーチを務めるスティーブーカーは言う。「ルーティンはありますが、 毎日楽しんでやっています。そこには情熱もある。そして情熱がルーティンを継続させる原動 力になっている。彼らのように楽しんで取り組めば、スキルを磨き、学び続けることができま す」  デリバレイトープレイは一夜にしてプロのスポーツ選手を生み出しはしないが、モチベー ションを高め、進歩を促す。私は先口、ステフインーカリーのトレーニング法を毎口二時間実 行したユーチューバーの動画を観た。当初、スリーポイントシュートの成功率はわずかハパー セントだったが、五十日間デリバレイトープレイを続けた後、大きな進歩を遂げ、成功率はな んと四〇パーセントまで向上した。  デリバレイトープレイが調和のとれた情熱を引き出し、持続させることが可能であることは 明白だ。しかし、情熱を長期間にわたって維持することは、果たして可能だろうか? できる とソローパーカッショニストのエヴェリンーグレニーは信じている。現に、彼女は半世紀にわ たって情熱を持ち続けてきた。だが研究によると、デリバレイトープレイは四六時中行なうべ きでないとされる。これをグレニーは身をもって知った。    心と才能を「充電」する技術  私か初めてエヴェリンーグレニーのパフォーマンスを観たのは、二〇匸一年に開催された口 ンドンオリンピックの開会式だった。エヴェリンは、式典の効果的なクライマックスをつくり 上げるため、千人ものパーカッショニストを従えて登場した。多種多様なドラムの大群を率い て、エヴェリンがリズミカルなタップから急速なテンポの強打へと演奏を展開させると、スタ ジアムの興奮と高揚感が増幅していった。  しばらくして聖火リレーのトーチを掲げた金メダリストが入場すると、エヴェリンは新楽器 「グレニー・コンサートーアルフォン」を世界に披露した。これは、エヴェリン白身が設計に 携わったアルミニウム製の楽器で、数多くのマッシュルーム形のベルが取りつけられている。 エヴェリンが四本のマレットで打ち鳴らすと、オーケストラチャイムよりも温かく、人々に希 望をもたらすような音色が響きわたった。  彼女が身体的障害を抱えていて白身がつくる音楽が聴こえないなどとは、私には到底信じら れなかった。  エヴェリンが十代の頃に王立音楽アカデミーのオーディションを受けた際、聴覚に障害を持 つ女の子がプロの音楽家になるとは、審査員団の専門家たちには全く想像もできなかった。だ が、評価の対象は障害ではなく、演奏者の技術であるべきである。エグェリンは自らの力量を 証明するため、再挑戦した。二回目のオーディションの後、アカデミーはついにエヴェリンの 入学を許可した。それだけではない。この一件により、英国内のすべての音楽学校の基準が改 められ、志願者を身体的能力ではなく音楽的技能に基づいて評価するようになったのだ。  アカデミーの全口制課程に入学すると、エヴェリンは練習を楽しんだ。当初は一日に二〜三 時間ほど練習していたが、次第にプレッシャーを感じるようになった。同級生たちがより長い 時間を練習に費やすのを見て、自分の中に焦りや義務感が生まれることに気づいたのである。  どのくらい練習すべきだろうか。もっと練習すべきだろうか。そうして、一時問早く起床し て練習し、夜も遅くまで練習に励むようになった。ところが、その義務感が、パーカッション の楽しげなリズムを奪っていった。創造力が失われ、進歩もないとエヴェリンは感じた。練習 のしすぎは逆効果であると悟ったのは、その時だ。その後、自分の音楽が単調にならないよう、 定期的に休憩を取ることを心がけるようになった。  実際、休憩を取ることには、少なくとも三つの利点がある。  第一に、しばし練習から離れることで、調和のとれた情熱を持続させることが可能になる。 研究によれば、疲労を軽減し活力を取り戻すには、五〜十分程度の小休止でも十分だ。休憩が 大切なのは、燃え尽き症候群を防ぐためだけではない。夜間や週末も働くと、仕事に対する興 味も集中力も減退することが、研究によって明らかになっている。「今日は土曜口だ」と思い 起こすだけでも、内発的な意欲は下がる。働く代わりに、楽しい活動やリラックスすることに 時間を費やせたはずだと気づくからである。  著名なチェロ奏者のヨーヨー・マは、日々の練習を三時問から六時間までと決め、セッショ ンの予定を早朝や夜遅くに入れないように心がけているという。かのショパンも、夏の間は一 口に二時間以上練習しないようにと弟子たちに指示したと伝えられる。  第二に、休憩を取ると新たな発想が湧く。私はジヘーシンとの共同研究において、課題に対 する「調和型の情熱」が存在する場合、休憩によって創造力が増幅されることを突き止めた。 興味があれば、問題意識は持続する。すると、問題を異なる角度から見直し、意外な解決法を 見出す可能性が高まるのである。  劇作家のリン=マニュエルーミランダが大ヒットミュージカル「『ミルトン』の着想を得た のは、休暇中、プールでマルガリータを片手にフロートチェアに身をあずけ空想にふけってい た時だったという。同様のことは、偉大な作曲家にも当てはまる。ベートーベンも、チャイコ フスキーも、マーラーも、作曲に費やすのとほぼ同じくらいの時間を、定期的な散歩に費やし たそうだ。  第三に、休憩は学習効果を深化させる。ある実験では、何かを学習した後に十分の休憩を 取った学生は、学習内容の記憶保持力がI〇〜三〇パーセント向上した。また、脳卒中やアル ツハイマー病の患者においては、さらなる向上が確認された。  私たちの記憶の中にある情報は、二十四時間が経過すると薄れていく。忘却曲線(時間と記 憶の相関関係を表わしたグラフ)が右下がりになるのだ。多くの研究で実証されている通り、 忘れないようにするには問隔を置いた復習、つまり習得するまでの間に何度も休息を挟むこと が有効である。  例えば、初めは一時間に一回練習する。そして徐々に休息の時間を長くしていき、最終的に は一日に一回練習をするというようにだ。  強迫観念に囚われていると、休息を取ることはアクセルから足を外す行為のように思える。 私たちは疲労が限界に達するまで、ブレーキを踏もうとしない。疲労こそが優れた結果を生む ための代償だと思い込んでいるからだ。  しかし、調和のとれた情熱があればヽ休息は ゴールにたどり着くための燃料だと気づくよう になる。エネルギーを維持し、燃え尽き症候群 を回避するためにも、定期的な休憩は不可欠な のである。    「喜び」がなければ    才能は潜んだまま  リラックスすることは、時間の浪費ではない。 むしろ、心身の健康(ウェルビーイング)への 投資である。  休息は、単なる娯楽ではないこむしろヽ意識 をリセットし、アイデアを醸成する好機なので ある。  遊び(プレイ)は、不真面目な活動ではない・ むしろ、喜びの源泉であり、熟達への道なので ある。  エヴェリンは一人で練習している時も、世界の聴衆の前で演奏している時も、同じように喜 びを発散させている。読者も彼女の演奏を目にすれば、それを感じ取れるだろう。だがエヴェ リンの場合、二十分以上、休憩を入れずに続けて練習することはほとんどない。  「今すぐスティックを手に取って音を鳴らしたいという衝動に駆られる時もありますし、「今 はここに座ってボーツとしていたい」と思う時もあります。ちょっと何かを書きたい気分の時 もあれば、よい本を読む時もありますよ」  興味や集中力が途切れた時は練習を完全に中断する、とエヴェリンは語る。  「練習して進歩したら、それは価値ある練習だったと言えます。要は量ではなく、質。変化を 実感すること、部屋を出る時に、何かが変わったと自分で感じることが大事です」  つい最近、ある少女の母親が、エヴェリンのもとへ助言を求めにやって来た。娘が数々の音 楽技能試験を受けた後、バイオリンの練習をしたがらなくなったという。母親は、エヴェリン がその少女を励まし、練習を続けるよう促してくれることを期待していた。  代わりに、エヴェリンはデリバレイトープレイを即座に考案し、少女に次のような課題を与 えた。いくつかの曲を終わりから逆順で弾いてみること。バイオリンを弾かないための方法を 十通り考えること。お気に入りのテレビ番組の音楽とお気に入りの動物の音を融合させること。 セッション終了後、少女は晴れやかな笑顔で帰っていった。  少女がバイオリンを弾きたがらなくなったのは、以前の練習では「技能審査の成果」に重点 が置かれていたからだ、とエヴェリンは言う。少女はデリバレイトープレイによって、「白身 の喜びこそが真の成果である」ことを学んだのである。喜びがなければ、可能性は潜んだまま である。       一つひとつの限界は、終わりでもあり、始まりでもある。                    ジョージーエリオット(小説家) 「行き詰まり」の先に隠れている宝 −停滞の壁を、飛躍への扉に変えていく  既に中学校一年生の時、彼は「野球の天才児」と呼ばれていた。高校に入って二年と経たな いうちに、プロチームのスカウトが彼の試合を観戦に訪れた。大学在学中には、オリンピック の米国代表チームに選出され、先発投手として銅メダルを獲得。同年、メジャーリーグのドラ フトでテキサスーレンジャーズから一巡目指名を受け、八十万ドルの契約金を提示された。球 団マイナーリーグの上位クラスからプロとして出発することになったが、一〜二年でメジャー 昇格を果たすだろうと期待された。R・A(ロバートーアラン)・ディッキーの前途は洋々た るものだった。  ところが突然、彼の前途に暗雲が垂れ込めた。  一九九六年、テキサスーレンジャーズとの契約締結直前に、同球団のトレーナーがR・Aの 肘の奇妙な湾曲に気づいた。レントゲン検査の結果、R・Aは生まれつき右肘の内側側副籾帯 を欠いていることが判明。利き腕の関節を支える靭帯がない以上、右投手としての将来性に限 界があるのは明らかたった。速球は、今以上に速くなることはない、と。レンジャーズは当初 提示していた契約金を八万ドルにまで引き下げ、R・Aを球団傘下マイナー組織の最下位へと 配属した《ストライクーワン》。  こんなはずではなかった。野球は彼にとって、暗い人生から抜け出すための道であったはず だ。テネシー州ナッシュビルで育ったR・Aは、五歳になるかならないかのうちに、酒に溺れ る母親に口々地元のバーヘ連れていかれ、そこで閉店まで過ごしていた。その数年後に両親は 離婚し、父親が訪ねてくることは二度となかった。見捨てられたと感じたR・Aには、白身の 価値を証明する術が必要であった。  七年もの間、R・Aは野球人生の盛りを無為に過ごしているかのような焦燥感に駆られなが らも、マイナーリーグで努力を重ねた。威力のある速球を投げられなかったため、ボールに回 転をかけたり球速を変化させたりして、打者を幻惑する投球術を磨いた。そして、ついに、 二十代後半で大きな好機を掴む。マイナーリーグから昇格して、継続的にメジャーリーグの試 合に出場する機会を得たのである。  だが、自身がメジャーリーグで通用しないことを悟るまでに、さほど時間はかからなかった。 「ジャーニーマン(渡り鳥選手)」「能力不足」「二流選手」。スカウトも報道陣も、一様にR・ Aのプレイぶりを酷評し、その潜在能力を否定した。あまりにも多くのホームランを浴び、白 星よりも黒星のほうが多かった。  それが何を意味するか、R・Aは理解していた。自分は成功を収めることなくキャリアを終 えることになるのかもしれない、と。  メジャーリーグ三季目の半ば、R・Aはレンジャーズ球団幹部から辛い宣告を受ける。 「「君の将来が見えない」と言われました」と彼は当時を振り返る。「その評価を否定すること はできませんでした。実際に、私は非常に長い間、闇の中を彷徨っていたのです」。球団は R・Aを再びマイナーリーグへ降格させた《ストライクーツー〉。  それでも、必ずメジャーへ戻るというR・Aの決意は揺るがなかった。オフシーズンには、 コンクリートブロックを相手に数えきれないほど投球練習に励み、車の運転中ですら右手で ボールを握り続けて握力を鍛えた。それまで以上に自身に鞭打ったのである。  翌シーズン、レンジャーズはR・Aに二度目の機会を与えた。そしてメジャーリーグへ復帰 して最初の試合で、R・Aはメジャーリーグタイ記録を達成してしまう。よい意味の記録では ない。R・Aは、わずか三と三分の一イニングで相手に六本ものホームランを浴びたのだ。か つてこのような屈辱を味わった投手はいなかった。観衆からのブーイングを受け、レンジャー ズはR・Aを降板させざるを得なかった。こうして、R・Aは再びマイナーへ戻された《スト ライクースリー、アウト〉。    進歩が「一直線のコース」を辿ることは稀  一般的に、投手は二十代後半までに全盛期を迎え、三十代前半には引退する。この時、R・ Aは三十一歳。誰の目から見ても、再びメジャーへ返り咲くには歳を取りすぎていた。自身の 野球人生は終わったIそれまでに何度も壁に突き当たってきたが、今回はそう感じざるを得 なかった。  スキルを磨く過程において、行き詰まりほど深い挫折感を引き起こすものはない。継続的に 進歩することができなくなり、停滞が始まる。そんな時、大は精神的にも肉体的にも能力の限 界に達したように感じる。停滞が成長の終焉の兆しであるならば、それは下降の始まりを意味 するのだと思い込みがちだ。自分の最盛期は過ぎ去り、この先は下り坂となる一方である、と。  外科医の場合、視力と反射神経の衰えが能力の限界を意味するかもしれない。科学者であれ ば、神経細胞が死滅した時が引退の潮時かもしれない。アスリートは筋力とスピードが衰えれ ば、必然的に停滞し、選手生命は終焉へと向かう。いや、少なくとも私たちはそう推測する。 だが実際には、そのような明確な線引きは存在しない。そして、停滞とは、誰もが思うほど絶 望的なものではないのである。  R・A・ディッキーは三十五歳の時、白身の前に立ちはだかっていた壁を、ついに完全に打 ち破った。球界入りして十四年、その大半をマイナーリーグで過ごした後、再びメジャー昇格 を果たす。同年、球界全体でトップ十に入る優れた防御率を記録し、ニューヨークーメッツと の巨額の複数年契約を手にした。  ドラフトで彼よりも高い順位で指名されてプロ入り・した同期の選手九人のうち、八人は既に 引退し、残る一人はメジャーの舞台に一度も立つことがなかった。一方、R・Aは、その時よ うやく、自身の内に秘めた可能性に気づいたのである。  R・Aが成功への道を見出すことができたのは、多くの人々が支えてくれ、確固たる足場を 共に築いてくれたからである。R・Aは多方面から様々な助言を受け、あたかもパズルのピー スを組み合わせるように、長い年月をかけてそれらを組み立て、自身の足場を固めていった。 振り出しに戻るよう助言した人も何人かいた。もし彼らの助言に従わなかったならば、R・A は永遠に行き詰まり状態から抜け出すことができなかっただろう。  閉塞状態とは、失敗のサインではない。停滞とは、成長が止まったことを示すものではない。 それらは、方向転換をして新たな道筋を探すべきであるという合図なのである。  行き詰まってしまうのは、多くの場合、進む方向や道を誤った時だ。あるいは単に、燃料切 れということもあるかもしれない。進歩の勢いを取り戻すには、来た道を引き返し、他の道を 試してみることも時には必要である。たとえそれが、本来意図した道ではないとしてもだ。そ れは、馴染みのない、曲がりくねったでこぼこの道かもしれない。だが進歩が一直線のコース を辿ることはほとんどない。往々にして、人は紆余曲折を経て目標へ到達するものなのである。    進歩するためには時に「後退」も必要  スキルは、着実なペースで発達するわけではない。スキルを磨くことは、山道で車を運転す るようなものである。高く登るにつれて、道の勾配は急になる。それに伴い、進む速度は落ち ていく。勢いを失い、今にも停止しそうになる。アクセルを踏み込んだところで、状況は好転 しない。車輪が空まわりし、立ち往生してしまう。  認知科学者であるウェインーグレイとジョンーリンドステッドは、進歩に関する過去百年の 研究結果を再検討した後、進歩が描く興味深い軌道に気づいた。我々のパフォーマンスは、停 滞し、再び上向きに転じる前に、一度低下するというのである。調査の結果、テトリスからゴ ルフ、さらには単純な知識を記憶することに至るまで、広範な課題において、人のスキルは停 滞した後、一度低下し、それから再び向上する傾向が見られた。  道が行き止まりとなった時、目的地に辿り着くためには、一度山を下らなくてはならないこ ともある。そんな時はある程度のところまで引き返し、別の道筋を見つければいい。もっとよ い道が見つかれば、勢いがつき、頂上まで一気に登りつめることもできるだろう。  踵を返す必要があるとわかっていても、私たちはそれを認めたがらないことが多い。後退と は、これまでの計画を中断し、一からやり直すことを意味するからだ。これによって、成果は 一時的に低下する。つまり、後退することで、これまでゴツゴツ築き上げてきたものを放棄す ることになるのだ。だがそれでもなお、私たちは進歩するために、後退が必要なのである。  グレイとリンドステッドは、「新たな方法が考案され、それが実用化されるかどうか試され ている段階では、既存のやり方での成果は一時的に落ち込む傾向にあります」と説明している。 「そして新たに有効な方法が導入されると、以前の成果を超える進歩を遂げるのです」  適切な手法を見出すためには、試行することも失敗も覚悟しなければならない。取り組みが 全くの失敗に終わることもある。戦略が悪いと、努力も水泡に帰す。たとえよい方法を見出し たとしても、それに習熟するまではパフォーマンスが低下するだろう。だが、そのような一時 的な後退はよくあることだし、不可欠であることさえ少なくない。  パソコンなどで文字を入力する際、文字を探しながら打つ自己流のやり方で、一分で三十〜 四十の単語を打てるとしよう。自己流のやり方では、タイピングの速度が上がらない。一分間 に六十〜七十の単語を入力できるまで速度を高めたいのであれば、新たな手法を試さねばなら ないだろう。例えば、手元を見ずにキーボードを打つタッチタイピング法を習得してタイピン グの速度を上げようと思えば、キーの位置を指が覚えるまで一時的に速度を落とさざるを得な くなる。  スキルの難易度が増すと、上達への道のりはより険しくなる。例えば、ルービックキューブ の六面すべてを揃える最も簡単な方法は、一段ずつ揃えていくやり方である。まずは一面に青 の十字をつくり、面を回転させて角の色を揃えたら、次の段へ移る。およそ百三十回まわせば 完成する。完成までの時間を短縮したいのであれば、アルゴリズム(解法パターン)のリスト を覚える必要がある。初めは時間を要するが、練習を重ねれば、いずれ六十回程度回転させる だけで完成できるようになるだろう。その過程で、一度体に染みついた古い動きや癖を修正し、 新しい、より効率的で優れた動きを体に覚え込ませる必要がある。  後退することには、もう一つ意外な利点がある。思いがけず、後退が状況改善のきっかけと なることがあるのだ。  例として、NBAバスケットボールの二万八千試合を対象とした研究を挙げよう。研究者は、 スター選手が負傷してプレイできなくなった際、チームのパフォーマンスにどのような影響が 出るかを調査した。予想通り、チーム成績は悪くなった。だが、スター選手が負傷から回復し 復帰すると、チームは以前よりも勝利するようになった。なぜ、優秀な選手を失ったことが、 結果的にチーム全体を向上させることになったのか。  チームは中心選手を失ったことで、一度戦術を白紙に戻し、新しい戦い方を見つけ出す必要 に迫られた。そこで、選手の配置(フォーメーション)を変え、これまで目立たなかった選手 たちそれぞれの得意なプレイを引き出しつつ、選手同士の協力態勢をより強固にしていった。 その結果、スター選手がチームに戻ってきた時には、以前よりも多くの得点機会が生まれるよ うになった。チーム全体としてスター選手一人に頼りすぎることがなくなり、一人のエースに 頼り切る場面も減ったのである。  同様の傾向は、NHL(北米プロアイスホッケーリーグ)でも見られた。あるチームのある 選手が負傷欠場してチームは選手層の変更を余儀なくされ、これまで出場機会の少なかった選 手を起用する機会が増えた。そして、それが結果としてチーム全体のパフォーマンス向上へと つながったのである。  無論、負傷のような不運な出来事に見舞われずとも、自ら立ち止まり、一度来た道を引き返 し、そして新たな道を探し出すことは可能である。しかし人は、後戻りすることを躊躇しがち である。  「進歩が止まることは、これまで築き上げてきたものを失うことだ」「後退することは、諦め ることと同義だ」「進路を変えるのは、本筋から逸れることだ」と思ってしまうのだ。後戻り することで、現在の足場さえも失ってしまうのではないかと恐れる。その結果、たとえ行き詰 まりを感じていたとしても、結局はその場に留まるという選択をしがちなのだ。私たちは、道 に迷う際に生じる不安感を、受け入れる勇気を持たねばならない。    停滞を打破する「コンパス」の見つけ方  一度立ち止まり、別の道を選ぼうとすると、私たちは新たな「未知の領域」 へと足を踏み入 れることになる。それは、見慣れない道を歩み、まだ訪れたことのない目的地を目指すような ものだ。頂上がどこにあるのか、スタート地点からは見えないことも少なくない。だからこそ、 目的地へ辿り着くための道しるべとして、基本的なナビゲーションツール(進むべき方向を知 る手がかり)が必要となる。  残念ながら、完璧な地図というものは存在しない。私たちの目的にぴたりと合う理想的な ルートは、どの地図にもまだ描かれてはいないのである。そもそも、道自体が存在しない可能 性さえある。どちらの方向に進むべきか、どの角で曲がるべきか、試行錯誤を繰り返しながら、 少しずつ自ら道を開拓していく覚悟を持たねばならない。  しかし幸いなことに、第一歩を踏み出すために、必ずしも詳細な地図が必要なわけではない。 私たちに必要なのはただ一つ、進んでいる方向が正しいかどうかを示してくれる「コンパス」 だけである。  何を習得しようとしているかにもよるが、そ の「コンパス」は通常、書籍やウェブサイト、 あるいは誰かとの会話の中に見出すことができ る。優れたコンパスとは、あなたが正しい道か ら逸れたことを教え、よりよい方向へと導いて くれるものである。  例えば、プログラミングのためにn++を学 んでいて行き詰まったとする。そんな時、イン ターネットで検索すれば、より習得しやすく汎 用性の高いPythonという言語を推奨する情報 が見つかるかもしれない。油絵を描いていて、 どうしても絵の表面が滑らかに仕上がらないと 悩んでいるなら、身近な経験豊かな両家に相談 すれば、絵の具の粘度を調整するための溶剤を 教えてくれるだろう。  また、野球の投手が先の見えない長い不調 (スランプ)に陥り、何とかそこから抜け出そ うともがいている時、コーチがコンパスの役割を果たし、現在の速球では通用しない、新しい 球種を習得すべきだ、と進むべき道を示してくれることもある。  そのコンパスを得た時こそが、R・A・ディッキーの転機であった。私かR・Aに強い関心 を抱いたのは、彼ほど長期間にわたり不調に苦しみ、何度も後退を繰り返しながらも、最終的 に劇的な進歩を遂げた人物を、いまだかつて見たことがなかったからである。行き詰まりを打 開する方法を知る者がいるとすれば、最悪の状態から最高の状態へと見事に転換を遂げたR・ Aをおいて他にいないだろう。  マイナーリーグの投手として十年近い歳月を過ごしてきたR・Aは、家族を養いながらも、 野球の道で何とか成功を収めようと苦闘を続けていた。ある年のオフシーズンには、生活費を 稼ぐため、ワニが生息する沼地からゴルフボールを拾い集めて売ったことさえあったという。 十年間に三十回も引越しをしたが、野球選手としてのキャリアは行き詰まったままであった。 まるで、流砂の中でもがき、這い上がろうとすればするほど足を取られて沈んでいくような感 覚であった。  三十一歳で最後にマイナーへ降格された時、R・Aはピッチングコーチからコンパスを与え られた。君は間違った方向へ歩んでいる。このまま進んでも決してメジャーには戻れない、と コーチは言った。そして、彼のキャリアを救うべく、行き先の見えない謎に満ちた道を指し示 したのである。その道を知る者は極めて少ない。長年の野球人生の中で、R・Aは時折、自分 の持ち球の一つとして、ある奇妙な球種を投げ ていた。本人が「アレ」と呼んでいたものであ る。その投球を見た時、コーチはある事実に気 づいた。R・Aの特殊なボールの握り方が、球 界で「ナックルボール」と称される稀有な球種 のグリップに似ていたのである。ナックルボー ルを開拓して習熟させ、君の決め球にすべきだ と、コーチはR・Aに勧めた。  スピンの利いた鋭い速球に対し、ナックル ボールは球速が遅く、不規則に変化しながら落 ちる変化球だ。通常の投球では人差し指と中指 でボールを覆うように握るが、この球種では ボールに人差し指と中指の爪を立てて握る。こ の名前は、曲げた指の第一関節(ナックル)を 突き出すように投げることからきていると言わ れる。この特殊なグリップによって球の回転が 抑制され、球は左右に不規則に変化しながら落 ち、打者を幻惑するのである。  ナックルボールは軌道の予想かっかず捕球が難しいため、捕手は大きなミットを装着する。 投手は腕を全力で振る必要がないため、肩や肘への負担が少なく、投手としての選手寿命が数 年延びることも利点の一つだ。  しかし、打ちにくく捕球しにくいだけでなく、投げることはいっそう難しい。後にR・Aも 経験するが、これを習熟するのは至難の業なのだ。  ナックルボールの技術を磨くための明確な方法はまだ確立されていなかった。R・Aのピッ チングコーチたちは、誰もナックルボーラーを指導した経験がなかったのだ。つまり、誰も地 図を持っておらず、R・Aを正しい道筋へと導くことができなかった。ナックルボールに関す る教本もなければ、マニュアルもない。コーチたちはただ、「回転しない球を投げろ」と、コ ンパスの針が指し示す方向を示すだけだった。  ナックルボールを習得する過程で、R・Aは後戻りしているかのように感じることも多かっ た。ナックルボールでは回転を抑えるために、ボールをリリースする際に、手首をできる限り 固定し、前方へ押し出すようにする。だが、彼は幼少の頃から、ボールを投げる際には手首を 速く回転させて速球にはバックスピン、カーブボールにはトップスピン、スクリューボールに はサイドスピンをかけるよう教え込まれてきた。  「それまで習ってきたことすべてを意識して忘れなくてはなりませんでした」とR・Aは私に 語った。「そして全く新しい投球技法を学び直したのです。つまり、再建する前に、大がかり な解体作業が必要だったわけです。それまで積み上げたものすべてを破壊し、ゼロからまた積 み上げていかなくてはならなかったのです」  しかも、その努力が実る保証は、どこにもなかった。  R・Aは不快感を受け入れ、居心地の悪い経験をあえて重ねていくという性格スキルを最大 限に活用していた。けれども、最初の頃は、登板してナックルボールを投げるたびに、さんざ んな結果に終わった。マイナーリーグの初戦でマウンドに上がったものの、六イニングを投げ て十二本ものホームランを浴びた。メジャーリーグで挑戦するチャンスを与えられた際も、被 本塁打数で史上ワーストタイ記録を出してしまった。この痛烈な失敗の後、レンジャーズから 戦力外通告を受けた。  それでもR・Aは依然として、ナックルボールは可能性を秘めている、自分を正しい方向へ と導いてくれるはずだと信じていた。ただ、その行き着く先は皆目見当がつかない。それだけ が問題だった。  方向は示してくれるが、具体的な道順は教えてくれない。それがコンパスの欠点である。コ ンパスは誤った道を歩んでいることに気づかせ、適切な方角を示唆してくれるが、正しい進路 を決定するには導き手(ガイド)が必要である。    熟練者には教えを乞うべからず  人は道に迷った時、たいてい熟練したガイド(案内人)に助けを求める。「偉大になりたけ れば、偉大な者から学べ」を信条にする人も少なくないだろう。一流シェフが講師を務める料 理教室に通ったり、我が子をプロが指導するテニススクールに入れたり、自分の分野で活躍す る憧れの人物に助言を仰ぎ、その足跡を辿ろうとしたりする。物理の基礎課程をアインシュタ インから学べるならば、これ以上の幸運はないと考えるかもしれない。  ところが、現実はそう単純ではない。学生たちが専門家から本当に効果的に学べるのかを探 る、興味深い研究を経済学者が行なっている。研究のために、二〇〇一年から二〇〇八年まで の間にイリノイ州のノースウェスタン大学へ入学した全学生のデータを収集し、新入生が基礎 コースにおいてより経験豊富な指導者から学んだ場合、果たしてその後の専門コースでの成績 が向上したかとうかを調べた。経験の浅い講師よりも、例えば終身在職権(テニュア)を持つ 教授のような専門家から基礎を学んだほうが、知識はより深まると考えるのが自然だろう。し かし、研究結果は逆だった。基礎コースで熟練した専門家から学んだ学生は、その後の専門 コースでの成績が芳しくなかったのである。  この傾向は、どの分野でもはっきりと見られる。どの教科においても、基礎コースでは、学 生が専門家から学び得るものは少ない。これは、評価基準の甘いものから厳しいものに至るま で、あらゆるコースを対象とし、一万五千人の学生を長年にわたり追跡調査した研究からも明 らかとなっている。とりわけ、該当する専門分野に関する学生の予備知識が少ないほど、専門 家の指導による貢献度は低くなるのである。  実のところ、あなたが新たな道を進もうとする時、その道の第一人者と目される人物ほど、 最も役に立たない案内人(ガイド)となることが多い。なぜ、専門家が初心者にとってよき道 案内人となれないのか。それには、少なくとも二つの理由がある。 @「知識の呪い」という認知バイアス  その一つは、専門家たちがその分野を極めるために歩んできた長い道のりそのものにある。 出発点にいた頃の自分をすっかり忘れてしまって、初心者の立場に身を置いて考えることがで きないのである。これは認知バイアスの一種で、「知識の呪い」と呼ばれる。知識が豊富であ ればあるほど、知識を持だない人間の思考を推し量ることができなくなる。認知科学者のシア ンービーロックは、「専門的な習熟度が高まるにつれて、自身の知識を伝達する能力や、他者 のスキル習得を支援する能力は衰えていく傾向にある」という。  まさにこれこそが、教壇に立ったアインシュタインにかけられた呪いであった。アインシュ タインは知りすぎており、学生たちは知らなすぎたのである。あまりにも多くの発想が頭の中 を巡っていたため、アインシュタインは系統立った講義を行なうことができなかった。もちろ ん、重力による光の屈曲について、新入生に説明することなどなかったが。  熱力学のコースを新たに開講した際、彼が新進気鋭の物理学者として名声を博していたにも かかわらず、受講を希望したのはわずか三人であった。アインシュタインの教育に対する熱意 の乏しさが、多くの若者の知的好奇心を萎えさせたのである。学生たちは、彼の授業内容を理 解できないことが多かった。翌学期も受講希望者が極端に少なかったため、アインシュタイン は講義を取りやめた。それから数年後、大学長が彼の指導能力に著しく失望したため、教授職 の地位を失いそうにさえなった。  「できなければ、人に教えよ」ということわざがあるが、「できる者は基礎を教えられない」 と言ったほうが、より現実に即しているであろう。専門家の知識の大部分は、暗黙知である。 すなわち、直感的であり、明確に言語化できるものではない。熟練の域に達するほど、その人 は基本的な概念や原理を、頭で考えるのではなく、長年の経験や勘、直感といったものを通し て、いわば体で理解し使いこなせるようになっていく。  例えば、熟練したゴルファーや熱狂的なワイン愛好家は、バッティングやテイスティングの 技術について巧みに描写できないことが、実験によって明らかになっている。自身が普段行 なっている手法を説明するよう求められるだけで、言葉を見つけるのに苦労し、その結果、無 意識に体を動かしてやってみせるのである。ある優秀な飛び込み選手が四回転半の宙返りを披 露した際、どうすればあれほど速く回転できるのかと私が尋ねたことがある。彼の答えは、 「ただ跳んで体を丸めただけさ」だった。  達人の多くは、技を行なう過程を直感的に把握しているため、一つひとつの段階を明確に説 明できない。彼らの知識の集積場所は、部分的に瓦礫に埋もれているようなものなのである。  ベテランの案内人の中には、あなたが正しい道を見つける手助けをするどころか、道に迷っ たあなたを置き去りにする者もいる。さらに悪いことに、立ち往生するのはあなたの能力不足 のせいであるかのように感じさせる者さえ存在する。  高校時代に心理学と物理学が得意であった私は、大学に進学した際、どちらを専攻すべきか 決められずにいた。そして、著名な教授が教える天体物理学の授業を受講できることになり、 大喜びした。その教授はある日の講義で、宇宙はすべてであり、拡大を続けているという証拠 があると述べた。しかし、何へと拡大しているのかという私の質問に対しては、答えられな かった。私の興味は失望へと変わり、自信を失い、自身が無能であるかのように感じた。  その教授は情熱的で温厚な人柄であったものの、専門知識があまりにも豊富すぎた。そのた め、かつて自分が初心者だった頃の感覚を忘れ、私が抱える理解の困難さに気づくことができ なかった。その後、私は二度と物理学のコースを履修しなかった。 A「出発点」も「強み・弱み」も異なる  たとえ、あなたが選んだベテランの案内人が白身の歩んだ道を教えてくれるとしても、それ があなたの進むべき道であるとは限らない。あなたにはあなたの強みと弱みがあり、それらは 彼らのものとは異なる。あなたが登る坂も下る谷も、彼らが経験したものと同じではない。設 定した目標は同じだとしても、出発点が異なることもある。そのため、あなたの道は彼らに とって未知のものである上、彼らの道があなたに適しているとは限らないのである。これこそ が、専門家がよき道案内人となり得ない二つ目の理由である。  もちろん、あなたをよく知る人物から、より個人的な助言を受けることもあるだろう。確か に、信頼できるメンターから賢明な助言を得られるならば、それは素晴らしいことである。だ が、すべての正しい道順を知り尽くしている一個の人間など存在しない。  これを示す好例がある。パートナー昇進への道を模索する弁護士に関する研究である。それ によると、一人のメンターからのみ指導を受けた弁護士は、昇進することができなかったので ある。メンターを持つこと自体には利点がある。支援を惜しまぬメンターを持った弁護士は、 メンターがいない同僚より満たされ、熱意に縊れていた。  だが、パートナーへの昇進を果たしたのは、一人ではなく複数のメンターから指導を受けた 弁護士たちであった。複数のメンターが、昇進する方法について多様な意見や情報を提供して くれたことが役立ったのである。「一人の子どもを育てるには、一つの村が必要だ」というア フリカのことわざがあるが、この場合、ほんの数人からの助言がキャリアの行き詰まりから脱 するための道を切り開いた。  最も著名な専門家に初歩的な助言を仰ぐのは賢明ではないが、たった一人の案内人に頼るの もまた誤りのもとである。あなたが歩むべき正しい道を完全に知る者などI人もいない。だが、 複数の案内人から数々のアドバイスをもらえば、以前には見えなかった道を発見するかもしれ ない。道が不確かであればあるほど、頂が高ければ高いほど、より多くの、そしてより多様な 案内人が必要となる。そこでの挑戦とは、案内大たちから収集した多様な情報をつなぎ合わせ、 あなた自身に適した道を見出すことなのである。    知恵の「パズルヒース」を集める旅  複数のガイドから学ぶことは、段階的な対話型のプロセスだ。「ちょっと脳みそを貸してく れる?」という単純な問いかけで済むようなものではない(だいいち、他人の脳みそを借りる などと想像すること自体が薄気味悪い)。情報は、道端に転がっているわけではないし、誰か に拾われるのを待っているわけでもない。映画「マトリックス」の世界とは異なり、私たちが いつでもアクセスできるよう、案内人は自分の見識をどこかにアップロードできるわけではな いのだ。  案内人から助言を受けたとしても、無闇にその指示に従うべきではない。大切なのは、案内 人と共に有望な道を選び、探索していくことだ。そのためには、案内人の持つ経験則や直感に 基づく暗黙知を、明確な言葉へと変えてもらう必要があるだろう。その知識をスポンジのよう に吸収するには、まずは自分にとって真に有益な助言のみを選り分けねばならない。単に知恵 を借りるのではない。彼らがかつて辿った道筋を、案内してもらう側が追体験できるように 語ってもらうのだ。  話を聞く時に大切なのは、頂上へ至る道のりにおける主要な道標や転換点といった、核心と なる手がかりを得ることである。そのためには案内人の薄れかけた記憶を呼び覚ますため、彼 らがかつて直面した岐路について尋ねてみるのもよいだろう。それは、彼らが当時探し求めた 技能かもしれないし、活用した助言や無視した意見、あるいは自ら加えた修正点といったこと かもしれない。あなたがこれまでに歩んできた道と現在の到達点を伝えれば、案内人自身が、 以前には思いもよらなかった「成功への道筋」に気づくこともあるだろう。  しかし、そうして集めた手がかりだけで正確な地図ができるわけではない。それらすべてが、 自身にとって有用であるとは隕らないからである。手がかりが指し示す方向は川の対岸にあり、 川を渡るために自転車ではなくボートが必要かもしれない。あるいは、情報が古く、その道は 既に閉鎖されている場合もある。正しい道を見出すまでは、同じ場所を何度も堂々巡りするこ ともあるだろう。あなたの案内人が、最近架けられたばかりの新しい橋のことを知らない場合 だってあり得るのである。  R・A・ディッキーは行き詰まりから抜け出す道を、どのように見出したのだろうか。私が 尋ねると、彼は真っ先に、協力してくれた数々の案内人の名を挙げた。終始一人の案内人に 頼ったわけではなかったのだ。二〇〇五年にナックルボールの習得を決意した当時、メジャー リーグで現役のナックルボーラーはティムーウェイクフィールドただ一人で、この変化球を試 みたことのある投手すらほとんどいなかった。引退した選手の中に、ナックルボーラーとして 現役時代に活躍した人がいたが、それもせいぜい十人程度であった。魔球とも呼ばれるこの球 種の謎を解明するには、一人の熟練者に頼るだけでは不十分だった。正しい道を見出すにも、 一人のコーチがすべての道に精通しているわけではない。R・Aは「スポンジ」になる必要が あった。信頼できる情報を集め、自分にとって有益なものを選び出し、それに合わせて白身の アプローチを修正し、試行を重ねなければならなかった。  何カ月も一人で模索した後、R・Aは案内人となってくれる人物を探し始めた。ゴールまで の長く曲がりくねった道を進むには、様々な視点が必要だった。そこで、存命だった元ナック ルボーラー数人に連絡を取った。彼らから有力な手がかりを得ることを期待していたのである。 即座に実行可能な完璧な解決方法など誰も持ち合わせていなかったが、元ナックルボーラーた ちはそれぞれの記憶を辿ってアイデアを提供してくれ、R・Aはそれらすべてを試してみた。  二〇〇八年、R・Aは、当時メジャーリーグで唯一ナックルボーラーであったティムーウェ イクフィールドが所属するチームとの対戦を前に、彼に助言を求めた。ナックルボールという 特殊な球種を習得する道は、対戦相手に助言を求めねばならないほど孤独な道なのだ。だから こそ、この稀有な変化球の技術が途絶えることがないよう、ナックルボーラーの間では敵にさ えその奥義を伝え合うのである。ウェイクフィールドの投球を観察し、彼から極意を教わった 後、R・Aは新しい方法を試すことにした。球をリリースする際、腕を振り下ろすのではなく、 上半身の中心でまっすぐ押し出すようにするのである。  翌年、史上最強のナックルボーラーとして殿堂入りを果たしたフィルーニークロをはるばる 訪ねていった。投球時に腰が前に出ていないと彼から指摘され、R・Aは再び新しい投法を試 した。その後、やはり引退していたナックルボーラー、チャーリー・(フのもとを数回にわた り訪ね、グリップを再調整し、振りかぶる動作を小さくするよう指導された。戸口の前に立ち、 戸枠に体が触れないように投げることをイメージし、球の回転を抑える練習を重ねた。すると 腕の振りが制限され、自分がティラノサウルスーレックスにでもなったかのように感じられた が、この改善は大きな前進につながった。  また、R・Aはどの助言を聞き流すべきかも学んだ。球団のピッチングコーチたちは、ウェ イクフィールドや(フのように時速百キロメートル前後の遅い球を投げるよう、再三指示した。 だが、彼は様々な球速を試した後、時速百二十キロ前後で左右に不規則に変化する球が、自分 にとって最良のナックルボールであるという結論に達した。  どの案内人も教えてくれないことを自力で見出し、自分だけの道を一人で切り開かなければ ならない時は、誰にでもある。R・Aは試行と失敗を幾度も繰り返す中で、あることに関する 技術も新たに学ぶ必要があることに気づいた。爪の手入れ方法である。よいナックルボールを 投げるには、指の爪はしっかりとボールが掴めるほどに長く、それでいて割れない程度に短く なければならない。彼は自分に適したネイルケアの方法を研究した。  三年間の試行錯誤の後、R・Aはようやく行き詰まり状態から抜け出した。白らつくり上げ た手引書のおかげで、前途が開けてきたのである。  とはいえ、その後も、R・Aが歩んだ道は決して平坦なものではなかった。ナックルボール の習熟は、肉体的な試練だけではなく、心の葛藤をも伴う険しい道であると、案内人たちは忠 告していた。この種の変化球は銃弾のように飛ぶわけではないし、投手は精密にコントロール して的を徂うことができない。唯一可能なのは、あたかも蝶を解き放つように、ボールから手 をそっと放すことだけだ。R・Aは不完全を受け入れ、ナックルボールの描く軌道のように、 白身のパフォーマンスもまた一貫性に欠けるものだと認めなければならなかった。  「私の目線に立って助言してくれる人たちがいなかったら、いつか自分の人生に転機が訪れる ことを信じて突き進むことはできなかったと思います」とR・Aは語る。  「希望とは、人を動かす燃料となる。多くの人々に支えられて、私は希望を持ち続けることが できたのです」  よい球を高い確率で投げられるようになるまで、少なくとも三万回、ナックルボールをレン ガの壁やコンクリートブロック、ネットに向かって投げた。進歩が見られない時は、メジャー リーグへの再昇格は果たせないのではないかという疑念が頭をもたげた。二〇〇八年に再び 「史上最悪」タイ記録を出した際には、さらなる挫折感を味わった。自分はIイニングで四連 続暴投した、「ミスター・ワイルドピッチ」の汚名を球史に残す運命なのだろうか。R・Aは その時の心境を私にこう語った。  「人は何かに全力を注いでも結果が得られないと、無力感を覚えます」    「進歩の実感」が湧かない時の乗り越え方  方向転換をすると、人は気力を失うことが多い。後戻りして別の道を進んでいったとしても、 必ずしもすぐに頂へ到達できるとは隕らないからだ。再び行き詰まりを感じることさえある。 しかし、それは、道を間違えているからではない。実は頂上へと続くらせん状の道を進んでい るのだが、前進していることに当人が気づいていないだけなのである。進歩が見えず、実感も できないので、モチベーションを失いかけているに過ぎないのだ。  そのような心理状態には名称がある。「停滞感」「虚脱感」「」弓翌」莎」兵)と呼ばれるもので ある。これは一種の閉塞感や空虚感であり、社会学者のコーリー・キーズがこの概念を提唱し、 了フイアーキャリーが世に広めた。  停滞感とは、精神的に空虚な状態だ。落ち込んでいるわけでも、燃え尽きたわけでもない。 しかし、どうにもやる気が起きない。毎日がブルーマンデー症候群の状態(休み明けの月曜口 のような憂うつな気分)になる。まるで目の前の世界が灰色のもやに包まれているような感覚 が数週間も続く。  本章を執筆している間、私は非直線的な進歩を描写するのに適した構想を見出そうと苦闘し ていた。多くの着想はあったものの、どれもしっくりこないのである。建物を解体し改修する ように、内容を掘り下げ、段落をつなぎ合わせ、案の一部を修正した(それでもなお、草稿は 私の批評グループから十点満点中四点という評 価しかもらえず、しかも彼らは「甘く」採点し たという始末であった。誰もが「構想を白紙に 戻すべきだ」と言った)。  私は何度も振り出しに戻った。しっくりくる ものが何一つ見つからず、修正した案を元に戻 すと、今度はそれを取り除くべきだというコメ ントが批評グループから返ってくる。  数週間にわたる堂々巡りの後、私は停滞感に 陥った。「行き詰まりからの脱却」を主題とす る章の執筆で行き詰まるとは皮肉なことだが、 行き詰まりの意味を身をもって学んだ。にっち もさっちもいかなくなり、全く笑えない状況で あった。  論理的思考を重んじ、規則正しい執筆を旨と する私は、普段から思考が明晰な朝の時間帯に キーボードの前に座る。それにもかかわらず、 着想が全く浮かばないのは、よくない兆候で あった。空白の画面上でカーソル(cursor)が点滅するのを凝視するうち、カーソルの語源を 調べようと思い立ち(すべての物書きにとっての呪い〈curse) への敬意を込めて名づけられ たのではないか、などと考えながら)、検索を始めてしまう始末だった。  夕食の時間となり、その口一日を無為に過ごしたかのような、腹立たしい気分になった。執 筆のことをしばし忘れようと気を紛らわすため、夜遅くまでアイスクリームを片手に「フレン ズ」を、私の友人であるモニカやチャンドラーと共に観賞した。満足できる時間を取り戻そう と就寝を先延ばしにし、いわゆる「リベンジ夜更かし」をしたのである。無論、よい効果はな く、私のエネルギータンクは、ほぼ空になった。  私は、本書のテーマである「潜在的な可能性」(Hidden Potential)に関する研究を始めて以 来、停滞感というものが、行き詰まりをさらに悪化させるという事実に気づいた。要するに、 停滞感を抱いているからこそ、行き詰まり状態から抜け出せないのである。研究によれば、停 滞感は集中力を奪い、モチベーションを低下させるという。何かをなさねぱならないのに、何 をしても無駄だと感じるようなジレンマに陥り、八方塞がりのように感じるのである。そうい う時こそ、主要な道筋からいったん離れ、燃料を補給する必要がある。    「回り道」や「脱線」が必要な時もある  偉業を成すには、何か必要なのだろうか。この質問に対し、大半の人々は、研ぎ澄まされた 集中力や一意専心といった資質を挙げる。脇目も振らず、人一倍努力すること。意欲が失せた り、注意散漫になったりするようなことはしない。仕事で卓越した成果を上げたいならば、よ り多くの時間を仕事に費やす。誰よりも早く出勤して、誰よりも遅く退社する。趣味は二の次、 副業などもってのほかである。集中力を削いだり、体力を消耗したりすることは避けなければ ならない。そう、多くの人は考えている。  しかし、研究報告は異なる見解を示している。軌道から逸れたり、回り道をしたりすること が、必ずしも遠回りになるとは隕らない。回り道によって、かえって活力を蓄えられることも ある、と。  ある調査では、人々が夜間に趣味を活かした副業に従事した場合、翌日の本業におけるパ フォーマンスが向上したことがわかった。副業で進歩を遂げたという実感が、翌朝の活力へと つなかったのである。気晴らしによってモチベーションが向上すれば、より大きな実りを得る ことが可能となる。  趣味もまた、同様の効果をもたらす。別の調査では、人々が自宅で真剣に趣味に打ち込んだ 場合、職場での自己肯定感が高まった。ただし、この効果は、趣味が本業の分野とは異なる場 合に隕られる。例えば、停滞感に陥っている芸術家が、気晴らしに陶芸を試みたとしても、さ ほど充足感は得られないだろう。一方、意欲を失ったソーシャルワーカーや税理士の場合、陶 芸によって新たな活力を得る可能性がある。  数多くの研究が明らかにしているように、日々のモチベーションを高める最強の原動力とな るのは、「進歩してい&」という実感である。うまくいかないことに延々と挑戦し続けても、 モチベーションは上がらない。だが、一時的に本筋から離れて別の目標を持つことで、新たな 活力が生まれることもある。  回り道をする、とは、主要な道からいったん外れ、燃料タンクを満たすようなものである。 それは休息でもなければ、怠惰でもない。一時的にコースから逸れただけであり、進路を修正 し、再び前進するための準備なのだ。エンジンはかかったままである。  大きく前進することがなくても、進歩しているという充足感を得ることは可能であると、心 理学の研究は示している。小さな成功からでも、原動力を得ることはできる。前進していると いう実感があれば、たとえ主要な道から外れたとしても、なお進歩は可能であると思い起こす ことができる。その先の長い道のりに臆することなく、次なる転換点へと向かう心構えができ るのである。  私か本章の執筆において時間を浪費していた時、この教訓を重く受け止めねばならないと気 づいた。脱線の方法として選んだのは、長年の趣味であるオンライン版スクラブルゲームで あった。数ゲーム目で「2‐一‐`‐コ’O’一」という文字の組み合わせが出題された。アルファベット を分解し、並べ替え、「一」を盤上に追加する。すると、完成した。「C冫」召」」である。このさ さやかな成功が、私が必要としていた原動力となった。そうして私は、本章の執筆という主要 な道へと戻る心の準備ができたのである。  私の第一歩は、まず自分白身への期待値を現実的なレベルにリセットすることだった。一口 で章全体の解決策を見つけ出そうとするのは、そもそも非現実的である。そこで、完璧な構想 図が完成するのを待つのではなく、小さな修正を少しずつ積み重ねていく方針に切り替えた。  具体的には、冗長な言葉を削り、次に章全体をよりよく表わす包括的な比喩(例えば、人生 の航海といったイメージの「ナビゲーション」というテーマ)を探し出す。  そして、執筆の方向性を示す主要な道具(まさに「コンパス」のようなもの)を一つ選び出 すのである(私はこれまでこうした明確な道具立てを避けてきたが、それは私が救いようのな い方向音痴だからに他ならない。方向感覚のなさは、義父母に「ほら、またアダムがUターン してるよ」と揶揄されるほどだ)。  このようにして一つひとつの課題を乗り越えていくうちに、執筆の速度は徐々に上がって いった。いくつかの修正では一時的に後退することもあったが、それでもなお、こうした取り 組みが私の前進を力強く後押ししてくれた。それはまさに、R・A・ディッキーが実践した道 筋そのものであった。  R・Aは当初、順調に小さな成功体験を積み重ねていった。回転しないボールを何球投げら れるか白身に挑戦し、記録をつけることによって、少しずつ進歩していった。回転しなかった 投球の一つひとつが、彼の意欲に火をつけた。当初、納得のいくナックルボールを投げる確率 は五割程度であったが、数年の間に八割程度にまで向上した。  二〇一〇年に三十五歳にしてニューヨークーメッツと契約を結んだ頃には、R・Aはメ ジャーリーグで押しも押されもせぬ名投手となっていた。それでも、彼自身が目指す境地には まだ到達していなかった。速球のナックルボールは回転が少なくても、打者に捉えられやす かった。進歩し続けるためには、自身を突き動かす新たな原動力が必要だった。  R・Aは心のエネルギーを再充電するため、新たな山頂を目指すことに決めた。球団幹部の 反対を押し切り、彼は文字通り、山頂へと向かったのである。    ブレイクスルーは「小さな成功の積み重ね」で起こる  二〇匸一年の冬、R・Aはアフリカ大陸最高峰であるキリマンジャロ登頂に挑戦しようと決 意する。十代の頃に読んだヘミングウェイの小説でキリマンジャロを知って以来、この山に登 ることを夢見ていた。この挑戦の目的は、慈善団体の資金集めで、それ以前にも十万ドルを超 える寄付金を集め、ムンバイの十代の若者を性的搾取から救済する活動を支援していた。  メッツ球団はキリマンジャロ登山を断念するようR・Aを説得し、負傷した場合には契約を 破棄すると通告しさえした。翌シーズンの報酬を失いかねなかったが、それでもR・Aの決意 は変わらなかった。  タンザニアへ到着すると、R・Aはグループと共に七日間かけて五千メートルもの高さを登 攀した。高山病や極度の疲労と闘い、身を切るような風雪にも耐えた。キリマンジャロの山頂 についに到達した時、「どういうわけか、これ までの人生で感じたことのないほど自身が小さ く思えた。何とも言えない陶酔感に浸った」と R・Aは後に書き記している。  同年、R・Aは自身の野球人生で最高のシー ズンを迎えた。速球ナックルボールという快適 領域を超え、速度が極端に遅く、変化する球種 を新たに開発した。この新たな変化球を前に、 打者は軌道もタイミングも読めずにたじろいだ。 あまりにも見事に空振りし、自ら苦笑する打者 もいた。そこでR・Aにつけられた愛称が 「バッフラー(幻惑する者)」である。  野球界では熟年と言える三十七歳で、R・A は偉業を成し遂げる。二試合連続でわずか一安 打しか許さず、三十二と三分のニイニング連続 無失点というメッツ球団の記録を樹立した。さ らにはオールスターゲームへの初出場も果たす。 この年、リーグトップの二百三十奪三振を記録 し、ナックルポーラーとして史上初めてサイーヤング賞を受賞した。  「ニューヨークーメッツの投手がオールスターに参加できたのは、キリマンジャロ登頂のおか げでしょうか」  と、あるリポーターが尋ねた。この挑発的な問いに対し、社会科学者である私が確信を持っ て言えるのは、「そうかもしれない」のひと言のみである。  趣味や副業に関する研究報告は、登山がよい影響を与えた可能性を示唆している。その一方 で、それが単なる偶然であったとも十分に考えられる。だが、私がR・Aに尋ねると、彼は即 座にこう答えた。  「それが偶然であったとは思いません。キリマンジャロ登頂は、私の人生において深い意味を 持ちました。自分白身に挑戦することが楽しかったのです」  軌道から逸れてキリマンジャロへ登ったことは、R・Aにとって最後の精神的な充電を意味 していたのかもしれない。慈善団体のための資金集めは、貢献することへの喜びをもたらした。 山頂で白身を小さく感じたことで、結果を出さなければならないというプレッシャーから解放 され、より大きな目標を目指すための力を得た。登頂に成功したことで、自信が漲ってきたの である。「あれは自己探求でした」とR・Aは当時を振り返る。  「あの年はアフリカ大陸の山頂で始まり、野球の頂点で終わったのです」  はた目には、彼の絶好調のシーズンは、突如として訪れたように思えただろう。しかし、そ れは真実から著しくかけ離れている。彼の成功は一夜にしてなされたものではない。R・Aは、 マイナー降格を七回経験し、ナックルボールを習熟するために七年もの歳月を費やした。ブレ イクスルーのように見える成功は、実は小さな成功の積み重ねであることは少なくない。  山頂へ向かう道で行き詰まった時、立ち止まるよりも、ギアを入れ替え後進したほうがよい 場合もある。Uターンや迂回をすると、あたかも同じ道を堂々巡りしているかのように思える かもしれない。目先のことだけを考えれば、直線的な道は速い進歩をもたらすであろう。だが、 長い目で見れば、曲がりくねった道こそが私たちをより一層高い頂へと導いてくれるのである。  進歩とは、瞬間的に認識できるものではない。むしろ、長い時間をかけて実感するものであ る。辛いことばかりに気を取られていては、進歩できなくなる。何週間、何カ月、そして何年 もが過ぎた時に、自身の軌跡を振り返って初めて、自分かどれほど進歩したのかを正しく認識 できるのである。        誰もが自力で苦境から抜け出す強さを持っている。そう私は信じている。        それが可能だと信じている。        実際、そんな技をシルクードウーソレイユで観たことがあるんだ。                   スティーブンーコルベア(コメディアン、俳優) 今のままでは、辿り着けない場所へ  I個人の限界を乗り越えていく力  その謎めいた知らせは、様々な手段で送られてきた。しかし受取人たちは皆、それが緊急を 要するものであることを察した。ジェシー・アルボーはポーカーをしている最中に、見知らぬ 男から声をかけられた。階下に車を待たせている、三十五分後に発車する列車に乗れ、と。洗 濯機から服を取り出す時間すらなかった。ジェームズーヘアは曳船で沖に出ていた時、陸へ戻 るよう指示され、戻ると大きな茶封筒を手渡された。赤い封印を破り、封筒から一枚の紙を取 り出す。それは招待状ではなかった。シカゴ北部に位置する、ある場所への出頭を命じる要請 状たった。  同様の要請状は、国内各地にいた十六名に送られた。年齢は二十代半ばから三十代半ば、職 業も機械工、製本工、運搬人、弁護士、板金工とばらばらだった。一九四四年一月のことであ る。何か待ち受けているのか、彼らには想像すらできなかった。第二次世界大戦の渦中、いず れ歴史を変える好機を手にすることになろうとは、夢にも思っていなかった。彼らは、黒人と して史上初めて、アメリカ海軍の士官訓練に参加することになるのである。  当時、アメリカ合衆国の軍種の中でも、海軍はとりわけ人種差別が根強いことで知られ、そ の四半世紀前には、アフリカ系アメリカ国民は入隊することさえ許されなかった。その後、制 度は改められたが、黒人隊員は召使いのごとく扱われ、厨房での作業や靴磨きといった、限定 的な役割しか与えられなかった。そして今、エレノアールーズペルト大統領夫人からの政治的 圧力もあって、黒人にも士官への道が開かれた。それでもなお、海軍上層部の多くは、彼らが 白人水兵を指揮できるだけの知性を持ち合わせているのか、懐疑的であった。  訓練施設へ到着すると、黒人士官候補生たちはひとまとめにされ、白人水兵から隔離された。 担当の訓練教官から浴びせられる人種差別的な中傷や、屈辱的な扱いに耐え忍んだ。誰もが彼 らの失敗を予期していることは、明らかであった。  彼らのうち数名には、自身の能力を疑うさらなる理由があった。学生時代、いわゆる落ちこ ぼれだったのである。ジェシー・アルボーはC評価レベルの学生で、経済学の基礎コースでは 落第点を取っていた。チャールズーリアは高校一年生を修了することさえできなかった。そし てウィリアムーシルベスター・ホワイトは、新兵訓練(フートキャンプ)での基礎訓練を終え たばかりで、軍隊経験が皆無に等しかった。  「過酷だった」とホワイトは回想している。「士官訓練は、暗闇の中で闘うようなものでした」  さらに不運なことに、戦時下であったため、訓練期間は通常の半分に短縮されていた。その ため、候補生たちは一学期分の課程を、わずか十週間という過酷な条件下で修了しなければな らなかった。毎朝六時に起床して行進訓練を行ない、八時間に及ぶ授業を受けた後、夜遅くま で勉学に励んだ。船舶操縦術や航法をはじめ、砲術、法律、海軍規則、航空機識別、手旗信号 とモールス信号、さらにはサバイバル技術。これらすべてを記録的な速さで身につけなければ ならなかった。  通常の海軍士官訓練でも、試験に合格できるのは全候補生のうち、せいぜい四分の三程度で ある。ところが、黒人第一期候補生たちは、訓練を何とか最後までやり遂げた。それだけでは ない。十六名全員が合格した。それも合格ラインを遥かに上回る成績で。ワシントンの海軍上 層部はこの結果に、即座に不審を抱いた。不正行為があったか、あるいは採点ミスによって不 当に合格したに違いないと考えたのだ。  そうではないことを証明するために、黒人候補生たちは数科目で再試験を受けさせられたが、 再試験での成績は、前回をさらに上回った。彼らの平均GPA(履修科目の成績平均値)は、 四・〇点満点中三・八九点。これが海軍史上最高の成績であったことを、本人たちが知らされ たのは数年後のことであった。彼らの内に濳んでいた能力が、この時、ついに開花したのであ る。  十六名の黒人候補生のうち、十三名が海軍士官として任命された。金色の星とストライプの 徽章を身につけることを許された最初のアフリカ系アメリカ人として、彼らは「黄金の十三人 (ゴールデンーサーティーン)」と称されるようになる。のしかかる重圧に屈するのではなく、 黄金の十三人は重力に逆らって飛翔したのである。  その一人、サミュエルーバーンズは後にこう語っている。  「背負った重荷に押し潰されそうになっても、絶対に成功してみせると皆が決意していまし た」  黄金の十三人が成功したのは、他の人々が誤解しがちな点を、正しく理解し実行したからで ある。乗り越えられそうにもない障壁に直面し、諦めたくなる時は誰にでもある。障壁が高す ぎる、逆風が強すぎると感じる。そんな時、自力で苦境を乗り越えるよう周囲から促される。 すると、多くの人々は自身の内面に目を向け、どこかに自信や能力が残っていないかを探ろう とする。  しかし実のところ、外部に目を向け、他の人々と共に、そして他の人々のために底力を発揮 する時こそ、内に秘められた可能性を発見し、最大限に引き出すことができるのである。不利 な立場にある時こそ、自分自身以外のものへ意識を向けることで、苦境から這い上がる力が湧 き上がってくるのだ。    「自分を超える力」の見つけ方  手ごわい課題に直面した際、私たちには能力と自信の両方が必要となる。スキルや自分への 期待を高められるか否かは、まず目前の障壁をいかに解釈するかに左右される。数多くの研究 から明らかなように、人は障壁を「自分に対する脅威」と捉えると、諦めて引き下がる傾向が あるが、障壁を「目標を達成するための挑戦」と見なすと、普段は見ぬ底力を発揮するのであ る。  障壁を挑戦と捉えられるかどうかには、「成長型マインドセット」が部分的に関与している。 成長型マインドセットとは、自分には成長する能力があると信じる心構えのことだ。  だが近年になり、この概念を提唱した心理学者のキヤロルードウェックは、成長型マインド セットは「足場」があって初めて効果を発揮することを明らかにした。一万五千人の高校生を 対象にした厳密な実験では、教師が生徒の可能性を認め、かつ学校が生徒の挑戦意欲を促進す る文化を持つ場合にのみ、生徒たちの成長型マインドセットが成績向上に大きく貢献したとい  だが、そうした足場を提供してくれる大が周囲にいなければ、私たちは自ら足場を築くしか ない。その際、必要となるのが、ブートストラッピングという考え方である。これはまさに、 自らの内に秘めた力で苦境を打開することを意味する。  この言葉は、ある民話から来ているという。馬と一緒に沼に足をとられた一人の男爵が、自 身の下げ髪をロープ代わりにして窮地を脱したという話だ。この逸話が語り継がれるうちに、 下げ髪がブーツのストラップ(ブーツを履く際に用いる引き上げ用のつまみ革や紐)へと変化 したようである。  ブートストラッピングという言葉は、しばしば個人の不屈の精神や自力更生の象徴として語 られる。他者の助けを借りずに、あたかも自分自身のブーツのつまみ革を引き上げて困難から 脱するように。それは、徹底した個人主義の賛歌のようにも聞こえるかもしれない。しかし、 障壁を乗り越えるための真の力と自信が育まれるのは、孤軍奮闘する時ではなく、むしろ他者 と力を合わせてアプローチする時であることを、私は自らが受け持つクラスで目の当たりにし た。  ある年の秋、私はペンシルベニア大学ウォートン校の教え子たちに、学期末試験はとりわけ 難しくなると予告し、サンプル問題をメールで配布した。すると学生たちは多肢選択問題の箇 所が難しすぎると言って、教室にパニック状態でやってきた。授業内容を習得させようと、彼 らの学習意欲を高めるのが狙いだったが、私は逆に彼らの自信を大きく損ねてしまったよう だった。  私は学生たちを励まし、皆がよい成績を収められるように心から応援していると告げた。試 験のクラス平均点が低かった場合は、全体の成績評価を引き上げるとさえ約束した。それでも なお、彼らはストレスや不安を隠しきれない様子だったため、私は寛大なボーナス得点制度を 考案した。多肢選択問題のいずれかの問題で回答に窮した際、その答えを知っていそうな学生 の名前を書き込む。そして、その学生がその問題で正解していれば、書き込んだ人も点数をも らえる、という仕組みである。これはゲーム番組「Who Wants t()Be a MΞ一()己一河(百万長者 になりたい人は誰)」からヒントを得た、いわゆる「大学版のライフライン」(救済策)である。  期末試験の後、クラスの成績結果を目にした時、私は驚いてしまった。前年の試験結果と比 較して、クラスの平均点が数ポイントも上昇していたのである。しかも、それは「ボーナス得 点制度」のおかげではなかった。その後数年間にわたり、各年の新入生クラスの成績は右肩上 がりに伸び続けた。  私は、この現象についてどんな理由が考えられるか探り始めた。試験の難易度は変わってい ない。前年と比べて、学生たちの知能指数が格段に向上したわけでもないだろう。そうこうす るうちに、私は何が起こっているのか、その核心をようやく突き止めた。あのささやかな「救 済策」が、学生たちの学習方法そのものに大きな変化をもたらしていたのである。  試験でよい成績を収めるためには、学生たちは授業内容のすべてを深く理解しなければなら ない。単に資料を暗記すれば点数が取れるような、安易なものではない。そして、設問の一つ でボーナス点を得たければ、クラスメイトの誰が何を得意としているかを知っておく必要が あった。  そこで学生たちは、これまでのように自分一人で知識を詰め込むのではなく、グループで学 習することにしたのである。彼らは小グループを結成して定期的に勉強会を開き、重要な論点 を整理し、知識を共有し合ったのだ。  学生たちは、互いに協力し合うことで、自分で自分の「足場」を築いていた。翌年のクラス は、この共同作業をさらに発展させ、全学期の授業内容すべてを網羅した巨大な学習マップを 作成した。クラス全体が参加し、全員の知識を集約できるよう、ある学生は土曜日の午後のた めに勉強会に使える部屋を確保した。自身が読んだ参考資料や、作成した学習の手引き、練習 問題などを、クラス全員と惜しみなく共有する者も現われた。最強のフートストラップとは、 個人の力に頼るのではなく、他の人々と力を合わせて築き上げるものであると、学生たちは自 ら気づいたのである。    チューター効果−「人に教える」と「自分の学び」も深まる  知識の豊富な同級生や同僚と共に学習することが有効であると示す証拠は多い。米情報機関 において最も生産性の高いチームは、同僚同士で最も頻繁に教え合い、指導し合うチームであ る。  医科大学では、学生は教員から学ぶのと同じくらいの量を、仲問からも学んでいる。私のク ラスが行なった土曜日の勉強会には、とりわけ知識に秀でた学生はI人もいなかった。しかし、 各自がグループ全体の知識を活用する必要があった。加えて、友人に教えることで白身の理解 を深めていった可能性が高い。私がそう考えるのには理由がある。  人に教えることは、驚くほど効果的な学習方法である。十六の研究を対象としたメタ分析に よると、無作為に抽出した生徒たちに、クラスメイトに勉強を教えさせたところ、白身が教え た分野の試験でより高い点数を獲得した。読解を教えた生徒は読解の、数学を教えた生徒は数 学の成績が著しく向上した。教えることに費やす時間が多ければ多いほど、より多くを学んだ。  「子どもがお手伝いから学ぶように、他の生徒に白身の知識を教えた子どもは、指導プログラ ムに含まれる科目内容について理解を深め、より前向きな姿勢で取り組むようになった」と、 ある分析チームの研究者は結論づけている。  心理学者はこの現象を「チューター効果」と呼ぶ。これは初心者にも有効である。習熟度を 高めるための最善の方法の一つは、教えることなのである。記憶は、思い出すことで定着する。 理解度は、説明することで高まる。乗り越えるべきは、自身が習熟する前に他人に教えるとい う「居心地の悪さを受け入れる」ことだけである。何かを誰かに教えるよう依頼されるだけで も、それが学びを促進する原動力となる。  チューター効果は、「できない者は教えよ」というありふれた格言に新たな光を当てる。「ま だできない者は、教えることによって学べ」ということなのである。歴史学者で中世史を専門 とするヘンリー・アダムズは、歴史教師として教壇に立つことで、中世史の専門家となった。 当初は知識が乏しかったが、講義ごとに先んじて学び、習熟度を高めていったと、後に受講生 の前で告白している。画家ジョージアーオキーフは、美術を教えながら、水彩と木炭を用いた 抽象画の技法を磨いていった。理論物理学者ジョンープレスキルが量子コンピューターについ て学んだのは、この分野に関する講義の担当を申し出てからであったという。  そして、「黄金の十三人」が、海軍の士官昇任試験で最高の成績を収めることができたのも、 白身が学びたいことを互いに教え合ったからであった。    「力を合わせる」ことの計り知れない効果  これほど膨大な知識を、こんなにも短い期問で身につけることなど、できるはずがないI。 士官訓練が始まった当初、「黄金の十三人」の大半は、そう絶望的な思いを抱いていた。  「みんな口々に言っていた、『ふざけるな、こんなの絶対に無理に決まっている』とね」  ジョージークーパーは、当時の彼らの心境をそう語っている。彼らには、手厚く指導してく れる上官も、頼れる先輩もいない。しかも、仲問同士でさえ激しく競い合わねばならない。そ んな状況で生き残り、どう考えても不可能としか思えない目標を達成するには、いやでもお互 いを信じ、支え合うしかなかったのである。  全員が次の課程へ進める保証はないので、海軍の士官候補生たちは伝統的に、互いを仲間と いうよりは、競争相手と見なすのが常であった。しかし、「黄金の十三人」は宿舎に集い、固 い誓いを立てたI「一人は皆のために、皆は一人のために」という誓いを。  「成功しようがしまいが、我々は最後まで運命を共にする。訓練が始まった当初から、全員が そう固く決意していた」とクーパーは語る。  「そして何より幸運だったのは、学ぶべき各科目について、少なくとも誰か一人が、多少なり とも予備知識を持っていたことだ」  圧倒的な量の情報を短期間で吸収するため、「黄金の十三人」は、互いに知恵を出し合い、 助け合う道を選んだ。スポンジのように、あらゆる情報を集め、そして必要なものを選り分け ねばならなかった。みんなが、白身の得意とする分野をグループ内で教え合い、教科書が配布 されると、まず内容を精読し、「これは自分が担当しよう」と誰かが名乗りを上げるのを、期 待を込めて待ったのである。  数学が得意だったクーパー、グレアムーマーティン、レジナルドーグッドウィンは、解析学 の大部分を担当し、ジョンーレーガンは技術的な課題の解決で皆を助けた。歴史を愛好するサ ミュエルーバーンズとデュスーネルソンは、軍事史の講義を受け持った。高等教育を終えてい なかったリアは、リーダーシップの分野でその知識不足を補い、さらにアルボーと共に船舶の 操縦技術やロープワークの実践経験を惜しみなく皆に伝えた。航海術に関して最も経験豊か たったアルボーは、モールス信号の短期集中講座の講師役を務め、彼が壁を叩いて信号を打ち、 他のメンバーがそれに応答して信号を打ち返す、といった地道な練習を重ねた。まさに全員が、 それぞれの「フートストラップ」を固く結び合わせようとしたのだ。  消灯時間は夜十時半と規則で厳しく定められていたものの、「黄金の十三人」は毎夜、一本 の懐中電灯の光を頼りに、狭い浴室に肩を寄せ合って、深夜過ぎまで勉学に励んだ。巡回の夜 警に見つからないよう、窓はシーツで覆い、光が外部へ漏れないよう細心の注意を払った。  私か「黄金の十三人」について深く知るようになったのは、海軍史研究家ポールースティル ウェルによる比類なき著作のおかげである。スティルウェルは、メンバーたちがこの世を去る 前に、彼らの貴重な体験談を記録として残すという、計り知れない貢献を果たした。私は、広 範なインタビューを通じて集められた彼らの証言、発言、そして深い洞察を詳細に調べるうち に、その成功の大きな要因が、知識を持つ仲間から学ぶ機会に恵まれたことにあったと確信す るに至った。  しかし、そこでさらに別の重要な事実に気づかされた。いわゆる「チューター効果」もまた、 彼らの成功に大きく寄与していたのである。知識を他者に伝える過程で、教える側の理解力や 能力もまた、著しく高まっていったのだ。全員が力を合わせることで、彼らのフートストラッ プは、より一層強固なものへと鍛え上げられていった。  法令に関する問題が生じると、メンバーは弁護士であるホワイトに助けを求めた。しかしホ ワイトは、海軍軍法に関する専門知識がなかったため、まずは自身で徹底的に調べなければな らないと皆に伝えた。そして、海軍の諸規定をメンバーに教えることを通じて自身も学びを深 め、さらには新兵訓練プログラムで習得したばかりの知識も伝授することで、それを完全に自 身のものとしていった。指導的な立場を柤うことが、知識の確実な定着を促したのである。  機械工の経験を持つフランクーサブレットは、ダルトンーボーと共に力学、砲術、そしてボ イラー技術に関する講義を担当した。だが、時には彼らの知識だけでは答えることのできない 難問に直面することも少なくなかった。そんな時は、特定の指導担当者が関連知識を持ってい なくとも、「黄金の十三人」の全員が知恵を出し合い、解決に尽力した。そうすることで、誰 もが習得したばかりの知識を他者に教えるという貴重な機会を得たのである。  妥当と思われる答えを見出し、全員がそれに納得した後、彼らは「グリル(徹底的な質疑応 答)」と「ドリル(集中的な反復練習)」を行なった。互いに問題を出し合うことで、習得した ばかりの知識を共有し、定着させる機会は格段に増えた。  各自がそれぞれの知見を分かち合う様子を目の当たりにして、サブレットは「メンバー全員 が、新しい情報を理解し、それを吸収する驚くべき能力を持っている」ことに気づいたという。 彼らのブーツは、もはや誰かに頼らずとも、自力で困難を乗り越えられるほど頑丈になってい た。そして、試験の日を迎える頃には、全教科において容易に合格できる水準の知識を、十六 名全員が身につけていたのである。    コーチング効果−「他者への励まし」が「自分の自信」に変わる  大に教えると自らの能力が磨かれる。しかし、大に助言を与えると、それ以上に自身の自信 を深める。困難を乗り越えようと奮闘する大を励ます中で、私たちは自分自身のやる気スイッ チを発見するのである。このことを、私は親の立場から学んだ。  初めてのTEDトーク出演を目前に控え、私は緊張しきっていた。そこで、当時八歳だった 長女のジョアンナに助言を求めた。すると、極度に内気な娘が、こう教えてくれた。「にこや かに頷きながら聴いている大を、観客席の中から一人見つけるといいわ」。私は、その助言を 実行し、帰宅後、前列に座っていた人の笑顔から勇気を得られたことを、娘に嬉々として報告 した。  その数週間後、私と妻のアリソンは、ジョアンナが学芸会の劇のことで不安げにしているこ とに気づいた。ところが当日、娘は舞台に上がり、観客席にいた私たちを見つけて囗を合わせ ると、私だちと同じくらいの満面の笑みを浮かべた。私たちに改めて助言を求めるまでもなく、 自分が以前私に与えた言葉を思い出し、自らを勇気づけたのである。  そして、これが彼女の一つの転機となった。その時を境に、娘が自信を高めていくのがはっ きりと見て取れたのである。まもなく、娘は率先してクラス全員の前で発表するようになり、 その堂々とした振る舞いを教師たちから褒められるようになった。  私はこの現象を「コーチング効果」と呼んでいる。人が他者に助言を与えた後、あたかも自 分自身に言い聞かせるかのように、困難を乗り越える自らの力をより強く信じられるようにな る現象である。  この効果は、心理学者ローレンーエスクライス=ウィンクラーが行なった一連の巧みな実験 の結果とも見事に一致する。例えば、ある実験では、無作為に選ばれた高校生たちに、モチ ベーションを保ち、先延ぱしをしない方法について下級生へ助言するよう指示した。すると、 助言を行なった高校生たちは、その後、数学を含む複数の科目で成績が向上したのである。  また別の実験では、下級生に学習意欲を高めるコツを伝えた中学生は、熟練教師から直接指 導を受けた生徒たちよりも、多くの時間を宿題に費やすようになった。  さらには、貯蓄や減量、怒りの制御に悩む人や失業して気力を失っている人も、他者から助 言を受けるよりも、むしろ他者に助言を与えた後のほうが、より前向きで意欲的になることが 示された。  これは、チューター効果とは異なる点に注意が必要である。チューター効果が、自身が習得 したい知識を他者と分かち合うことで自らの学習効果を高めることを指すのに対し、コーチン グ効果とは、自分自身が聞きたい励ましの言葉を他者に投げかけることで、結果的に自身を鼓 舞する作用なのである。人は他者に助言を与えるという行為を通じて、自身の中に既に存在す る力や知恵に気づき、自信を深めていくのだ。    なぜギバー(与える人)は前向きで意欲的になれるのか  コーチングは、私たちが助けを必要とする際に通常行なうこととは正反対の行為である。私 たちは困難に直面するとたいてい、すぐさま誰かに電話をかけ、助言を得たいという衝動に駆 られる。しかし、慌てることなく、以前誰かに与えた助言を思い返してみたり、同じ状況にい る人に電話をかけて励ましの言葉をかけたりすることで、自身の底力に気づくこともある。 往々にして、誰かに与える助言とは、まさに自分自身が必要としているものなのである。私た ちは、自身の助言にもっと耳を傾けるべきだろう。  私は自らの研究で、テイカー(受ける側)よりもギバー(与える側)のほうが前向きで意欲 に満ちていることを突き止めた。テイカーは受動的である。常に指導を受ける立場にあるテイ カーは、他者の先導に依存するようになる。これに対し、ギバーは能動的である。他の人に助 言することで、自分には与えるものがあると気づく。自身のフートストラップは他の人を支え るほど強固なのだから、自分自身を困難から引き上げることもできるはずだと確信するように なるのである。  冬の間、「黄金の十三人」は、互いに助言を与え合い、励ましの言葉を掛け合った。グルー プを元気づけるため、リアは誰よりも早く勉強会に姿を現わした。メンバーが航海用の六分儀 の扱いに四苦八苦していると、皆を励まし、技術的な知識やコツを伝授した。グループのため に貢献する能力が白身にあることを、そして仲間たちにもそれがあることを示したのである。  「黄金の十三人」は互いに指導し合う際、単に助言や励ましの言葉を与え合っただけではない。 最後まで共にやり遂げるという責任をも分かち合ったのである。  「私たちの誰もが、どこかの時点では投げ出しそうになりました」とジョージークーパーは 語った。「その度に他の誰かが、『そんな弱音を吐くな。一緒に頑張ろうじやないか』と手を差 し伸べたのです」。何としても合格しなければ、黒人は怠慢であるという不当な汚名を返上で きない、とグレアムーマーティンは皆を鼓舞した。注意が散漫になった者には活を入れ、集中 力を維持する秘訣を伝え合った。互いのフートストラップを引き上げ合うことで、チーム全体 の自信が高まっていった。  「黄金の十三人」のメンバーの大半にインタビューを行なったポールースティルウェルは、 「彼らの自身に対する要求は、最も厳格な教官からのものよりも厳しかった」と、その姿勢に 感嘆している。彼らは難題に直面しても、もはや怯むことはなかった。それを挑戦と捉えるよ うになり、各自が自身の能力を疑うのではなく、グループ全体の潜在的な可能性を信じるよう になったのである。「メンバーの誰か一人が達成できるならば、全員が達成できるはずだと確 信していました」とジョージークーパーは断言した。  「黄金の十三人」は、白分たちに欠けていた能力や自信を補い合う方法を見出した。しかし、 周囲から無能というレッテルを貼られた彼らが、自身の可能性を疑ったとしても不思議ではな かった。人は、白身の能力を誰からも信じてもらえない時、前へ進めなくなったり、後退した りするものである。軽視されたり見下されたりすることは、一段と大きな障壁を生み出し、成 長を妨げる。これを乗り越えるには、とりわけ強固な足場が必要となる。  私は最近、このような逆境に立ち向かった人物に出会った。TEDのスピーカーとして聴衆 を魅了していた彼女の評判は、私が登壇する何年も前から伝え聞いていた。ようやく彼女に会 う機会に恵まれた時、成功までの険しい山道でモチベーションを見出す方法について、意外な ことを学んだ。    乗り越えるべき二つの「山」  「私は間違っていたのだろうか」。アリソンーレヴァインは酸素を求めて喘ぎながら、自分に 問いかけた。二〇〇二年のことである。アメリカ人女性初のエベレスト遠征隊隊長として、彼 女は世界最高峰に立っていた。そして今、頂上へのルートで最も危険な区間といわれるクンブ 氷瀑に辿り着いた。目の前に立ちはだかるのは、六百メートルにも及ぶ垂直な氷の壁。それは 日差しが強まるにつれて、刻一刻と不安定さを増していく。クレバス(氷河の裂け目)が囗を 開けたり、雪崩が発生したりする前に、迅速にこの難所を通過せねばならない。  しかし、スピードはアリソンの強みではなかった。身長百六十ニセンチ、体重五十キロ。大 股で力強く進むための体格も体力も備わっていない。当時三十代半ばで、登山を始めてからま だ数年しか経っていなかった。アリゾナ州フェニックスで過ごした幼少期には、北極探検に関 する書物を読み漁り、登山家の記録映画を手当たり次第に鑑賞しては、うだるような暑さの夏 を乗り切った。将来の夢は、極地探検家になること。しかし、身体的な(ンディキャップを理 由に、極寒の地で生き抜くことなど到底不可能であると、周囲からは言われ続けていた。  アリソンは生まれつき心臓に孔が閧いていた。先天性心疾患を持つ者にとって、冒険家にな るという選択肢は、本来あり得ないはずであった。十代の頃は何年もの間、意識を失っては救 急治療室と自宅とを行き来する日々だった。度重なる手術を経てようやく心臓の欠損孔が塞が れると、ついに彼女は登山に取り組めるようになった。  とはいえ、問題がすべてなくなったわけではない。彼女には循環障害があった。そのため極 寒の環境下では、手足の指先の動脈が閉塞し血流が途絶えて感覚を失い、凍傷になるリスクが 常にあった。  それでも、アリソンはエベレスト登頂の夢を諦めなかった。何カ月もかけてスポンサー企業 を探し出して契約を結び、熟練したアウトドアーアスリートの女性たちによるチームを結成し た。そして今、遠征隊の女性たちは氷河の上に立ち、巨大なクレバスを渡ろうとしていた。一 歩足を踏み外せば、死は免れない。  クレバスに渡された梯子に足を乗せたその時、アリソンの背後から声が飛んだ。  「そんなペースでは頂上へ到達するのは無理だ」と、一人の男性登山家が叫んだ。「あんた、 もっと速く歩けないのなら、ここにいるべきではない。今のうちに諦めて、国へ帰ったらどう だ】。アリソンは、その男性の言葉を可能な限り無視し、ゆっくりと、しかし着実に一歩一歩 進んでいった。  彼女とチームはやがて氷瀑を乗り越えた。その直後、氷瀑の一部が崩落し、巨大な氷塊が落 下、もう少しで一人の登山家が巻き込まれるところだった。そこでは、誰もが常に生命の危険 に哂されていた。彼女のチームをクンブ渓谷の対岸まで運んだヘリコプターは、帰路、隣接す る山に衝突し墜落した。生存者はいなかった。ベースキャンプで知り合った登山家の一人は、 その後、滑落して命を落とした。一瞬の判断が生死を分ける。そして、過酷な自然は、到底人 間の手に負えるものではない。生と死は紙一重であることを、アリソンは身をもって理解して いた。  登攀開始からおよそニカ月が経過した頃、アリソンとチームメイトは最後の一区間、デス ソーンと呼ばれる領域に到達した。山頂に近いこの地点では、ほとんどの人体は酸素ボンベな しでは生存できない。酸素ボンベを装着していても、アリソンは一歩進むために五〜十回も呼 吸を繰り返し、酸素を取り込まねばならなかった。一歩また一歩と前進するうちに、ついに頂 上が目前に見えてきた。  ところが山頂を目前にして、突如として猛烈な吹雪が発生した。凄まじい風雪で視界は完全 に奪われ、前進することも、その場に留まることさえも危険すぎる状況であった。八千八百 メートル近くまで登り詰めたが、登頂を断念するしかなかった。頂上までは、百メートルもな かったというのに、である。アリソンは、エベレスト登頂を果たした初のアメリカ人女性とな ることを諦めて引き返すことにした。そして、チームを率いて下山を開始した。  帰国するや否や、アリソンはリポーターだちからおびただしい数の質問を浴びせられた。 「素晴らしい挑戦でしたが、登頂は果たせませんでしたね。断念した時、どのようなお気持ち でしたか?」よくないこととは知りつつも、彼女はオンライン上のコメントに囗を通した。  「レヴァインと彼女のチームは明らかに能力不足だった。そもそも登頂を目指す資格などな かったのだ」。ディナー・パーティで知り合った人たちの中には、彼女の努力をあからさまに 軽視する者もいた。  「エベレストを登ったなんて、君に言う資格があるのか? 頂上に到達しなかったのであれば、 何の意味もないじやないか」。アリソンは、白分がまるで落伍者のように感じた。  アリソンは自己喪失感と抑うつ状態という悪循環に陥った。白身のチームやスポンサー、そ して母国を失望させてしまった、と思い詰めた。頭の中では、あの男性登山家が発した言葉が、 繰り返し響いていた。「もっと速く歩けないのなら、ここにいるべきではない」。エベレストへ は二度と行くまいと、彼女は自身に固く誓った。    「逆風」を「追い風」に変えて飛躍できる時  周囲から寄せられる期待が、「自己成就的予言」の効果を生むことがある。  自己成就的予言とは、たとえ根拠のない思い込みであっても、それを信じて行動することで、 実際にその通りの結果がもたらされるという現象である。潜在能力を信じてくれる人がいる時、 私たちはあたかも梯子を与えられたかのように、志を高く持ち、より高い目標へ到達すること が可能となる。  数多くの実験で明らかになっているが、職場で上司から大きな期待を寄せられると、たいて い、部下は一層努力し、さらに多くを学び、よりよい成果を出す。学校では、教師から大きな 期待をかけられた生徒は理解度も成績も向上する(この傾向はとりわけ、もともと成績が芳し くない生徒に顕著である)。  周囲からの大きな期待が成長を後押ししてくれる。逆に、期待が低いと、まるで鉛のブーツ を履かされているかのような重苦しさを感じ、成長は抑制されてしまう。これは自己成就的予 言の負の側面で、他者から過小評価されると、成長が妨げられてしまう。これを「ゴーレム効 果」という。  ゴーレム効果は、とりわけ社会的に弱い立場にある人々に顕著に現われる傾向がある。その ような人々は、白己不信に陥りやすいからである。しかし、私の同僚であるサミールーヌルモ (メッドによる両期的な研究は、意外な結果を示した。周囲からの期待が低いことを、逆に自 身の強みへと転換できる場合もあるという。「君には期待していない」と言われたことを、自 らの原動力に変え、苦境を乗り越えることも可能であるというのだ。  サミールはある実験で、被験者に画面上で動く多数の円をマウスでクリックするという課題 を与えた。練習ラウンド終了後、評価者は各被験者ヘメッセージを送った。  無作為に選ばれた一部の被験者は、「君ならばこの課題で他の人たちを打ち負かすことがで きる。君にはいかなる相手にも打ち勝つ能力がある」といった、期待を込めたメッセージを受 け取った。それ以外の被験者は、「君は他の人たちを打ち負かすことはできないだろう。君に は勝利するための能力が欠けている」といった、期待されていないことを感じさせるメッセー ジを受け取った。  期待がもたらす影響は、「どういう人から期待を寄せられたか」によって変わった。課題に 精通している者から大きな期待を寄せられた場合は一層努力し、より優れた成果を収める傾向 にあったが、能力も知識も乏しい者から期待をかけられた場合には、効果が逆転した。  要するに、無知な評価者から期待されるくらいなら、むしろ過小評価されたほうが、人々は 奮起し、より優れた成果を生み出すことができるのである。  人が何かの目標に向かって一生懸命になっている時、その道の専門家から「君には無理だ」 「才能がない」などと能力を否定されると、誰でも強い不安を感じるものである。  その分野で名の知れた専門家があなたの内に秘めた力を見抜けず、「君には見込みがない」 と判断したら、あなたの成長を力強く後押ししてくれることは期待できない。そして、彼らの 疑いの眼差しは、あなたの心の中にある不安をますます増大させ、自信を失わせ、ついには成 長しようとする意欲さえも奪いかねない。これこそ、悪い思い込みが本当に悪い結果を引き起 こしてしまう「自己成就的予言」の一つの現われなのである。  しかし、その一方で興味深いことに、大して実力のない人から低い評価を受けた場合には、 かえってそれが発奮材料となり、よりよい結果を生み出すことがあると、この研究は示してい る。  つまり、「どうせ失敗するだろう」と高を括る相手に対し、「今に見ていろ」というような、 反骨精神に火がつくのである。サミールは、この現象を「アンダードック(負け犬)効果」と 呼んでいる。  実力のない人に能力を疑われると、人はそれを「なにくそ」という挑戦として受け止める。 すると、俄然やる気が湧いてくるのだ。相手が何もわかっていない者であれば、たとえ自分へ の期待が低くても、それで落ち込んだりはしない。かといって、その低い評価を全く無視する わけでもない。「彼らの予想を覆し、自分の本当の力を見せつけてやる」という強い動機が生 まれるのだ。  他人からの疑念は、時に自信を揺るがす脅威となるが、見方を変えれば、自分を奮い立たせ るための試練ともなり得るのである。そして、 そうした状況に置かれると、人は自らを逆境に 立ち向かう「負け犬」と重ね合わせ、奮い立つ ことがある。アリソンーレヴァインもまた、ま さにそのような経験をした。    「復讐心」だけでは    「高み」に到達できない  二〇〇二年のエベレスト遠征で登頂を果たせ なかったアリソンは、心無い批判を浴び、その 言葉が頭から離れなかった。もちろん、その批 判に何の根拠もないことはわかっていた。イン ターネット上で誹謗中傷を書き連ねる者たち、 無責任に否定的な言葉を並べるジャーナリスト や知人たちは、登山の過酷さなどこれっぽっち も理解していない。あの時、彼女の背後から野 次を飛ばした男性登山家に至っては、彼女のよ うな小柄な女性が世界の頂を目指すために、どれほどの犠牲を払い、努力を重ねているのか、 全く想像もできていなかったに違いない。  「もう一度失敗するかもしれないという恐怖よりも、批判した人たちを見返してやりたい、と いう気持ちのほうがずっと強かったのです」とアリソンは私に語った。「登山の知識も経験も ないような人間に自分の可能性を否定されると、まるで喧嘩を売られたような気分になる。私 を馬鹿にした連中を、絶対に勝たせたくなかった。彼らに、自分たちが言ったことを後悔させ てやりたかったのです」と。  このアンダードック効果を力に変え、逆境を乗り越えるためには、しかしながら、しっかり とした心の支え(足場)が必要となる。  アリソンは、批判者たちを見返したいという強い思いを抱いていたが、その復讐心だけでは、 エベレストへ再び挑戦する際に伴う計り知れない不安を受け止め、自らを極限の状況へと突き 動かすには、まだ何かが足りなかった。  たった一人で挑んでも、成功する保証はない。もし二度目も失敗すれば、登山家としての キャリアは事実上終わってしまうかもしれない。そうなれば、資金を提供してくれるスポン サーも、共に困難を乗り越えてくれる有能なチームメンバーも、二度と集まらないだろう。そ のような大きなリスクを背負ってまで再挑戦するには、単なる反骨精神以上の、もっと大きな 動機が必要だった。    「誰かのために」という    一番強い力  他者が間違っていることを証明したいという 思いが、時にモチベーションに火をつけること もある。しかし、多くの場合、それだけではそ の火種を大きな炎へと育てることはできない。 無知な批判者の存在は、何かに「反対して」闘 う動機を与えてはくれるが、モチベーションを 真に燃え上がらせるためには、何かの「ため に」闘うという意義が必要なのである。  人は試練の最中にあっても、白身にとって大 切な誰かのために灯火を掲げていると自覚する 時、それを乗り越えやすくなる。誰かに頼りに されていると感じる時、白分でも驚くほどの力 を発揮できることがあるのだ。  ある研究で、私とマリッサーシャンデルは、オリンピックでの飛び板飛び込み競技について 選手の個人種目での演技と、シンクロ種目でパートナーと共に行なった演技を比較した。その 結果、技の難易度が同じであればソロで演技する時よりも、パートナーと共に演技する時のほ うがミスが少なかった。  同様の傾向は、ドイツとケニアで行なわれたマシュマロテストに類似した実験でも見られる。 被験者の子どもたちは、目の前の一枚のクッキーを今すぐ食べてもよいが、食べずに数分間待 つことができれば、もう一枚をご褒美としてもらえると告げられた。もし自分が誘惑に負けて しまうと、他の子どもたちも追加のクッキーをもらえなくなると知った時、子どもたちはより 長く我慢することができた。パートナーの存在は、自身の能力を疑い続ける後ろ向きな思考 (「果たしてやり遂げられるだろうか」)を抑制し、決意を固めさせる効果がある(「相手の期待 に応えるべく頑張ろう」)。  黒人女性詩人マヤーアンジェロウはこう書き記している。  「あなたが私に期待してくれることを、私もまた期待している。だからこそ私は全力を尽くす のだ」と。  エベレスト遠征で登頂を果たせなかった後も、アリソンーレヴァインには、期待を寄せてく れる人がいた。友人のメグだ。  彼女は再挑戦するよう強く勧めてくれていた。「あなたが一緒に行ってくれるなら、もうI 度挑戦してもいい」とアリソンは答えたものの、それが不可能であることは承知していた。メ グは優れたアスリートだったが、悪性リンパ腫が再発し、彼女の肺はもはや正常に機能しなく なっていたからである。  二〇〇九年、不幸にもメグは肺炎によりこの世を去った。彼女の人生を称えるため、何か意 義あることを成し遂げたいとアリソンは考えた。そしてメグの思い出を胸にエベレストへ登る ことを決意する。彼女のためであれば、闘う価値がある、と。  それからわずか数カ月の間に、アリソンはピッケルにメグの名を刻み、見知らぬ登山家たち で構成される遠征隊に加わるため、ネパール行きの航空券を手配した。今回は、自ら選び抜い たチームを率いるのではなく、個々の登山家たちの寄せ集めであるグループの一員としての登 山であった。  クンブ氷瀑を越える際、アリソンは自身の能力を疑ったすべての人々の顔を思い起こした。 背後から罵声を浴びせたあの男性登山家。オンラインで中傷の言葉を書き連ねた者たち。そし て、循環器疾患を持つ彼女には登山は危険すぎると断言した医師たち。  「あの人たちが間違っていたことを証明してみせる。そのためになすべきことはただ一つ、前 へ進むことのみ。さあ、一歩踏み出せ。もう一歩。そしてまた一歩」。そう自身を鼓舞した。  それでも心が折れそうになる時は、ピッケルに視線を落とし、自分に言い聞かせた。 「メグのためにもやり遂げなければ」  すると、また改めて自信が湧き上がってきた。  長く、困難な数週間が過ぎた。アリソンはようやく、八年前に登頂を断念した地点へと到達 した。心身ともに疲労は極限に達し、再び自身を疑い始めていた。その時、誰かが自分の名を 呼ぶのを聞いた。  「おい、アリソン……いいか、約束してくれ。君は絶対に、ここよりも先へ進むんだ」。他の 遠征隊のガイドで、彼女を後方から見守っていたマイケルーホーストが、そう励ましてくれた のである。  「その瞬間、肩の荷が下りました」とアリソンは私に語った。彼女は、熟練した登山家で、常 に前向きなマイケルを信頼していた。  「マイケルには何度もエベレストを登頂した実績がありました。彼が私ならできると言うのだ から、私はできると信じたのです」  自分を批判した人たちを見返したいという思いと、大切な友人への敬意。そして今、彼女を 心から応援してくれる、信頼できる支援者の存在が、新たな原動力として加わった。マイケル の手を取り、アリソンはさらに進んでいった。  ついに頂上へ到達した時、アリソンは世界最高峰の登頂に成功しただけではなかった。これ によって、探検家グランドスラムをも達成したのである。七大陸すべての最高峰登頂を果たし、 かつ北極点と南極点の双方をスキーで踏破する という、世界でもごく僅かな成功者の一人と なった。  しかし、振り返ってみて、白身を最も誇らし く思えた瞬間は、エベレストの頂を踏んだ最後 の一歩ではない、とアリソンは言う・彼女が真 に誇りとしているのは、八年前にエベレスト山 頂を囗前にして引き返すことを決断したあの場 所へ戻るまでの、長く険しい道のりそのもの だったと。  進歩とは、必ずしも前へ向かって動くことだ けを意味するのではない・後戻りすることに よって、進歩を遂げることもある・そして成功 とは、頂点に到達することだけを指すのではな い。一つひとつの谷を乗り越えることもまた成 功である。レジリェンスとはヽまさに成功の証 なのだ。    続く世代のために「道」を切り開けるか  「黄金の十三人」は、仲間たちのために、そして自分たちを不当に見下す者たちに抗うために、 闘い抜いた。彼らの前に立ちはだかったのは、意地悪な批判者などという生易しいものではな い。もっと根深く、手強い壁であった。そこにはあからさまな差別が渦巻き、海軍の上層部が 訓練教官たちの度を越した行ないを諌めることも、一度や二度ではなかったのである。  「教官たちの多くは、黒人の士官候補生たちを快く思っていませんでした」。当時を知る白人 少佐ジョンーディルは、悔しさをにじませながらそう語る。「教官たちの差別的な扱いはあま りにもひどく、軍の上層部も、黒人候補生と白人候補生を平等に扱うべきだと、何度も釘を刺 していたほどです」  しかし、そうした通達も虚しく、多くの白人教官は、黒人候補生たちに向かって「お前たち が成功するわけがない」と言ってはばからなかった。  白人の教官たちに、白分たちをまともに評価する資格などありはしないI「黄金の十三 人」は、そのことを痛いほど理解していた。何しろ主任教官は、海軍兵学校を卒業してまだ二 年しか経っておらず、候補生である彼らよりも実務経験が浅い。そんな人物に、自分たちの本 当の力を見抜けるはずがない。彼らが間違っていることを、必ずや証明してみせるI「黄金 の十三人」は、主任教官の浅はかな疑いの目を、逆境を跳ね返すための強力なバネヘと変え、 意欲を高める火種としたのである。  「私たちが失敗するのを待ち望んでいる連中は大勢いた。もし私たちがしくじれば、それを囗 実に、黒人を士官に登用しようという試み自体が潰されてしまう。そして世間の人々はこう言 うだろう。『やはり黒人は能力が低く、頭も悪い。だから士官になれるわけがないのだ』とね」  サミュエルーバーンズは、当時の彼らが置かれていた状況の厳しさをそう述べる。  「だからこそ、私たちは固く決意した。何としてでも成功しなければならない、と。そして、 互いにこう言い聞かせ合ったんだ。『これは我々にとっての挑戦だ。我々が失敗することを 願っている者たちがいるからこそ、絶対に成し遂げなければならないのだ』と」  偏見に満ちた批判者たちを見返すには、十六名全員が合格するしかない。仲間たちを、そし て何よりも、自分たちに希望を託す黒人コミュニティ全体を、決して落胆させるわけにはいか なかったのである。  人は、白分か属する集団全体から期待され、頼りにされていると感じる時、内に秘められた 驚くほど強靭な意志の力に気づくことができる。私の同僚であるカレンーヌールトンの研究が 示すように、集団への強い一体感を抱く時、あたかもメンバー同士のフートストラップ(自力 で困難を乗り越える力)が互いに固く結びついているかのように感じるという。  自分たちの集団が外部から低い評価を受けているとわかると、人はその評価を覆そうと一層 奮起し、集団全体の力を引き上げようと努める。単に自分たちの能力を証明しようとするだけ でなく、新たに道を切り開いて後に続く人たちがその道を歩めるようにしようと努力するので ある。  「黄金の十三人」には、はっきりとわかっていた。自分たちが背負っているのは、この十六名 のグループだけではない、遥かに重く、大きなものであることが。  「我々は、誰も足を踏み入れたことのない未開の地を切り開いているのだと、そう自覚してい ました」とジョージークーパーは語る。「もし我々がここで失敗すれば、同じような機会が、 十二万とも言われる同胞たちに再び巡ってくるのは、何年後、いや何十年後になるかもしれな い……それは、とてつもなく大きな責任でした。私たちはそのことを胸に刻みつけ、片時も忘 れることはありませんでした」  「黄金の十三人」は、自らのフートストラップによって、未来の世代をも引き上げようと奮闘 していたのである。ジェシー・アルボーは、その思いをこう表現している。「我々は、歩むこ とを学んだ。それは、次の世代が力強く走ることができるようにするためだ」と。  「黄金の十三人」は、未来の海軍士官たちのために、肌の色による差別という厚い壁を打ち 破っただけではない。次世代の子どもたちが、人種にかかわらずあらゆる分野で偉大なことを 成し遂げられるよう、さらにいくつもの道を切り開いていったのである。ダルトンーボーはマ サチューセッツエ科大学で工学の修士号を取得し、海軍史上初の黒人主任エンジニアとなった。 デエスーネルソンは少佐にまで昇進し、さらには、識字教育プログラムを運営し、これまで選 挙権を行使したことのなかった海兵たちが投票できるよう、読み書きの重要性を説き、その習 得を助けた。レジナルドーグッドウィンは、海軍人事局の運営という要職を担った。サミュエ ルーバーンズは教育行政学の博士号を取得し、全米大学体育協会で初の黒人役員として活躍し た。シルベスター・ホワイトは、イリノイ州知事の閣僚を務めた後、判事となった。そしてシ ルベスター・ホワイトとジョージークーパーは、海軍内における女性の権利や同性愛者の権利 を擁護する活動にも尽力した。彼らの権利を求める運動がまだ社会に広く認知され、受け入れ られるようになるずっと以前のことである。  よき祖先として未来を切り開くことのほうが、過去の伝統にただ従順な子孫であることより も、遥かに重要なのである。にもかかわらず、多くの人は、未来への架け橋を築くのではなく、 過去の遺産の管理人に甘んじがちである。彼らは、親の世代からどう評価されるかを気にかけ る。  しかし、私たちが真に心を砕くべきは、私たちの子や孫の世代から、誇りに思われる存在と なることではないだろうか。各世代に課せられた真の責任は、先代をただ喜ばせることではな い。次なる世代のために、よりよい社会、よりよい状況を築き上げていくことなのである。    「心が折れそう」になった時に思い出してほしいこと  歴史的偉業を成し遂げたにもかかわらず、「黄金の十三人」は長い間、アメリカ海軍から正 式な評価を受けることはなかった。一九四四年に士官訓練を修了した際も、卒業式典はおろか、 祝賀の会さえ催されなかった。五大湖畔に設けられた士官専用クラブへの立ち入りも、許され なかった。  一九八七年、「黄金の十三人」のうちまだ存命だったメンバーたちはついに、彼らの輝かし い軌跡の出発点であるシカゴ郊外の海軍訓練施設で再会の時を迎えた。海軍初の黒人大将が、 彼らの不滅の功績を称えるための記念式典を執り行なったのだ。そして、新兵訓練コマンドセ ンターの建物は「The Golden Thirteen(ザーゴールデンーサーティーン)」と命名されること となった。今でも、基礎訓練のために到着した新兵たちはまず、この建物へと足を踏み入れる のである。  建物が自分たちの名誉を冠して名づけられたこともさることながら、それ以上に「黄金の 十三人」の心を深く揺さぶったのは、彼らから多大な影響を受け、その場に集った大勢の人々 の姿であった。訓練修了から三十年後に再会した時には、黒人士官の数はまだほんの一握りに 過ぎなかった。しかし今、彼らが切り開いた道を辿ってきた数百人もが、講堂を埋め尽くして いる。海軍大佐たちが次から次へと「黄金の十三人」のもとへ歩み寄り、感謝の言葉を述べた。 「今日の私たちがあるのは、すべてあなた方のおかげです」と。  「黄金の十三人」は、周囲の多くの人々からその能力を疑われ続け、時には、自分自身も疑っ た。しかし、彼らは互いを固く信じ合い、後に続く他の人々のために新たな道を切り開こうと、 その決意を貫き通したのである。  困難を一人で克服することも、不可能ではない。しかし、自身のフートストラップを仲間た ちのフートストラップと固く結び合わせるならば、より高い頂へ、最も険しい頂へと到達する こともできる。  もし、あなたを信じてくれる人が数人いるならば、彼らを信じるべきだろう。無知な批判者 があなたの能力を信じないのであれば、彼らが問違っていることを証明すればよい。そして、 心が折れそうになった時には、ぜひ思い出してほしいI。自分は何のために闘っているのか、 ふざ。 は   誰もが輝ける 貼(j 「仕組み」がある       I−1111一III一−I− 一I一!−−I−−−−一I I一I 一一 一 III−−−−11−−−−−−−−−−−−−−一−−−−−−−一11−II−一−−−I一lj−−−一−I−四−−−14J1−I−I−−I−11111−I−1111−―III−        1111−−I−I■     ■■ ・−       すべての人の内に眠る「可能性」を       育むために  確かに、私たち自身や身近な人々の内に眠る可能性を大きく開花させるためには、個々人が 目身の「性格スキル」を磨き、周囲からの「足場かけ」という支援を得ることが、重要な鍵と gる。  しかし、それだけでは十分ではない。もし、誰もが生まれ持った才能を存分に発揮し、より 咼い目標へと手を伸ばせる社会を真に願うならば、私たちを取り巻く「仕組み」そのものに、 天胆な変革のメスを入れる必要がある。教育の現場、働くチーム、そして社会を構成するあら 9る組織のあり方を根本から見つめ直し、誰もが等しくチャンスを擱めるような環境を、私た ち白身の手でっくり上げていかねばならない。  なぜなら、「機会」に恵まれるかどうかが、その人の人生をどれほど大きく左右するかを示 T、動かしがたい証拠が既にあるからだ。本書の冒頭でも紹介した経済学者ラジーチェティの 畊究は、幼い頃に育まれる「心の力」(性格スキル)が、私たちの未来の成功にどれほど深く 闃わっているかを、改めて気づかせてくれる。  チェティと彼の研究チームは、「機会」がいかに人の成長に影響を及ぼし、未来を切り開く 卑新的な人材を育てるかに強い関心を抱いていた。そして、特定の恵まれた環境で育った子ど もたちが、特別な資源や人脈といった「機会」をより多く享受している現実を指摘した。実際 に、百万人を超える米国市民の所得税申告データと特許申請記録を照らし合わせてみると、衝 ″的な事実が浮かび上がった。所得が最も豊かな上位一パーセントの家庭に育った子どもは、 m得が平均以下の家庭で育った子どもよりも、将来発明家になる可能性が実に十倍も高かった 心である。  特許を取得する確率は、裕福な家庭の子どもで千人中八人。これに対し、貧しい家庭の子ど りでは一万人に八人と、大きな隔たりがある。  この格差は、子どもたちの知的能力が同等であったとしても、依然として存在した。例えば、 J学三年生で算数のテストの成績が上位五パーセントに入る優秀な児童が二人いたとしよう。 りし一方が高所得家庭の子で、もう一方が低所得家庭の子であった場合、前者が発明家になる t率は、後者の二倍にもなる。さらに追い打ちをかけるような事実がある。算数が得意な低所 万家庭の子どもが発明家になる可能性は、同じテストで平均以下の成績しか取れなかった裕福 Q家庭の子どもと、ほとんど変わらなかったのである。  私たちは「天才」と聞くと、生まれながらにして特別な才能に恵まれた人間を思い浮かべが りだ。しかし、その天才性が花開くためには、育つ環境がいかに重要であるかを、私たちはし 以しぱ見過ごしてしまう。裕福な家庭の子どもは、自らのアイデアを試し、それを世に問うた ″の「機会」に恵まれやすい。  その一方で、十分な機会に恵まれない子どもたちの中には、数多くの「失われたアインシュ ダイン」−つまり、適切な環境さえあれば、歴史に名を刻む偉大な発明家になっていたかも しれない子どもたちが、埋もれてしまっているのである。  チェティの研究チームは、この格差が生まれる原囚を比較的容易に突き止めた。裕柵な家庭 の子どもたちは、口々の生活や地域社会の中で、実際に発明家として活躍している人々と出会 い、触れ合う機会が格段に多いというアドバンテージを持っていた。  すなわち、彼らのまわりには、貴重な助言を与え、進むべき道を示唆してくれる指導者や手 不となるべき大人が、より多く存在していたのだ。そのような環境に置かれた子どもたちは、 日ずと大きな夢を抱き、より高い目標を設定し、目覚ましい進歩を遂げるための貴重な「機 貿」を手にしていた。 「機会」とその影響は、単に裕福かどうかという問題だけに留まらない。住んでいる場所、つ まり地理的な要因もまた、無視できない影響力を持つ。革新的なアイデアや技術が生まれやす い地域(イノベーションの(ブ)に住むこと自体が、子どもたちの将来に大きな影響を与える りである。  チェティの研究によれば、技術革新が盛んな地域へ幼少期に移り住んだ子どもは、そうでな い子どもに比べて、将来、特許を申請する傾向が顕著に強くなるという。例えば、幼い頃に両 秋と共に、発明家の割合が相対的に低いニューオーリンズ(人口一人当たりの発明者割合が 一五八−センタイル)から、それが高いオースティン(七五ハーセンタイル) へ転居した場合、 での子どもが将来特許を取得する可能性は、三七パーセントも上昇すると推測されている。さ りに、住んでいる地域によって、どのような分野で革新的な才能を発揮しやすいかさえも予測 eれた。例えば、シリコンバレーへ移り住んだ者は、情報技術関連の特許を取得する確率が上 升したのである。  とはいえ、いくら望ましい地域に住んでいたとしても、誰もが同じようにその恩恵を受けら らるわけではない。ここで重要となるのが、身近に手本となる人物、「ロールモデル」が存在 夕るかどうかである。しかし、社会の中で不当に低い評価を受けている集団にとっては、その 今っなロールモデルを見つけ出すこと自体が、とりわけ困難なのが現実だ。  データが示すところによれば、女の子が将来、特許を申請する可能性が高くなるのは女性発 『家の数が多い地域−もっとも、そのような地域は稀ではあるがIで育った場合のみであ Q。もし、女の子が女性発明家に出会う機会が、男の子が男性発明家に出会う機会と全く同じ ヾあったならば、女性の特許取得率は倍増するだろうと、チェティの研究チームは結論づけて ぃる。そうなれば、イノベーションの世界における男女間の格差は、半分以上も解消されるこ こになる。  真によいシステムとは、すべての人に飛躍する「機会」を与えるものである。生まれ育った 一境に恵まれなかった人々に新たな道を切り開き、不当な理由で門前払いをされてきた人々に り好機を提供し、そして、目に見えない障壁によって行く手を阻まれた人々のために、その壁 乙打ち破る。社会に眠るあらゆる才能と可能性を引き出すための仕組みを構築するならば、私 廴ちは、第二、第三のアインシュタインを失うという大きな損失を、確実に減らすことができ 心はずだ。そればかりか、多様な分野において第二のジョージーワシントンーカーヴァー、第 一のマリー・キュリー、第二のグレースーホッパー、第二のエイダーラブレスといった、多様 な分野における偉大な才能を、次々と世に送り出すことができるかもしれない。  入学選考や採用の仕組みが、より公平で本質を見抜くものへと変われば、たとえ遅咲きで めっても、あるいは不利な状況に置かれていたとしても、その候補者の内に秘めた大きな可能 咒を発掘できるようになるだろう。チームや組織のあり方が、よりオープンで風通しのよいも のになれば、「よいアイデアは上から下へ流れるものだ」という古い固定観念は打ち破られ、 琲もが自由に意見を述べ、積極的に貢献できる環境が育まれていく。  そして、真に質の高い教育システムとは、たとえ逆境からスタートした子どもであっても、 看実に進歩し、成功を掴むための「機会」が平等に与えられる場所である。それは、限られた 場所に天才を探し求めるのではなく、私たち一人ひとりの中に眠る天才性を丁寧に育んでいく、 という発想の転換なのである。そうすれば、人類が持つ最も偉大な潜在能力を、私たちは余す ところなく開花させることができるだろう。       大理石一つひとつの中に天使が閉じ込められていると       ミケランジェロが信じたように、       生徒一人ひとりの中に才能豊かな子どもが潜んでいると       私は信じている。                       マーヴアーコリンズ(教育者) 一人ひとりの「最高」を引き出す技術 −フィンランドの教育に学ぶ、    「ポテンシャル」を最大化する仕組み  新たな千年紀の幕開けと共に、各国を代表する十代の若者数千人が、ある国際プログラムに 参加した。このプログラムは後に世界中に大きな衝撃を与えることになるのだが、その時点で はさほど注目を集めてはいなかった。アリーナでの華々しい競技があるわけでもなければ、観 客もいない。メダルの授与式もなく、結果を伝えるための小規模な記者会見が、パリで行なわ れただけである。  史上初めて世界中の若者の学力を直接比較するため、専門家たちは一つの方法を考案した。 二〇〇〇年を皮切りに、三年ごとにOECD(経済協力開発機構)が数十カ国の十五歳の生徒 を対象に、PISA−数学的リテラシー、読解力、そして科学的リテラシーを測定するため の標準テストーを実施する、というものである。どの国が最も優れた若い知性を育て、そし て最良の教育システムを有しているのかが、各国の平均点によって明らかになる、というわけ だ。  この国際的な学力テストが目指すのは、単に国の威信を高めることだけではない。未来を担 う世代がよりよく成長していくためには、まず現在の教育システムがどのような状態にあるの か、その質を正確に知ることが何よりも大切だからである。上位にランクされた国々は、あた かも灯台のように、他の国々がより優れた学校を、そしてより豊かな知識を持つ社会を築き上 げるための航路を照らし出すだろう。  二〇〇〇年の第一回調査において、有力な候補として名前が挙がっていたのは口本と韓国 だった。両国の生徒たちは、頭の回転が速く、優れた学習習慣を身につけていることで知られ ていたからだ。ところが、結果が発表されると、人々は驚きを隠せなかった。最も口覚ましい 成果を上げたのは、アジアの国々ではなかった。北アメリカやヨーロッパで教育先進国として 知られていたカナダでも、英国でも、ドイツでもなかった。オーストラリアや南アフリカとも 異なる。トップの座に躍り出たのは、誰もが予期していなかったアンダードックの国、フィン ランドだったのである。  ほんの一世代前まで、フィンランドはマレーシアやペルーと同程度の、いわゆる教育後進国 と見られており、他の北欧諸国にも大きく後れを取っていた。一九六〇年の時点では、国民の 八九パーセントが中学校三年生を修了していなかったという。一九八〇年代に入っても、卒業 率の国際比較や、国際数学・科学オリンピックの成績において、フィンランドは依然として平 均的な水準に留まっていた。  わずか二十年余りという短期間に、これほど大きな飛躍を遂げた国は稀である。これは偶発 的な結果に違いない、と主張する観測筋もいた。ところが二〇〇三年、その見解が誤りである ことが証明される。フィンランドは再び上位に食い込み、しかも前回を上回る成績を上げたの である。さらに二〇〇六年にも、三回連続で好成績を収め、他の参加国を凌駕した。  無論、いかなるテストも万能とは言えない。しかし、フィンランドの教育の卓越性は、PI SAや高校生の学力テスト以外でも顕著に現われた。二〇匸一年、数十カ国から十六万五千人 以上の成人が参加したOECDの別の国際成人力調査において、十代および二十代のフィンラ ンド人は、数学的思考力と読解力の両分野で第一位となったのである。  たちまち世界中の学校関係者や政策立案者、ジャーナリストたちが、こぞってフィンランド へ赴き、自国の学校や教育システムを改善すべく、その成功の秘訣を探ろうとした。だが、国 際教育の専門家たちは、フィンランドの成功例が他の国にそのまま当てはまるとは隕らない、 と警鐘を鳴らした。その成功要因の中には、フィンランドという国の特性に深く根ざした方法 もあるからである。フィンランドは人口わずか五百五十万人の、比較的均質な文化を持つ裕福 な国家なのだ。  それらの特性がフィンランドの成功に寄与していたとしても、その飛躍的な発展のすべてを 説明するには十分ではない。例えば、フィンランドの北隣に位置するノルウェーでは、子ども の貧困率はより低く、一クラスあたりの生徒数もより少ない。しかし奇妙なことに、フィンラ ンドが右肩上がりの成長を遂げていた同時期に、ノルウェーのテストの点数は大きく低下した。 さらにフィンランドは、その他の北欧諸国の成績をも常に上回っていた。何か別の、より本質 的な成功要因が存在するはずだった。  フィンランドが連続して期待を上回る優秀な成績を収めていた一方で、アメリカは常に期待 を下回っていた。二〇〇六年のPISAでは、数学分野で五十七カ国中三十五位、科学分野で も二十九位という結果であった。そして二〇一八年になっても、アメリカの成績はさほど向上 しておらず、すべての分野において二十五位に甘んじている。我が国アメリカの学校は、フィ ンランドの目覚ましい発展から多くを学ぶ必要があった。  その成功の秘訣を学ぶべく、私はフィンランドを訪れた。様々な教育専門家から話を聞き、 数多くの研究を吟味した結果、秘密の要素は一つではないことがわかった(それは、フィンラ ンドを代表する美味しいブルーベリージュースのレシピが一つではないのと同様である)。し かし、その要素のうちいくつかは他の国でも応用可能であり、それぞれの状況に合わせて調整 し改善することもできるという、強力な証拠もあった。私はフィンランド独自の教育への取り 組み方を研究した結果、最大の成功要因は、同国が築き上げてきた「文化」そのものであると 確信するに至った。  その文化とは、「すべての子どもには無限の可能性がある」という揺るぎない信念を基盤と して築かれたものである。最も優秀な子どもたちを選りすぐるのではなく、フィンランドの学 校は、一人ひとりの子どもに成長するための機会を平等に与えることを目指している。PIS Aの成績においても、学校間および生徒間の学力格差が世界で最も小さい国の一つであった。 他の国では不利な条件と見なされるような事柄も、フィンランドではさほど大きな障壁とはな らない。優れた学力を持つ生徒の割合が世界で最も高いだけでなく、学力の低い生徒の割合が 最も低いのである。  フィンランドの学校でしばしば耳にする標語は、「一人たりとも才能を無駄にはできない」 というものである。この精神こそが、同国の教育文化を際立たせている。彼らは知っているの だ。内に秘めた可能性を育む鍵は、早期に頭角を現わす一部の子どもだけに投資することでは ない。むしろ、目に見える能力の差に関係なく、子ども一人ひとりに真摯に向き合い、その成 長を信じ支援することである、と。    成長の芽を伸ばせるか、摘み取ってしまうか  子どもの成長の芽が育つか、あるいは摘み取られてしまうか。それは学校での経験に大きく 左右される。既存のあらゆる資源を活用して、子どもたち一人ひとりの中に眠る最良のものを 引き出す学習環境を創造しようと努める学校や教師も存在する。研究によれば、どの国におい ても、子どもが進歩を遂げるか、あるいは落ちこぼれてしまうかは、学校や教室でっくり出さ れる文化がその一端を柤っているという。  組織心理学において、文化は「実践」「価値観」そして「根本的な信念」という三つの要素 から構成される。実践とは日々の決まった行動であり、価値観を反映し、強化する。価値観と いうのは、何を重んじ、大切にするか(つまり、何が好ましく、何が好ましくないか)、その 考え方を中核にした、集団で共有される理念だ。そして根本的な信念は、正しいと固く信じ込 む心であり、多くの場合、社会はこのように機能するものだという見方そのものである。私た ちの信念が価値観を形成し、その価値観が日々の実践を促すのである。  アメリカの教育システムは、勝者総取り、独り勝ちという文化の上に成り立っているといえ る。アメリカ人は、潜在能力とは生まれ持った才能に根ざし、幼少期にこそ開花するものであ ると思い込んでいる節がある。その結果、突出した才能に価値が置かれ、有望と見なされた子 どもを早期に特定し、その能力を重点的に強化しようとする慣行が生まれる。優良であるとし て選抜された者は、英才教育プログラムという特権を享受できる。しかしその一方で、頭の回 転が鈍いと見なされた児童は、留年を繰り返したり、半永久的に自尊心を傷つけられたまま過 ごしたりすることにもなる。  もし運よく裕福な家庭に生まれれば、最良の教師陣を擁する最良の学校へ通うことも可能だ ろう。しかし、恵まれない家庭に生まれた子どもは、厳しい環境下で孤軍奮闘しなければなら ない。そのような不利な立場にある子どもたちにも機会を与えるため、二〇〇一年、アメリカ 連邦議会は「落ちこぼれ防止法」を制定した。その目的は、各学年において数学と読解力を 一〇〇パーセント習熟させること、そして学力の低い児童生徒が落ちこぼれることのないよう、 各学校が責任を持って取り組むようにすることにあった。民主・保守両党の支持を得ていたに もかかわらず、この改革は失敗に終わった。現在もなお、学校間、そして富裕層と貧困層との 間における学力格差は甚だしいままである。  これに対し、フィンランドの教育システムは、すべての児童生徒に機会を与える文化を発展 させてきた。その文化の根底にあるのは、知性とは多様な形で現われるものであり、子どもの 一人ひとりが無限の可能性を秘めている、という揺るぎない信念である。この信念が、教育の 機会均等を核とする価値観を生み出し、そして個々の成功を後押しする数々の実践をつくり上 げてきた。フィンランドでは、成功とは、一部の天才や秀才だけのものではないのである。  フィンランドが目指しているのは、すべての児童生徒に優秀な教師と、それぞれの成長段階 に応じた個別の学習プランを提供することである。学習で遅れがちな生徒がいても、留年させ るといった措置を安易に取ることは稀である。生徒が遅れを取り戻せるよう、学校は早期に介 入し、個人的な教育指導と特別な支援を提供する。さらに、一人ひとりの学力的な成功だけで なく、知的好奇心を育むことも重視しているのである。  私たちの根本的な価値観が教育に反映される時、影響を受けるのは学校だけに留まらない。 その価値観は、社会全体にも深く浸透していく。米国において、最も尊敬される職業は何かと 問われれば、多くの大が「医師」と答えるだろう。一方、フィンランド人の大半が最も称賛す る職業は、「教師」なのである。  フィンランドは単に幸運に恵まれ、素晴らしい教育や文化が偶然形成されたのだ、と考える 大もいるかもしれない。しかし、いかなる国においても、教育に対する価値観や根本的な信念 というものは、天から与えられるものではなく、自ら選び取るものである。  フィンランドは一九七〇年代、教育を専門性の高い分野へと変革するための大々的な改革を 開始した。「教育を国家建設の基盤」と位置づけ、その本質的な価値を進化させていったのだ と、教育専門家のサミュエルーエイブラムスは説明している。  改革は、まず教師に求められる資質や専門性の水準と養成方法を見直すことから始まった。 隣国ノルウェーとは異なり、フィンランドはすべての教師に対し、国内トップレベルの大学で 修士課程を修了することを義務づけた。これによって、意欲的で高い志を持つ人材が教職を口 指すようになった。教師を目指す者は、高度な専門訓練を受け、エビデンス(科学的根拠)に 基づいた教育実践を学ぶ。その実践の多くは、既に他の国々で試され、有効性が実証されたも のであった。また、教師の給与水準も引き上げた。  これらの価値観や実践が、一夜にして文化を変革したわけではない。一九九〇年代初頭、新 たな教育大臣が「新しい教育文化」を創造するための大胆な改革を提唱すると、政治家たちは 教師や生徒たちと協力し、理想とする教育文化とは何かを定義する取り組みを開始した。この 時、「教師とは国から信任された専門職である」という新しい信念が明確に打ち出された。国 は教育現場を支援する立場に回り、それまでの柔軟性に欠けた画一的なカリキュラムを変更す る権限と自由を、教師たちに与えたのである。  今日、フィンランドの教師は大きな裁量権を持ち、自身の判断に基づいて生徒たちの成長を 促進することができる。最新の教育研究に精通していること、そして実証済みの教育方法を応 用するために教職員間で互いに教え合い、指導し合うことが義務づけられている。さらには、 全国一斉の学力テストが廃止されたため、教師たちは生徒たちをその対策のために指導する必 要もなくなった。  フィンランドが進めたこれらの教育改革は、現在の教育システムの基礎となり、すべての子 どもたちに成長の機会を提供するという社会全体の雰囲気、文化をつくり上げていった。教育 そのものに、単なる知識伝達以上の「価値」を社会全体で見出すようになったことで、「どの 子にも素晴らしい可能性がある。学ぶ力は必ずある」という考え方が、フィンランド社会の 隅々まで行き渡ったのである。フィンランドの教育システムに関する世界的な第一人者である パシーサールバーグは、こう述べている。  「フィンランドで優秀と見なされる学校とは、すべての児童生徒が期待を上回る成果を上げて いる学校のことです」  一人ひとりの子どもの中に眠る才能を見つけ出し、それを大きく花開かせるためには、画一 的な教育ではなく、それぞれの子どもの個性や学習のペースに合わせた、きめ細やかな指導が 不可欠であるI。フィンランドの教師たちは、このような揺るぎない教育への信念を胸に抱 いている。驚くべきことに、だからといってクラスの規模を極端に小さくする必要はない。 フィンランドでは通常、一人の教師が二十人前後の児童を受け持ち、個々の理解度に応じた学 習法を実践している。フィンランドの学校が大切に育んできたのは、すべての子どもたちに等 しくチャンスが与えられる文化である。そのおかげで、生徒たちは教師と一対一の人間的なつ ながりを育み、必要な時には個別の手厚いサポートを受けることができる。そして何よりも、 自分自身の純粋な興味や関心を深く追求していく自由と安心感を得られるのである。    「著しい進歩」を約束するシンプルなシステム  もし、私たちが既に持っている資源を活川するだけで、どのような学校でも実践できる、ご くシンプルな方法があるとしたらどうだろうか。一人ひとりの子どもが、内に秘めた可能性を 存分に開花させられるよう支援する手立てはないのだろうか。フィンランドには、それがある。 それは、教師と児童生徒との間の個人的な関係づくりを推し進める教育方法である。これに よって、教師は学習内容だけでなく、受け持つ児童生徒一人ひとりについて、より深く理解す るようになる。近年、この効果について、大西洋を越えたアメリカで興味深い実験が行なわれ た。  経済学者たちは、米ノースカロライナ州の数百万人に及ぶ小学生を対象とした研究で、四年 生と五年生のある特定の学級が、算数と読解力の両方において、他の学級の児童よりも際立っ て優れた成績を示す傾向があることを発見した。そして、その要因が約七千人の特定の教師た ちにあることを突き止めた。それらの教師は、一体どのような特別な方法を講じたのだろうか。 私は即座に強く興味をそそられた。ところが、決定的な違いを生んでいたのは教師個人の能力 ではなく、学校のシステムそのものだったのである。  著しい進歩を遂げた児童たちは、とりわけ傑出した教師に恵まれたわけではなかった。同じ 教師が二年連続でクラスを受け持った、ただそれだけのことだった。  これは「持ち上がり制」と呼ばれるもので、教師は、毎年同じ学年に留まって新しい児童生 徒を迎え入れるのではなく、児童生徒と共に上の学年へと進級する。その利点は、ノースカロ ライナ州以外でも確認されている。他の経済学者チームが、この研究をインディアナ州の小中 学生百万人を対象として再現した際も、同様の結果が得られた。  一人ひとりの児童と関わる期間がもう一年長くなることで、教師たちは、それぞれの強みや 苦手なこと、学習の進捗具合などを、より明確に把握できるようになる。そして、各児童が持 つ潜在能力を最大限に発揮できるよう、学習面および精神面の両方で、それぞれのニーズに合 わせたきめ細やかな支援を行なうことが可能となるのである。各児童について教師が感じ取っ たことや、日々の触れ合いを通して知り得た貴重な情報が、翌年度の新しい担任への引き継ぎ の際に失われてしまうこともない。  フィンランドでは、国全体として、この「持ち上がり制」という教育方法の価値を高く評価 し、多くの学校で積極的に導入・実践している。持ち上がりの年数を聞いて、私はさらに驚い た。フィンランドの小学校では通常、児童は数年間、同じ担任教師のもとで学ぶ。それも単に 二年連続というわけではなく、最長で六年間にも及ぶという。これによって教師は、教えるべ き教科内容だけでなく、受け持つ児童一人ひとりについても、深く精通するようになる。彼ら の役割は、単なる「教師」から、成長を導く「コーチ」、そして人生の「メンター」 へと自然 と進化していく。日々の授業を行なう傍ら、児童が目標に向かって着実に進歩し、社会生活や 精神的な課題をも克服できるよう、力強く後押しするのである。  この研究報告を読んだ時、幸運なことに私自身もまた、「持ち上がり制」から恩恵を受けて いたことに気づいた。私の中学校では当時、卒業までの三年間を二人の担任教師が受け持つと いう、試験的なプログラムが実施されていた。  私が幾何学で四苦八苦していた際、ポーランド先生は私の能力を疑うことはなかった。代数 学では常にトップクラスの成績であった私か、抽象的な思考を好むタイプの生徒であることを、 彼女はよく理解していたからである。そこで、立体図形を描く前に、まず方程式を用いてその 図形の寸法を計算することを教えてくれた。  また、社会科と人文科学の授業で私の知的好奇心に火がついた様子を何年にもわたって観察 していたミニンガー先生は、私か何に心を惹かれるのかを熟知していた。私がギリシヤ神話の 登場人物の分析に夢中になり、模擬裁判で相手の反論を予測することに熱中しているのを見て、 それらのスキルを活かして心理学に関する学年末プロジェクトに取り組んでみてはどうかと提 案してくれた。ありがとう、ミニー先生。  とはいえ、「持ち上がり制」はアメリカの学校において標準的な制度ではない。一九九七年 から二〇匸二年までの間、ノースカロライナ州で持ち上がり制を全く採用しなかった学校は、 実に八五パーセントにも上る。また、二年連続で同じ担任のもとで学んだ児童は、全体のわず か三パーセントに過ぎない。担任する学年が変わることで、教師が特定の学年に対する専門技 能を高めることができなくなるのではないか、と教育評論家たちは長年懸念してきたのである。 運悪くあまり好感の持てない教師に当たり、そのまま何年も続くことを心配する親も少なくな い(「我が子の担任が、卒業までずっとあの闇の帝王ヴォルデモートだったらどうしよう?」 と)。  しかし実のところ、持ち上がり制から最も大きな恩恵を受けるのは、指導力に課題のある教 師、そして成績が芳しくない児童であるという。互いをより深く知るようになるにつれて、苦 闘していた教師や児童が最も大きな進歩を遂げたことが、研究によって明らかになっている。 共に成長するための貴重な機会を得たからである。  だがもし、一人の教師の力だけでは解決できない問題を生徒が抱えているとしたら、どうだ ろうか。児童が学習や生活で困難を抱えている時、担任教師との良好な関係を築くだけでは不 十分な場合もある。そのような時、個別の支援を必要とする子どもたちのために、フィンラン ドではさらなる手厚い取り組みを実践しているのである。    最高のリーダーは自ら「現場」に立つ  ひと昔前、フィンランドの都市エスポーでのことである。ベサルトーカバシという小学六年 生の児童は、授業内容がなかなか理解できず苦心していた。アルバニア人の両親がコソボ紛争 の勃発後、ベサルトをこの地へと避難させたのだが、フィンランド語は彼にとってまだ馴染み の薄いものであった。  その状況を見かねた校長のカリーロウヒヴォリは、まだあまり例のないことではあったが、 ベサルトのために早めに特別なサポートを始めることを提案した。まずは、ベサルトがもう一 年同じ学年で落ち着いて学べるようにし、専門の先生についてもらうことにした。それだけで なく、彼が授業の内容をきちんと理解できるようになるまで、カリ校長自らも、できる限りの 協力をしたいと申し出たのであった。「その年、私がベサルトを個人的に指導することにした のです」と彼は言う。  私が通ったアメリカの学校で、校長たちが児童の学ぶ姿を見るために教室へ入ってくること など、まずあり得なかった。ところがフィンランドには、多忙な職務の傍ら時間を割き、率先 して児童を個人的に支援しようとする校長が存在するのである。児童たちに対するカリの愛情 は深かった。長年、「毎朝の運動」と称して就学前教育クラスを訪れ、大はしやぎする四十五 人もの幼い子どもたちを自身の肩に乗せるのを日課としていたという。ベサルトに救いの手を 差し伸べることにも、彼は何のためらいもなかった。「たいしたことではないさ」とカリは言  「人生という長い道のりのために、子どもたちに必要な備えをさせる。これは、私たちが日々 当たり前に行なっていることだからね」  「一オンスの予防は、一ポンドの治療に値する」。これはベンジャミンーフランクリンの有名 な言葉である。早めに特別なサポートを行なうことは、不利な立場にあったり学習に困難を抱 えていたりする生徒を力強く後押しし、数学や読解といった基礎学力の向上を促す効果がある と、数多くの実験が示唆している。  にもかかわらず、アメリカの多くの学校では、残念ながら慢性的な人手や予算の不足に苦し んでおり、子どもたち一人ひとりが本当に必要としている丁寧なサポートを十分に受けられて いないのが現実である。ほとんどの州では、特別な支援を必要とする子どもたちのための国の 法律さえ、きちんと守られていない。言うまでもなく、追加の費用なしで個別に勉強を見てく れる先生もいなければ、授業についていくのが難しかったり、言葉の壁にぶつかったりしてい る子どもたちを温かく支える体制も整っていない。こうした厳しい状況の中で、ベサルトのよ うに特別な助けを必要とする子どもたちは、いとも簡単にIそして、あまりにも頻繁に、社 会の片隅へと追いやられ、忘れ去られてしまうのである。  フィンランドには、どの子も、困った時にはいつでも個人的な手助けや専門家によるサポー トを受けられる仕組みがある。そして、そうした温かい支援の輪は、学校の責任者である校長 から始まっている。フィンランドの学校のりIダーたちは、ただ学校を運営するだけでなく、 子どもたち一人ひとりの学びの進み具合や、心と体の健やかな成長(ウェルビーイング)を温 かく見守り、それをしっかりと支える責任も担っているのだ。そればかりか、週に数時間は必 ず教壇に立ち、子どもたちに直接教えることも大切な仕事とされている。  カリ校長の正式な肩書きも、実は「主任教師」であった。カリ先生は、毎週何時間か三年生 のクラスを受け持っていた。その年は、ベサルトを自分のクラスに温かく迎え入れ、三年生た ちが日々の勉強に取り組んでいる間、傍らで彼のフィンランド語の読み書きの練習を根気強く 手伝った。時には、ベサルトに下級生のお手伝いをする役目を与え、人に教えることを通じて 自分も学ぶという「チューター効果」を上手に活かすこともあった。  こうした、一人ひとりに寄り添った丁寧な「足場」づくりは、たった一年という短い間にも、 ベサルトに大きな変化をもたらした。彼はフィンランド語をすっかり身につけて同級生に追い つき、自分も大きな目標を達成できる力を秘めていることに、自信を持って気づくことができ たのである。  翌年にベサルトが転校すると、カリは転校先の教師と定期的に連絡を取り合い、彼のその後 を見守り続けた。数年が経過し、ベサルトがカリのクリスマスパーティに姿を見せた。彼から 感謝の言葉と共にブランデーを贈られ、カリは誇らしげに顔を輝かせたという。ベサルトは 二十歳にして、既に一つどころか二つもの事業卜自動車整備会社、そして清掃会社jを経 営する若き起業家となっていたのだ。  支援は、トップダウンで始まるが、それだけで終わるわけではない。きめ細やかな支援体制 は、フィンランドの教育システムの隅々にまで組み込まれている。各教育機関には、児童生徒 が抱える心理的な問題や福祉面での課題に対処するための専門チームが存在する。通常、その チームは担任教師の他、心理専門家、ソーシャルワーカー、養護教諭、特別支援教育の専門教 員、そして校長によって構成される。カリがベサルトの抱える困難を知るようになったのも、 最善の支援方法を模索していたこの福祉チームの会議がきっかけだった。    「セーフティネット」が挑戦を支える  この支援システムは、いわば児童生徒一人ひとりのための社会的なセーフティネットといえ るだろう。児童生徒が学習に大きな困難を抱えていても、ほとんどの場合、安易に留年させる ことはない。無償で提供される個人指導は、児童生徒が道を踏み外すことなく前進し続けるた めの貴重な機会となる。そして、この支援を利用できるのは、緊急の対応を必要とする一部の 者だけではない。最初の九年間の学校教育の中で、フィンランドの児童生徒の約三割が、何ら かの形でこの特別な支援を受けるという。早期に問題点を発見し対応することにより、より深 刻で困難な問題の発生を未然に防ぐことができるのである。  予防的な対策を重視するこのシステムに目を向けるならば、北欧の隣国であるノルウェーが なぜ教育面でフィンランドに後れを取っているのか、その理由の一端が見えてくる。ノル ウェーの教育システムは、児童生徒が学習において最初のつまずきの兆候を見せたとしても、 早期にきめ細やかな介入を行なうことが少ないのである。アメリカでは、この状況を改善すべ く先駆的な取り組みを始めた州もある。アラバマ州とウェストバージニア州では、中学校から 進級したばかりで成績が伸び悩んでいた高校一年生に対し、集中的な早期介入プログラムを実 践したところ、高校の卒業率が向上したという報告がある。  フィンランドでは、秋に幼稚園が始まると、教員は保護者と面談の機会を持ち、その子ども に最も適した個別の教育計画を共に作成する。幼稚園の教員が、そのような時間を一体どう やって捻出できるのかと、不思議に思う読者もいるであろう。フィンランドは、ある特定の実 践によってこの課題に対処している。私か思うに、それはフィンランドの美味しいブルーベ リージュースと(ほぼ)同じくらい素晴らしい実践である。  フィンランドの学校生活で何か特別かと間われれば、それは授業時間数の多さよりも、むし ろその柔軟な時間割編成である。アメリカと比較すると、フィンランドの教師(そして児童 も)は、日々の休憩時間が合計で一時間長い。これによって精神的、時間的なゆとりが生まれ、 授業の計画や評価、あるいは自己の専門性を高めるための活動などに時問を有効に活用するこ とができ、結果として仕事を夜間や週末まで持ち越すことが少なくなる。これは、いわば教師 自身のための早期介入ともいえるだろう。仕事の負担が過度に集中するのを抑え、燃え尽き症 候群の予防にもつながる。  教員が活力を高く維持することで、教えることへの情熱も保つことができる。そうなれば、 新しくクラスに加わった児童を初日から手厚くサポートし、学ぶことへの興味や意欲を高める ための足場を丁寧に築くことも可能となるわけだ。学ぶことへの情熱は、児童がそれぞれの関 心事を見つけ出し、それをさらに深く掘り下げていくことができるような、配慮の行き届いた 環境の中でこそ育まれるものなのである。    最初の「情熱」に、いかに火をつけるか  「フィンランドの早期教育には、一体どのような特別な点があるのだろうか」と私が興味を抱 き始めたのは、ある記事の巧みな見出しに目を奪われた時であった。「喜びに満ちた、読み書 きのできないフィンランドの幼稚園児たち(原題I The Joyful。 1111terate Kindergarteners of Fin land)」。  この記事の著者はアメリカ人の小学校教師、ティムーウォーカーである。彼は、児童の意欲 を高めようと授業計画に心血を注ぐうちに燃え尽き症候群に陥り、再起を期して妻の故郷であ るフィンランドへ移り住んだ。  ヘルシンキに居を構え、新たな教職に就いたティムは、学校のおおよその様子を把握するた め、様々な授業風景を見て回った。ある公立の幼稚園(一年間の義務教育課程。小学校就学前 の基礎学校)を訪問した際、彼は自身の目を疑った。アメリカでよく見られるように、幼稚園 児たちが机に向かい、認知能力を鍛えるためのプリント学習に取り組んでいる光景を予想して いたからである。  近年のアメリカの幼稚園は、あたかも小学校一年生の教室のようになりつつある。アルファ ベットや単語の斟り、さらには算数の練習にまで多くの時間が割かれる一方で、子どもたちが 自由に遊び、恐竜や宇宙、絵画や音楽といったものに心を躍らせる時間は削られてしまった。 七年後の国際学力テストでトップの成績を収めたいならば、基礎学力は早期から徹底的に鍛え るべきだ、と多くの人が考えているからだろう。  ところが、ティムがフィンランドで目にしたのは、全く異なる授業風景であった。幼稚園児 たちが机に向かってアルファベットや綴り、算数の練習をするのは、一週間にわずか一日のみ である。各授業時間は最大でも四十五分間で、その後には必ず十五分の休憩時間が設けられて いる。これもまた、科学的根拠に基づいた実践の一つである。成人の場合と同様に、短い休憩 を取ることは子どもの集中力や学習効果を高めるのである。  フィンランドの早期教育では、子どもたちは時間のほとんどを遊びに費やす。例えば、月曜 日はゲームや近場への遠足、金曜日は歌や自由選択のコーナー遊び、といった具合である。午 前中にボードゲームで遊んだ後、午後にはダムづくりに熱中したり、輪になって歌を歌った後、 思い思いの自由遊びに興じたりと、幼稚園児たちが遊びから遊びへと生き生きと動き回る姿を ティムは観察した。砦を築く子もいれば、お絵描きや工作に没頭する子もいた。  教員が、いわゆる学習スタイルに応じて園児たちを指導することはない。むしろ、子どもた ちがそれぞれ自身の興味のある事柄を心ゆくまで追求できるよう、たっぷりと時間を与える。 これに対し、「どうして?」とアメリカ人ならば疑問を抱くだろう。なぜなら、「学習とは本来 楽しいものである」ということを子どもたちに教えるのが最も大切であると、フィンランドの 教育者たちは固く信じているからである。  フィンランドの教育者たちが抱く「学習とは本来楽しいものである」というこの信念は、単 なる理想論ではなく科学的な裏づけを持つ。イギリスで行なわれたある研究によれば、六歳の 時に学校生活を楽しいと感じていた児童は、十六歳になった時点で受ける標準テストにおいて、 より高い成績を収める傾向が確認された(これは、知能指数や家庭の社会経済的状況といった 他の要因を考慮してもなお、認められた傾向である)。そして、フィンランドの教師たちの間 でよく聞かれる「子どもの仕事は遊ぶこと」という言葉は、まさにこの「学習の楽しさ」を重 んじる信念を、端的に、そして見事に表わしていると言えるだろう。  アメリカでは、モンテッソーリ教育を実践する一部の学校で遊びが重視されている。一方 フィンランドでは、すべての小学校において、遊びを学習の基本基準とすることが義務づけら れている。フィンランド政府が子どもたちは遊ぶべきであると主張するのは、学びへの情熱は 遊びを通じてこそ育まれるものだと、政策立案者たちが深く理解しているからである。学びへ の情熱は、早期から丁寧に育むべきである。そうすることで究極的には、優れた認知スキルだ けでなく、豊かな性格スキルもまた、身につくようになるのだ、と。  ティムが訪れたフィンランドの幼稚園で、最も人気があったのはアイスクリーム屋さんごっ このコーナーであった。園児たちはおもちゃのお金を使って、アイスクリームに見立てたおも ちゃを売買する。レジスターを操作したり、注文を取ったり、お釣りを計算したりする中で、 簡単な足し算や引き算、そして言葉遣いを練習しながら、積極性や社会性をも学んでいく。  実際に、数多くの研究において、児童が特定の認知スキルや、自制心、意志力といった性格 スキルを身につけるためには、「デリバレイトープレイ」が、教師主導型の直接的な指導より も効果的であることが明らかとなっている。  そして周知の通り、フィンランドの生徒たちがPISAで素晴らしい成績を収めた背景には、 彼らが世界でもトップクラスの粘り強さを持っていたという事実があるのである。    成功がもたらす、予期せぬ「罠」  フィンランド国民は、さぞかし自国の教育システムを誇りに思っているだろう。数年前に同 国を訪れた際、私はそう期待していた。ところが、首相から教育専門家、そして一般の親たち に至るまで、会う人々のほとんどは、自国の教育の現状に対してむしろ批判的であった。私は 当初、これを北欧特有の謙虚さの表われだろうと解釈した。なぜなら、北欧社会には「自分を 特別な存在だと思うな」という暗黙の規範が存在すると、以前に耳にしたことがあったからで ある。  だが間もなく、彼らの抱く失望や不満には、もっともな理由があることを知った。フィンラ ンドのPISAの成績は、二〇〇九年の第四回調査から下降の一途を辿っていたのである。三 回連続で好成績を収めた後、数学、読解、科学の三分野すべてにおいて、その点数は低下して いた。  その後の三回のテストでも、点数は下がる一方たった。二〇一八年には、フィンランドは多 くのアジア諸国に追い抜かれただけでなく、ヨーロッパ諸国内においても第二位へと順位を落 とした。フィンランドを上回ったのは、バルト海を挟んで対岸に位置する小国、エストニアで ある。  エストニアは、一クラスあたりの生徒数が多く、しかも比較的少ない予算で運営されている にもかかわらず、毎年着実に順位を上げていた。二〇一八年には世界全体で第五位となり、学 校間および富裕層と貧困川との間の学力格差においても、世界で最も格差の小さい国の一つと なっていた。  エストニアの教育政策担当者たちは、フィンランドの教育方法を注意深く観察し、いくつか の優れた要素を自国に取り入れていた。小中学校の教員は、修士号を取得した有能な人材であ り、教育現場での大きな裁量権が与えられている。持ち上がり制が採用され、一年生の担任は、 児童が三年生、四年生、五年生、あるいは六年生になるまで連続して同じクラスを受け持つ。 つまり、学習に行き詰まっている児童生徒を安易に留年させるのではなく、きめ細やかに援助 するためのしっかりとしたサポート体制、そして遊びを学習の中核に据えた教育課程が組まれ ているのである。これらの取り組みがエストニアでも有効であるならば、なぜフィンランドは 突如として停滞し始めたのだろうか。  誤解のないように言えば、フィンランドの成績が低下したとはいえ、決して教育の質が悪化 したわけではない。実際、依然として世界の上位十カ国には入っており、学校間の成績格差や、 社会経済的背景による生徒の学力格差も、相変 わらず小さいままである。だが、どういうわけ か、生徒たちはかつての輝きを失い、道を見 失ってしまったかのようであった。  なぜフィンランドの生徒たちの成績が下がり 続けているのかI。この事態を受け、専門家 たちはすぐさま、調査に乗り出し、考えられる あらゆる原因を洗い出した。例えば、「生徒た ちがこれまでの成功にあぐらをかき、努力を怠 るようになったのではないか」とか、「二〇〇 八年に起きた世界的な経済危機の後、教育予算 が削られた影響が出ているのではないか」と いった疑念が出された。さらには、「フィンラ ンドの優れた教育方法を真似て力をつけ、フィ ンランドを追い抜いていった他の国々のやり方 がずるい」といった、他国への非難の声まで聞 かれるほどであった。  しかし、原因は他にあり、それを裏づける明 らかな証拠も存在した。それは、男子生徒や高校生の間で、学習意欲(モチベーション)が低 下していたことである。  報告によれば、二〇一八年のPISAにおいて、フィンランドの生徒の七割が「テストで最 善を尽くさなかった」と自己評価している。そして、このモチベーションの低下は、PISA 以外の調査でも確認された。フィンランドの生徒たちの克己心や向上心に関するスコアは、世 界の最低レベルにまで落ち込んでいたのである。学ぶことへの情熱が、いつの間にか失われて しまったかのようであった。この内発的なモチベーションを育むことこそが、フィンランドの 教育システムの中核であったはずなのに、である。機会を与える文化は、児童生徒がそれらの 機会を積極的に活用しようと動かない限り、真に成り立つことはないのである。    人は「遊ぶ」ように学ぶ時、最も伸びる  フィンランドの政策立案者や教育者たちは、困難な状況に直面しても、自らが信じる教育の 価値観を手放すことはなかった。PISAの成績が低下した際も、目先の順位を引き上げるた めだけの小手先の対策を性急に導入するようなことはしなかった。その代わりに、児童生徒た ちの学習意欲をいかにして高めるか、そのための新しい指導方法を粘り強く模索し、実験を始 めたのである。  人は、自身の関心事を深く掘り下げる機会に恵まれることで、学びへのモチベーションを見 出すことができると、広範な研究が示している。そこで、フィンランドの教育政策を担う人々 は、子どもたち一人ひとりが「自分自身が学びの主人公である」という確かな手応えを感じら れるように、様々な工夫を凝らした教育プログラムを開発し、実践していった。  その実践の一つとして、小学六年生が自分たちの手でミニチュアの都市を運営するという、 大規模なプロジェクトが実施された。子どもたちは、地域の銀行を管理したり、食料品店を切 り盛りしたり、医療クリニックを監督したりといった役割を担い、疑似体験を通じてビジネス や経済の仕組みを学んだ。自分たちで新聞を発行するグループもあれば、自治体を率いる子ど も市長も誕生した。プロジェクトの終わりには、その子ども市長が二人の特別な賓客を迎え入 れるという大役を見事に果たした。その賓客とは、他ならぬスウェーデンの本物の国王と王妃 であった。  スウェーデン国王夫妻は、フィンランドの新しい教育プログラムの一つであるこの「ミー& マイシティ」を視察するために、その街を訪れたのであった。この革新的な取り組みは、教育 におけるイノベーションと起業家精神の育成が評価され、国際的な賞を獲得した。これは、 「デリバレイトープレイ」が年長の児童においても極めて有効であることを示す好例といえる だろう。言うなれば、先に紹介した幼稚園でのアイスクリーム屋さんごっこの、小学生版であ る。児童は、白身の興味をかき立てる職業に自ら申し込み、希望する仕事を得るために教師に よる面接を受ける。  「ミー&マイシティ」は子どもたちの心を掴み、今ではフィンランド国内の小学六年生のほと んどが、この特別なプログラムを体験する。この取り組みがこれほどまでに教育効果を上げる 理由は、何と言っても、子どもたち自身が学びの主人公となり、すべてを自分の意志で進めて いける点にある。それぞれの役になりきるために、何週間も前から目を輝かせて準備に取り組 み、その役割をどう演じるか、どんな未来を描くか(ビジョン)、そして得たお金をどう管理 し、周囲からの信頼をどう築いていくかまで、すべて子どもたち白身の判断と工夫に任される のだ。給料は電子マネーで支払われ、クラスメイトのお店で商品を買ったり、サービスを利用 したりする際には、専用の銀行カードでやり取りする。  「ミー&マイシティ」においては、教師が子どもたちを無理に参加させたり、ご褒美で気を引 いてやる気を起こさせたりする必要は全くない。なぜなら、子どもたちの「やってみたいI・」 という意欲は、誰に言われるでもなく、自分自身の心の中から自然と湧き出てくるからである。 そして、そのようにして生まれたモチベーションは、一過性のものではなく、長く持続する可 能性が高い。実際に、このプログラムを体験した子どもたちは、単に経済の知識を身につけた だけでなく、社会の仕組みや経済の動きそのものに対して、より深い興味と関心を持つように なった、という初期の調査結果も出ているのである。  児童の内発的なモチベーションを高めるために、フィンランドの学校が他にどのような工夫 を凝らしているのかをさらに調査するため、私は再びカリーロウヒヴォリを訪ねた。現在、彼 は娘のネリと共に、フィンランドの創造教育評議会の委員を務めている。ネリは子どもたちか ら深く慕われている小学校教師であり、教育アドバイザーとして、フィンランドの教育実践を 世界中の学校へ導入するための指導も行なっている。ロウヒヴォリ親子は、私を温かく家族の 集まりの場へ招き入れてくれた。  ロウヒヴォリ親子によると、体験学習プログラムは非常に有望であるが、その他にも、内発 的なモチベーションを引き出すための効果的な方法が数多くあるという。「読むこと、これは すべての教科に通底する、学びの基礎となるスキルです」とカリは説明してくれた。「読むこ とへのモチベーションがなければ、どんな教科も真に学ぶことはできません」。読むことへの 意欲を育むことは、結果として、個々の知的好奇心そのものを豊かに育むことにつながるので ある。    読書という「可能性へのパスポート」  読書への情熱というものは、多くの場合、家庭の中で芽生える。フィンランドーリーディン グーセンターが近年行なった調査では、大半の親が我が子への読み聞かせが十分にできていな いと感じている実態が明らかになった。そこで、同センターは、国内のすべての新生児に対し、 絵本の詰まった袋を無料配布するという活動を始めた。  家を本で満たすことは、読書へのよいきっかけになるかもしれないが、それだけでは不十分 だと心理学者たちは指摘する。子どもに読書を楽しんでもらいたいと願うならば、親は本が生 活の一部になるような習慣を日常の中で意識してつくり上げなければならない。これを実現す るためには、例えば食事の時や車での移動中に本について話したり、親子で図書館や書店を訪 れたり、本を贈ったり、親が読書しているところを見せたりするのも一つの方法である。子ど もというのは、親が関心を寄せている事柄に、自然と関心を寄せるものだ。親が何かに注目し ているのは、それが価値のあるものだからだと、子どもは認識するのである。  娘のエレーナが幼稚園児たった頃、「なぜパパは本を読まないの?」と私に尋ねたことが あった。しかし、私の書棚は本で溢れている。本を書く人間が本を読まないなどと、どうして 娘は思ったのだろうか。それは、あたかも俳優が映画を観ないとか、画家が美術館へ行きたが らないとでも言うようなものだ。私は(ツと気づいた。娘は私が実際に本を読んでいる姿を見 たことがなかったのだ。私は子どもたちが寝入った後に、自分の寝室で本を読んでいたのだ。 次の日の夜、「ハリー・ポッター」の第一巻を一緒に読み始めようとエレーナを誘った。そこ へ長女も加わり、私たちは数ページごとに交代で声に出して読み、一冊を最後まで読み終えた。 数年が過ぎ、やがて子どもたちは家族内でブッククラブを結成した。彼らが面白い長編シリー ズを発見すると、私と妻のアリソンも読み、家族皆でその本について語り合った。ある夜、就 寝時問から一時問ほど過ぎた頃、子ども部屋にまだ電気がついており、我が子三人が、こっそ りベッドに本を持ち込んで読みふけっているのを見つけた。私は喜びを隠しきれなかった。  読むことは、新たな機会への道を切り開く。 読解力がつけば、子どもたちは生涯学び続ける ことができるのである。しかし本は、テレビや ビデオゲーム、そしてソーシャルメディアと いったものとの激しい競争に直面している。 二〇〇〇年と比較すると、二〇一八年には、 フィンランドの平均的な十代の若者が一年間に 娯楽としての読書に充てる時間は、七十七時間 も減少したという。これはフィンランドの子ど もたちだけの問題ではない。アメリカにおいて も、児童生徒の読書への関心は年々薄れてきて いる。高校へ入学する頃には、生徒たちの読書 に対する態度は、概して無関心か、全面的に嫌 悪しているか、あるいはその中間である。  英文学の授業における最大の失敗の一つは、 生徒たちが興味をそそられる本を自分自身で選 ぶ機会を与えるのではなく、「古典」文学を辛 抱強く読むよう強いることである。  研究でも明らかになっているように、生徒は授業で読む本を自分で選ぶ機会を与えられた時、 読書に深く傾倒するようになる。これは好循環を生み出す。読書が楽しくなるほど理解力は深 まり、読書がより一層好きになる。そして、読書が好きになればなるほど、学ぶことへの意欲 も高まり、学業成績も向上するのである。  教師の役割とは、生徒たちが古典名作を読み終えるよう仕向けることではない。むしろ、読 書に対する知的な興奮をかき立てることなのである。  フィンランドの小学生が読書への意欲を失っているのを見て、ネリーロウヒヴォリは一風変 わった休み時間を考案した。毎週月曜日、児童たちを「図書館での休み時間」と称する校外活 動へ連れ出したのである。読むべき本のリストは用意せず、各自が自分で好きな本を選んでよ いとした。  子どもたちが図書館の職員と親しくなるにつれて、職員は彼らの興味の対象を把握するよう になり、関連する新刊が入荷すると、それらを紹介するために学校を訪れるようになった。そ の週に読む本を自ら選んだ後、児童は読む場所も自分で決めることを許された。これはすぐに クラスの習慣となり、皆で本を抱えて学校近くの森へ行き、それぞれが思い思いの木陰で読書 に耽るようになった。  ネリは年間を通じて、好きな本について何かを書くよう児童たちに勧めた。とはいえ、これ は読書感想文のような、長々とあらすじを書き、教師に提出するといった課題ではない。「そ のような方法では、子どもたちのやる気はなかなか湧きません」とネリは言う。クラス全体が 参加し、活発な対話が生まれる活動にするため、誰かが何らかの本に熱中している時には、そ の児童を中心とした読書報告会が開かれた。これもまた、クラスの習慣として定着した。あっ という間に、ネリのクラスは新進気鋭の書評家たちで満ち溢れるようになった。  読書は、どの国においても、また、いかなる分野においても、ほぼすべての子どもの学びを 促進する原動力となる。何を学び、何を他の人々と分かち合うのかを自ら選ぶ機会に恵まれる 時、私たちの興味は増幅される。「やる気」というものは伝染するのである。子どもたちは、 自らの想像力をかき立てる本について語ることにより、なぜその本が好きなのかがより明確に 理解できるようになる。同時に、その熱意を感じる機会を他の人々に与えるのである。    最高の「知性」を育むキーワード  これらの方法が果たして、学習への喜びを生み出し、継続させるかどうかは、時が経てば自 ずと明らかになるだろう。しかし、フィンランドが教育における多くの重要な側面で、依然と して他国が学ぶべき手本を示している事実に変わりはない。その教育に対する価値観は無論の こと、私かとりわけ敬服するのは、フィンランドの文化が、「目先の成果」よりも「心身の健 やかなあり方」(ウェルビーイング)に重きを置いている点である。  今日、エリート教育が盛んに行なわれる中で、子どもたちは優秀な成績と引き換えに、心の 健康を損なっている。アメリカでは、エリート高校の生徒がうつ病や不安障害を患う確率は、 全国平均の三〜七倍にも上るという。中国の生徒は、二〇一八年にPISAでトップの成績を 収めたが、人生の満足度に関する調査では、世界のワースト十カ国に入るほど評価が低かった。 完璧であることを求めるプレッシャーと、長時間の勉強がもたらすストレスとの狭間で、中国 人学生の過半数が時折、あるいは常に憂うつな気分に苛まれ、四分の三が時折、あるいは常に 悲観的な思いに囚われているという。  これとは対照的に、フィンランドでは、憂うつな気分になる高校生は三分のIもいない。そ して悲観的になるのは半数以下であるという。テストで高い得点を獲得する一方で、宿題にか ける時間は一週間で平均わずか二・九時間。これは、典型的な中国の生徒が、一日の宿題に費 やす時間よりも少ないのである。二〇一八年のPISAにおいて、一時間の勉強に対する学習 成果で、フィンランドは七十七カ国のうち第一位であった。要するに、進歩を測る重要な指標 である学習効率性において、世界最高水準なのである。  どうすればフィンランドのようになれるだろうか。その成功要因は複雑に絡み合っており、 単純明快な処方箋として示すことは未だできていない。質の高い教授法。より深い学びを促す 内発的なモチベーション。ストレスやテスト不安の少なさがもたらす集中力の向上。そして、 早期に培われた性格スキルの効果。おそらく、これらすべての要素が複合的に作用し、彼らの 成功を支えているのだろうと、多くの専門家は考えている。  現時点で間違いなく言えるのは、フィンランドが子どもの成長を支援することにおいて、世 界で最も優れた国の一つであるということだ。子どもの貴重な時間を過度に奪うこともなけれ ば、心身を極限まで追い込むことも、学校嫌いを助長することもない。おそらくフィンランド 人の根底には、よい成果を得るために、心身の健康を犠牲にするのは誤りであるという、揺る ぎない信念が存在するのだろう。  教育システムが真に成功したと言えるのは、すべての子どもがIその社会的背景や経済状 況にかかわらずI内に秘めた可能性を開花させる機会を得た時である。学校とは、子どもた ちがより大きな目標を達成するための場所なのである。そして、学校教育を構築するとは、成 績上位の限られた子どもだけをエリートとして育成していくことではない。むしろ、すべての 児童生徒が知的に、そして心豊かに成長する機会に恵まれる文化を発展させることなのである。       他の誰かの目がまわりを見まわして、       私の見つけられなかったものを見つけるだろう。                   マルヴィナーレイノルズ(フォーク歌手) 「集合知」を、いかにして生み出すか I一人ひとりの個性というチームの「武器」  岩や土砂が頭上から降り注いでくるのを目の当たりにした瞬間、男たちは身を守るため一斉 に駆け出した。それが直接見えなかった者も、轟音で危険を察知した。不気味な低い地鳴りが 次第に大きくなり、何かが砕け散る凄まじい音が耳を劈いた。突風が一人を地面に叩きつけ、 もう一人を宙へと吹き飛ばした。男たちはそれでも立ち上がり、必死に避難場所を求めて走っ た。  岩石が飛び交い、視界も聴覚も著しく妨げられる極限状況の中、男たちは生きてここから出 られないかもしれないという恐怖に襲われた。その時、一台のピックアップトラックがこちら へ猛然と突進してくるのを見つけ、彼らはそれに文字通り飛び乗った。トラックが二度も何か に衝突しても、男たちは必死にしがみついた。道の突き当たりに到達した時、ようやく窮地を 脱したかのように思えた。しかし、現実はそう甘くはなかった。男たちは、地下七百メートル という深さに閉じ込められてしまったのである。  これは、二〇一〇年八月、チリの砂漠地帯にある銅と金を産出する鉱山で発生した落盤事故 である。四十五階建てのビルにも匹敵する巨大な岩塊が鉱山内部から崩れ落ち、坑内へ通じる 唯一の出入り口が、七十万トンもの岩石によって完全に塞がれてしまった。閉じ込められたの は、三十三人の鉱山作業員であった。当時、彼らが生存している確率は、一パーセントにも満 たないと予測されていた。  そうした極めて厳しい予測にもかかわらず、事故発生から六十九日が経過した日、三十三名 の鉱山作業員全員が、無事に地上へと生還し、待ちわびる家族との再会を果たした。これは、 過去に例を見ない、まさに奇跡と呼ぶべき救出であった。地下数百メートルという過酷な環境 に閉じ込められた被災者が、これほど長期間生存した記録は、それまで存在しなかったのであ る。  救出用カプセルから最初の作業員が姿を現わした時、私の胸には言葉にできないほどの喜び と安堵が広がり、自然と涙が頬を伝った。この歴史的な救出の模様は世界中に生中継され、両 面の向こうで、私と同じように安堵の涙を流した人々も少なくなかっただろう。当時のニュー ス報道のほとんどは、想像を絶する極限状態の中、彼らがいかにして生き永らえたのか、その 一点に集中していたように記憶している。  しかし、事故から数年の時を経て、私はある重要な認識を得るに至った。それは、一個人の 力では到底不可能な偉業を、集団の力でならいかにして成し遂げることができるのか、その実 践的な教訓を、実はあの救助チームの献身的な活動の中にこそ見出すことができる、というこ とだ。  救助チームが立ち上げられたまさにその時、地下に取り残された鉱山作業員たちの生死は、 全く不明たった。彼らの安否を確かめる手段など、地上にはどこにもなかった。鉱山の内部構 造を示すはずの地図は、不備が多く、最新の状態とは程遠い。救助チームは、文字通り「目隠 しで岩盤を掘り進む」という、あまりにも心許ない作業を強いられた。それは、エッフェル塔 の倍の高さに積まれた干し草の山の中から、ただ一本の針を探し出すようなもので、ほとんど 不可能に近い挑戦であった。作業貝たちがどこにいるのか、そして、命綱となる巨大なドリル をどの方向へ向ければいいのか、すべては推測に頼るしかなかった。地表でのほんの僅かな角 度のずれが、地下では数百メートルもの致命的な誤差を生む。常にそんな綱渡りのような状況 だったのである。  十七日目、救助チームにかすかな希望の光が見え始めた。避難場所と推定されていた辺りに、 ドリルの一つがようやく到達した時、鉱山作業員たちへ合図を送るため、作業員はドリルを( ンマーで叩いた。すると、地下から何かを打ち返すような微かな音が聞こえてきたのである。 そしてドリルを逆回転させて地上へ引き上げたところ、その先端には鮮やかなオレンジ色のペ ンキが付着し、さらに一枚の紙片が括りつけられていた。閉じ込められた三十三人全員が無事 であることが、その紙片に力強い手書きの文字で記されていた。万が一、紙が途中で外れたり 破れたりした場合に備え、鉱山作業員たちは自らの生存の証として、ドリルの先端にペンキを 吹きつけたのだ。  しかし、その時には既に、鉱山作業貝たちは心身共に限界に近づいていた。備蓄食料は底を 突き始め、彼らはかろうじて地下で確保した水を飲み、二囗おきに缶詰のマクロを一人一口ず つ分け合って飢えをしのいでいた。救助チームは時間を稼ぐため、新たな落盤を引き起こさな い程度の小さな穴を二つ掘削し、一方からは食料と水を、もう一方からは酸素と電力を供給し  しかし、まだ解決すべき根本的な問題が残っていた。一体どうやって、人間が通れるほどの 大きさの穴を掘り進めるのか。地下七百メートルという深さ、花崗岩よりも哽い岩盤、そして 何よりも、鉱山作業員たちを生き埋めにすることなく安全に錮り進めるという、前代未聞の難 題である。このような救助活動は、成功例はおろか、かつて試みられたことさえなかった。  一筋縄ではいかず、しかも待ったなしの対応が求められるような難題に直面し、自分一人の 力では到底、太刀打ちできないと悟った時、多くの人は、その分野で右に出る者はいないとさ れる専門家を選び出そうとするだろう。彼らに解決を依頼することこそが、何よりも重要な決 断だと考えるからだ。そして、これぞという専門家が見つかれば、あとは彼らの手腕にすべて を委ね、事の成り行きを見守る。  だが、チリの現場で救助の指揮を執ったりIダーたちは、そのような常道を選ばなかった。 彼らは、選りすぐりの専門家だけで固めたエリートチームの力だけに頼ることをせず、むしろ、 思いもよらないような立場の人々も含め、多種多様な人間の持つアイデアと知識を結集し、そ れを活かしきるための仕組み(システム)を、粘り強く築き上げていった。  例えば、地下深くに閉じ込められた作業員たちと最初に音声で連絡を取ることを可能にした のは、誰にも知られていない、いわば無名の起業家が、たった十ドルほどの費用で開発した、 ごく単純な装置だった。そして、救助チームの主要メンバーでさえなかった二十四歳の若いエ ンジニアが、次々と型破りな提案を行なったことが、最終的にあの奇跡的な救出劇を現実のも のとしたのである。  集合知(集団的知性)を最大限に引き出すには、個々の専門家に協力を求めるだけでは不十 分である。ただ多くの人間を集めさえすれば、問題が解決するというものでもない。集団が内 に秘めた可能性を真に解き放つためには、優れたりIダーシップやチーム内の良好な協調関係 はもちろんのこと、メンバー全員の能力と貢献を最大限に活かすことのできるシステムが必要 なのである。最良のチームとは、最も優秀な頭脳の寄せ集めではない。むしろ、一人ひとりが内 に秘めている最高のアイデアを掘り起こし、それを結集して活用できるチームなのである。    なぜ才能ある個人が集まっても、失敗するのか?  どうすれば集団は一致団結して困難を乗り越え、より大きな川標を達成できるのだろうか。 私がそのように考え始めたのは、大学三年生の頃たった。「心理学 八‥三〇AM」−この 愛称で呼ばれていたコースを受講したのがきっかけで、私は組織心理学の世界にのめり込んで いった。噂によれば、最も意欲的な学生だけを集めるため、教授はあえて講義を早朝の時間帯 に設定したのだという。  講義の初日、私は早めに到着したにもかかわらず、講義室は既に多くの学生で埋まっており、 肝心の教授の姿は見当たらなかった。ふと窓の外へ目をやると、やや粗末な身なりの男性がこ ちらへ向かってくるのが見えた。プロのバスケットボール選手のように大柄なその人物は、パ イプを片手に、もう一方の手に抱えたノートの束に目を通しながら、行ったり来たりしている。 やがて、その男性はのっしのっしと講義室へ入ってくると、講義概要(シラバス)の説明もそ こそこに、唐突に受講生たちへこう告げた。  「自分は、我が国を救うことができなかった」  その囗は、二〇〇一年九月十三囗。そう、アメリカが同時多発テロに見舞われた九・一一の 二日後だ。  その教授の名前は、リチャードー(ツクマン。チームに関する研究では世界で右に出る者は いないと言われる第一人者だ。飛行機のパイロットチームから、病院の医療チーム、オーケス トラまで、ありとあらゆる組織のチームを対象に、半世紀近くにもわたり研究を重ねてきた。 そして、その研究が明らかにしたのは、ほとんどの場合、チームというのは期待通りに機能せ ず、目標を達成できないまま終わってしまう、という残念な現実であった。  (ツクマンは、こう語る。  「むしろ、チームワークなんてものは、悪夢で終わることのほうが多いんじやないかな。学校 のグループ課題で、そんな経験をした人もいるだろう?」  古代ギリシヤの哲学者アリストテレスは、「全体は部分の総和に優る」と説いた。しかし、 (ツクマンの研究が示したのは、皮肉にも、ほとんどのチームが、個々のメンバーの能力を単 純に足し合わせた力にさえ及ばない、という衝撃的な事実だったのである。  当時、リチャードー(ツクマンは長年にわたり、アメリカの国家安全保障を担う主要な情報 機関で、組織間の連携(コラボレーション)をいかに強化し、その機能を向上させるかという 極めて重要な研究に従事していた。  皮肉なことに、「旅客機が「イジャックされ、大量破壊兵器として使用される」という悪夢 のような危険性について、現場の情報分析官たちは既にその兆候を掴み、繰り返し警告を発し ていた。しかし、情報機関の上層部が、その切迫した警告を深刻に受け止めることはなかった。  もし、(ツクマンの研究が、「情報機関の連携不全」という構造的な問題をもっと早く解明 し、具体的な改善策を提示できていたならば、あの九月十一日の未曾有の悲劇は、あるいは防 ぐことができたのかもしれない。    「チーム全体のIQ」を上げていく決め手  その後の数年間、(ツクマンは有能な弟子の一人であったアニターウーリーと共に、チーム が持つ集合的な知力、すなわち「チームの知性」を高める方法について研究を重ねた。  やがて、アニタと同僚の研究者たちは画期的な発見をする。チームが個人の能力の総和を超 えるためには、何か不可欠であるかを突き止めたのである。  アニタが特に心を惹かれていたのは、「集合知」という考え方だった。それは、一人ひとり の知恵を結集し、集団として問題を解決していく力のことである。彼女と同僚の研究者たちは、 様々な個性を持つチームを対象に、他に先駆けて興味深い研究に着手した。彼らが注川したの は、分析的な思考力が問われる課題や、独創性が求められる課題など、多種多様なテーマに対 し、それぞれのチームがどれほどの成果を上げるかだった。  それは、あたかも「チーム全体のIQテスト」とでも呼ぶべきものだった。メンバー個々の 得意分野と課題の性質がうまく噛み合えば、チームとしての総合的な知力(集合知)は高まる に違いない、と私は当初考えていた。  例えば、言語能力に長けたチームが言葉の暗号解読に優れ、数学の達人集団が幾何学の問題 で群を抜き、積極的な人々が集まるグループが戦略立案と実行で卓越した成果を上げるといっ たことを想像していたのである。だが、私の推測は誤っていた。  実験の結果は意外なものであった。ある種のグループが、どんな種類の課題を与えられても、 常に他のグループよりも優れた成績を収めたのである。研究者から出される問題が何であろう と、そのグループは決まって高い成果を上げたのだ。私は最初、きっとそのグループにばずば 抜けて頭のいい人ばかりが集まっていたのだろう、と単純に考えた。しかし、集まったデータ を詳しく調べてみると、チーム全体の賢さ(集合知)と、メンバー一人ひとりのIQの高さと の間には、何の関係もないことがはっきりとわかった。  つまり、最も賢いチームというのは、必ずしも最も賢いメンバーで構成されているわけでは ない、ということが明らかになったのである。  大きな成功を収めるためにチームには何が不可欠なのか、それを解明する糸口をこれらの初 期研究が見出したことにより、科学者の間で「集合知」への関心は急速に高まった。アニタと 同僚研究者たちは、二十二の研究を対象としたメタ分析を行ない、集合知は個々の認知能力で はなく、むしろ向社会的なスキル(他者への配慮や協力する力)に大きく左右されることを発 見した。つまり、最高の成果を上げるチームとは、メンバー一人ひとりが優れているだけでな く、最も多くの「真のチームプレイヤー」を擁するチームなのである。ここで言うチームプレ イヤーとは、単に集団に属しているというだけでなく、互いの意見に真摯に耳を傾け、建設的 な対話を重ね、仲間と協力して共通の目標達成に貢献できる、そんな協調性に優れた人材のこ とである。  真のチームプレイヤーになるとは、単に集団の一員として、ただ一緒に作業をこなすことで はない。また、常に周囲の意見に安易に同調したり、あるいは逆に、一方的に協力を強いたり することとも異なる。むしろそれは、チーム全員が共有する目標を深く理解し、メンバーそれ ぞれが持つ異なる能力や強みを活かし合い、互いの弱点を補いながら、チーム全体の力を最大 限に高めていく、そうした姿勢と行動なのである。  無論、チームに一人や二人の博識な専門家がいれば、それは大きな力となるだろう。しかし、 その専門家の価値がチーム内で正しく評価されなかったり、メンバーが個人の成果ばかりを追 い求めたりするようでは、せっかくの知識も宝の持ち腐れとなりかねない。「一個の腐ったり んごが樽全体のりんごを駄目にする」という古くからの格言があるが、これはチームワークに おいても真実である。すなわち、他者への配慮や協力といった「向社会的な行動」を取れない 人間がたった一人いるだけで、チーム全体の力は驚くほど簡単に低下してしまうのである。  腐ったりんごの例として、北米のプロバスケットボール界(NBA)に関する研究を紹介す る。NBAで、自己中心的あるいはナルシシストとして際立つ選手は、往々にして向社会的な スキルに欠けていることが多い。心理学者は、選手のTwitter (現・X)のプロフィールに基 づいて、ナルシシズムの度合いを判断した。  例えば、「俺ってすごくないか? シャツが見つからないんだ。自分の姿を鏡で見ると、と んでもなく凄いヤツが映っている。俺が一番残念に思うのは、自分のプレイを生で観戦できな いことさ」といった具合のポストをしている選手はナルシシズム度が高い、といった具合にで ある。  研究の結果、多くのナルシシスト、あるいは極度のナルシシストが一人でもチームにいると、 そのチームはアシストパスがより少なく、勝率も低いことが明らかになった。また、シーズン を通じて、チーム全体のパフォーマンスを向上させることもできなかった。特に。ポイント ガード(ボールを運び、チームに指示を出す司令塔の役割)のナルシシズム度が高い場合、そ の傾向は一層強まった。ナルシシストは、ボールを独占する傾向がある(このタイプの選手は 「ボールホグ」と呼ばれる)。そして、最も過小評価されがちなのが、実はチームの仲間を献身 的にサポートし、得点につながるプレイをしている選手なのである。  チームメンバーが向社会的なスキルを持つ場合、互いの最良の部分を引き出し合うことがで きる。互いの長所を認め合い、それを最大限に活かすための戦略を構築し、共通の目標へ向かっ て互いのモチベーションを高め合いながら協力する時にこそ、真の集合知は生まれるのである。  集団が秘めている可能性を解き放つ鍵は、最強の個人を集めることではない。むしろ、それ らの個人を固く結びつける、最強の「接着剤」にあるのである。    「協力」の文化を、いかにして築くか  他者と協力し、集団の利益のために行動する能力や姿勢である「向社会的なスキル」とは、 いわばチームを一つにまとめる「接着剤」のようなものである。単なる個人の集まりが真の チームへと変貌を遂げるためには、メンバーそれぞれがバラバラに行動するのではなく、仲間 との固い結束を築き上げなければならない。  私たちは「結束力」とか「団結力」と聞くと、メンバー間の感情的なつながりの強さを想像 することが多く、その結果として、チームビルディングや親睦を深めるための活動を過大に評 価しがちである。確かに、アイスブレイクのためのゲームや、共同で困難な課題に取り組む( イロープコース(樹上アスレチック)といった活動は、仲間意識を育むかもしれない。  しかし、数多くのメタ分析が示しているように、そうした活動が必ずしもチーム全体の成果 向上に直結するわけではない。最も重要なのは、設定された重要な課題を成功させるためには、 互いの存在が不可欠であると、メンバーの一人ひとりが深く認識することなのである。これに よって、共通のアイデンティティを基盤とした結束が強まり、チームが一丸となって共通の目 標達成へ向かうことが可能となる。  このような結束の強さを見せたのが、海軍士官訓練を最高の成績で修了した、かの「黄金の 十三人」たった。そして、この結束力こそが、米国の情報機関の多くの部署に欠けていたもの であると、リチャードー(ツクマンは最終的に結論づけた。  (ツクマンの研究によれば、ほとんどの情報分析官は特定の部署に配属されてはいたものの、 単に個別の任務を割り当てられていただけに過ぎなかった。彼らが共有していたのは、せいぜ い上司と、休憩室のウォーターサーバーくらいのものだった。情報や見解を活発に交換し合っ たり、互いに指導し合ったり、あるいは互いから学び合ったりすることは、ほとんどなかった。 互いに報告書を送るのも形式的な業務処理であり、課されたノルマをこなしているに過ぎな かったのである。  ただ人を集めさえすれば、自動的に機能するチームが生まれるわけではない。しかし、あの 九月十一目の悲劇のような事態を未然に防ぐ、あるいは危機に効果的に対処するためには、優 秀な情報分析官の一人ひとりが、いかにすれば真の「チーム」として機能し得るのかI。リ チャードー(ツクマンは、その可能性と具体的な方法論を、その後の研究と実践を通じて示そ うとした。  彼が提唱し、あるべき姿として描き出したチームでは、分析官たちは個人の功績ではなく、 集団全体の成果によって評価される。明確な共通の目標に向かって団結し、それぞれの適性に 応じた役割を担う。そして、チームの成果は一人ひとりの貢献にかかっているという強い自党 のもと、定期的に知識を共有し、互いに指導し合うのである。このような連携が実現すること で、新たな情報がもたらされたり、状況が急変したりした際、分析官たちはあたかも一つの大 きなスポンジのように、情報を柔軟に吸収し、的確に吟味し、そして迅速に状況に適応するこ とが可能となるのだ。    「饒舌」と「建設的な話し合い」は似て非なるもの  結束力を高めるにあたって、リーダーが果たす役割は極めて重要である。独立した個人の集 まりを、互いに能力を補完し合いながら向上していくチームへと変えるために、影響力を行使 するのはリーダーなのである。しかし、非常に多くの場合、私たちはチームの舵取り役を選ぶ 際、この「接着剤」としての要素を考慮に入れることを忘れがちである。  リーダーを選出する際には、統率能力が最も高い人物を選ぶべきである。ところが、たいて いの場合、私たちが選んでしまうのは、最も多弁な人物なのである。この現象は「饒舌仮説」 と呼ばれる。研究によれば、能力や専門知識の有無とは無関係に、最も話が長い人間が有力な リーダー候補となる傾向があるという。私たちは、自信に満ちた人物を有能な人物であると、 確信に満ちた言葉を信頼できる言葉であると、そして多弁を優れた資質であると、誤って解釈 しがちなのだ。その結果、建設的な話し合いを促進する人物ではなく、一方的に話し合いを独 占する人物に、私たちは導かれる羽目になる。  多弁であること以外にも、能力がないにもかかわらずリーダーとして起用されてしまう人々 がいる。最悪なのは、やたらと自己主張が強く、チームワークを軽んじる、いわゆる「ボール ホグ」(バスケットボールでボールを独占する選手)のような人間である。多くの場面で、向 社会的なスキルが最も低く、自己中心的なエゴが最も強い人物が、最終的に実権を捩り、チー ムや組織全体に甚大な悪影響を及ぼしている。メタ分析で、ナルシシズムの傾向が高い人物ほ ど指導者の地位に就くことが多く、しかもリーダーシップ能力は低い傾向にあることが明らか となった。そのような人は、利己的な決定を下し、成功のための明確なビジョンを示さず、冷 酷な行動を助長し、チームの結束力や協調性を著しく低化させるのである。  集合知は、自己中心的な人物や、ただ多弁なだけの人物とは異なるタイプのりIダーのもと で、最も効果的に発揮される。リーダーとして真に適任なのは、向社会的なスキルを持ち合わ せ、個人的なエゴよりもチームの目標達成を、そして自らの成功よりもチーム全体の結束を最 優先する人物である。そのようなリーダーは、白身が一番賢いのだと誇示することではなく、 チーム全体をより賢明な集団へと高めていくことこそが、自らの使命であると心得ているので ある。    リーダーの「傾聴力」が最大限に活かされる時  チリの鉱山落盤事故から数日が経過しても、現場は依然として全くの混乱状態にあった。複 数の警察部隊に加え、鉱山の専門家たち、消防隊員、救助隊員、さらにはロッククライマーま でもが駆けつけていた。技術的な可能性を分析する地質学者やエンジニアたちもいれば、闇雲 に六種類ものドリルを配備しようとする採鉱部隊もいた。有能な人材は集まっていたものの、 彼らの知恵を効果的に結集できるような、結束力のあるチームとは到底言えなかった。事故発 生から四目目、チリ大統領はある人物を、この未曾有の事態の収拾にあたるリーダーに任命す る。  突然の要請を受けたアンドレーソウガレットは、後に当時を振り返り、「まるで誘拐された ような気分だった」と語っている。鉱山技師としてチリで二十年以上の経験を積んだ後、アン ドレは世界最大の地下鉱山の管理を任されていた。大統領公邸へ出頭するよう緊急の要請を受 けた時は、事故現場から南へ約九百五十キロメートル離れた場所で働いていた。鉱山用ヘル メットを被ったまま大統領専用ジェット機に乗り込むと、上空で命令が下されたIコピアポ 鉱山に閉じ込められた三十三人を無事救出するミッションを指揮せよ、と。  それは時間との闘いだった。人命がかかっている以上、一秒たりとも疎かにはできない。そ のような重圧がのしかかる時、私たちの多くは、集団の体制と秩序を力強く構築してくれる、 鬼軍曹のようなリーダーにすがりたいと願う。  しかし、人々が既に強い意志と目的意識を持っている場合、厳しい命令を下すだけのリー ダーは必ずしも必要ではない。研究によれば、人間関係よりも結果を重視する文化においてさ え、メンバー一人ひとりを大切にするリーダーがいれば、組織はより大きな成果を上げること ができるという。一刻も早い救命のために誰もが必死で奮闘しているような状況下では、皆を 温かく気遣い、その力を最大限に引き出してくれるリーダーこそが望まれるのである。  才能は重要だが、それだけでは十分ではない。アンドレは確かに技術的知識が豊富なことで 高い評価を得ていたが、それは他のリーダー候補者においても同様であった。彼が他の候補者 よりも際立って優れていたのは、その向社会的なスキル、すなわち他者と協力し、共感する能 力であった。チームの総合力を最大限に引き出すその手腕を買われ、彼はリーダーに抜擢され たのである。  「彼は非常に忍耐強い人間だ」と、アンドレを推薦したある政府高官は言った。  「さらに、類稀なる傾聴力を持ち、すべての関係者の意見に真摯に耳を傾け、そこから最善の 結論を導き出すことができる」  話を聞くスキルがリーダーにとって不可欠な要素であると考える人は、そう多くないだろう。 世界のどこを見ても、偉大とされるリーダーの多くは、社交的で自己主張の強いタイプである という印象がある。米国では、圧倒的多数のリーダーや管理職が、平均よりも高い外向性のレ ベルを示す。組織の階層が上がれば上がるほど、外向的な人間の割合は増える傾向にある。中 国のように、伝統的に内向的な人が多いとされる国においてさえ、外向性は典型的なりIダー の特徴であると考えられている。  しかし、果たして内向的な人間よりも外向的な人間のほうが、常に優れたりIダーとなり得 るのか。この点を調査した際、私は、理想的なリーダー像とはより複雑なものであることを発 見した。実のところ、リーダーシップが効果的に機能するか否かは、チームメンバーの主体的 な行動(プ囗アクティブ行動)の度合いに左右されるのである。  チームが比較的受動的(上司からの指示を待って行動する傾向が強い)である場合、外向的 なりIダーが最良の結果をもたらした。彼らは自らのビジョンを明確に示し、チームの士気を 高め、力強く皆を先導した。ところが、チームが能動的(多くのアイデアや提案を積極的に出 し合う)である場合、内向的なりIダーのほうがチームをより大きな成功へと導いた。控えめ なりIダーは、より寛容であり、部下からの意見にも真摯に耳を傾けるだろうという印象を与 え、その結果、リーダーはより優れた提案を得ることができ、チーム全体の意欲も向上したの である。「スポンジ」のように柔軟なチームにおいては、最良のリーダーとは最も多く意見を 述べる人間ではなく、むしろ最も優れた傾聴力を持つ人間なのである。  チリの事故現場において、リーダーとしてアンドレが最初に行なったことは、関係者全員の 話に丁寧に耳を傾けることであった。時間的な制約があったにもかかわらず、彼は性急な行動 を慎んだ。「キャンプーホープ」と名づけられた鉱山近くのテント村に到着すると、顔馴染み の人々から温かく迎えられた。彼の直属のチームは三十二名。彼が以前指導した経験のある鉱 山管理者や、共に働いたことのある緊急時コミュニケーション心理学の専門家など、長年の共 同作業を通じて互いをよく知るメンバーが含まれていた。皆の目標はただ一つ、閉じ込められ た鉱山作業員たちを一刻も早く発見し、救出することだった。  欠けていたのは、共通の戦略である。アンドレは現場の専門家たちと直接対話し、彼らが持 つ知識や情報を丹念に収集し始めた。話を聞くうちに、トンネルを通って鉱山内部へ進入する という、彼自身の当初の計画が実行不可能であることに気づいた。直ちに方向転換し、関心を 掘削作業へと移すと、対策を練るために適切なりIダーを任命した。  アンドレは、最も熟練した掘削技術者や、最も強引な管理者に指揮を委ねることは意図的に しなかった。彼がリーダーとして選んだのは、むしろ、向社会的なスキルに最も優れた人たち であった。その一人である鉱山管理者は、常にチームと協議を重ねるリーダーであることが知 られていた。彼はチームに意見を求め、自らの見解をメンバーと共有し、対策における一つひ とつの決断を下していき、最終的には掘削技術者間の協力をまとめ上げ、陣頭指揮を執るよう になった。  落盤により鉱山内部は一層不安定になっており、チームが作業している間も地盤は絶えず勣 いていた。救出の可能性を最大限に高めるため、アンドレと同僚たちは重大な決断を下した。 一つの掘削計画に固執するのではなく、複数の計画を同時に進行させることにしたのである。  早急に新たなアイデアが必要であった。そこでアンドレは毎日、救助チームの全体会議を行 なうことにした。「すべての答えを知るスーパーリーダーなど存在しない」と彼は後に語って いる。集合知を引き出すためには、チーム内の協力関係と、それを支える組織体制を、まず構 築しなければならなかったのである。    「集団浅慮」に陥らないための秘策  極めて困難な問題に直面した際、グループでブレインストーミングを行なうことは多い。皆 で知恵を出し合い、いち早く最善の解決策を見つけ出そうとする。その試み自体は素晴らしい のだが、一つ、少々厄介な欠点がある。実は多くの場合、ブレインストーミングは、逆効果な のである。  ブレインストーミングの会議では、よいアイデアが埋もれてしまうことが多く、具体的な解 決策が見出されることは稀である。数多くの実験が明らかにしているように、私たちが共同で アイデア出しをする時、集合知を最大限に引き出すことはできず、チームの成果はその潜在能 力を大きく下回る。実際には、各自が個別にブレインストーミングを行なったほうが、より多 くの、そしてより侵れたアイデアを生み出すことができるのだ。ユーモア作家のデイヴーバ リーは、こんな冗談を言っている。  「なぜ人類はその潜在能力を未だ完全に引き出しておらず、そして今後も引き出すことができ ないのか。その原因をひと言で表わすならば、「会議」である」と。  問題は、会議そのものではない。むしろ、その進め方にある。これまでに参加したブレイン ストーミングの集まりを思い出してほしい。自尊心が傷つくことへの恐れ(「馬鹿だと思われ たくない」)、周囲の騒がしさ(皆が一斉に話し出す)、そして同調を求める無言の圧力(「ここ は上司の意見に従っておこう」)などのために、囗を閉ざしてしまう人がいなかっただろうか。  このような集団浅慮(グループジンク)に陥ってしまうと、多様なアイデアは生まれてこな い。チームの中でも経験の浅い者や、例えば髭面の白人男性ばかりの中で唯一の有色人種の女 性とか、外向的な人々に囲まれた内向的な人など、相対的に力の弱い立場にある人たちは、な おさら発言しにくくなるのである。  チームが秘めている可能性を真に発掘するためには、従来のブレインストーミングから、 「ブレインライティング」と呼ばれる手法へ切り替えることをおすすめする。これは最初、個 人で行なう。まずメンバー全員が、個別にアイデアを練り上げる。次に、それぞれのアイデア を匿名でチームメンバー全員と共有する。そして、主体的な判断を促すため、全員が個別に他 のメンバーのアイデアを評価する。最後に会議を開き、全員で最も有望と思われるアイデアを 選び出し、そのアイデアに磨きをかける。  最良のものを選び出し、発展させていく前に、まず個別にアイデアを出し合い、吟味すると いうプロセスを経ることで、チームは見過ごされがちな可能性を見出し、それを大きく広げて いくことができるのである。  なぜこの手法が効果的なのかを理解するため、アニターウーリーと彼女の同僚が行なった研 究を挙げる。この研究によれば、集合知を引き出すためのもう一つの鍵は、参加者間の発言力 のバランスを取ることである。  ブレインストーミングの会議では、自己主張の強い人物や、最も弁が立つ人物、あるいは最 も影響力のある人物の意見に、議論が偏りがちである。一方、ブレインライティングの手法は、 すべてのアイデアが検討され、すべての意見が話し介いの俎上に載るように設計されている。 実際、ブレインライティングは、集合知の活用に苦労しているグループにおいて、とりわけ効 果的であることを示す証拠がある。    「集団の判断力」が機能するタイミング  集合知は、個人の創造性を基盤としている。だが重要なのは、そこから先のプロセスである。 人間とは、個別で作業する時のほうが、より多くの、より多彩で斬新なアイデアを生み出すも のである。つまり、集団で考えるよりも個人で考えるほうが、数々の素晴らしい着想を得やす い。しかし、個人の場合、同時にひどいアイデアも生まれやすい。有望なアイデアを、その他 多くの不要なものの中から見つけ出す際、集団の判断力が試されるのである。  アンドレーソウガレットは、最良のアイデアを得るために、チームを集めて長時間のブレイ ンストーミングを行なったりはしなかった。その代わりに、同僚と共に世界規模のブレインラ イティングーシステムを構築し、クラウドソーシングを利用して広範なネットワークから救出 案を募った。集められた提案を吟味するための特別チームが立ち上げられ、現場の混乱から影 響を受けないよう、その活動は南へ数百キロメートル離れたサンティアゴで行なわれた。  多種多様なアイデアが、世界中からチリ鉱山省のウェブサイトを通じてチームへ寄せられた。 それらの発案者は様々で、NASAやチリ海軍、国際物流会社のUPS、3Dマッピングソフ トの開発を手がけるオーストラリアの企業、さらにはアフガユスタンを拠点とするアメリカ人 の掘削専門家グループなど、多岐にわたった。チームは、すべての提案を実行可能性に応じて ランク分けした後、最も有望と思われる案の発案者と直接対話を行なった。  数百ものアイデアが殺到し、中には現実離れしたものも少なくなかった。ある者は、鉱山作 業員たちの居場所を突き止めるために、千匹のネズミにパニックボタンを取りつけて地下へ放 つよう勧めた。二週間を費やして黄色いプラスチック製の小型電話機を開発し、鉱山作業員の 避難場所まで掘削孔を通じて電話回線を引くよう提言した者もいた。それはあたかも一九八六 年からタイムスリップしてきたかのような古風な機器で、緊迫していた現場に束の間の笑いを もたらした。ブレインライティングでは通常、このように豊富な意見が出されるものの、突飛 なアイデアや的外れなものも多い。  幸いなことに、現実的で価値ある提案もあった。あるフリーランスの鉱山技術者は、直径八 センチメートルほどのチューブを通して食料と水を供給する方法を考案した。この策は採用さ れ、そのチューブは生命維持に必要な物資を補給する「ライフライン」として、また鉱山作業 員たちとの通信用パイプとしても活用されることとなった。  救助チームはチューブを通じて高性能カメラを地下へ送り込んだ。これによって、初めて互 いの顔を見ることが可能となった。だが、音声は依然として聞こえなかった。エンジニアたち はあらゆる方法を試したが、解決策は見出せなかった。結局、恥を忍んで、例の黄色い小型電 話機を試すことにする。光ファイバーケーブルに取りつけると、製作費用わずか十ドルという そのプラスチック製の機器が、鉱山作業員たちとの会話を可能にする唯一の手段となった。こ の電話機の発明者である個人起業家のペドローガッロは、その後毎日、地下に閉じ込められた 人々と対話を続けることになった。    「心理的安全性」−最高のアイデアを生み出す器  鉱山作業員たちの避難場所を突き止め、通信手段を確立した後、救助チームは救出作戦の実 行に向けて全速力で動き出していた。プランAは、巨大なドリルを用いて新たな救出坑を掘削 するというものであった。しかし、この方法では目標深度まで掘り進めるのに四ヵ月を要する と予想され、その過程で新たな地盤の緩みを引き起こす危険性もあった。その上、救出が完了 するまでの間に、坑内の作業員たちが緊急の医療処置を必要とする状態に陥ったり、あるいは 精神的に衰弱しきってしまったりする可能性も否定できなかった。  救助隊における協力体制のあり方について、最も広範な分析を行なったのは、エイミー・エ ドモンドソン率いる研究チームである。彼女はエンジニアとしてキャリアをスタートさせた後、 リチャードー(ツクマンの指導のもとで心理学研究者へと転身し、今日ではチームに関する世 界有数の専門家として知られている。エイミーは、チリの救出作戦における多くの主要な関係 者にインタビューを行なった後、私に、ある特定の事例を深く掘り下げてみてはどうかと勧め てくれた。私の研究に非常に有益な示唆が得られるはずだから、と。  ある囗、イゴーループロエスタキスという若いエンジニアが、現場へ掘削機器を搬入してい た際、たまたま掘削作業を監督する地質学者たちと出会った。そこで彼は、坑内に閉じ込めら れた作業員たちのもとへ、より迅速に到達するための白身のアイデアを提案した。それは、従 来のプランAに代わる、極めて大胆な試みであった。新たな救出坑を一つだけ掘るのに時間を 費やすよりも、既存の複数の細い試掘孔を急ぎ拡張してみてはどうか、というのである。「ク ラスター「ンマー」と呼ばれる、岩盤を打ち砕くために設計された特殊なドリルを用いれば、 それが可能かもしれない、とイコールは言った。  イコールは、白身の意見が真剣に聞き入れられるなどとは、当初全く考えていなかった。現 場では若手の一人に過ぎず、エンジニアとしての経験も浅い。彼の役割は、自社製の掘削機器 の効果的な操作方法を作業員に指導することであり、新たな救出戦略や技術について提言する ことではなかった。しかし、白身のアイデアを地質学者たちに話したところ、それをアンド レーソウガレットに進言するよう勧められたのであるI二時問後の会議までに発表の準備を しておいてくれないか、と。  「発表だってり‥」と彼は心の中で叫んだ。自分の話を真面目に受け止めてくれる人がいるとは、 到底思えなかった。「私はまだ二十四歳の若造で、ただ自分の考えを述べただけだったのです から」  イコールは急ぎ、発表の準備に取りかかった。だが、提案に必要な特殊な機器が見つかるか どうかさえ、確信はなかった。そこで、クラスター(ンマーを製造するアメリカの企業の経営 者に電話をかけ、共に対策を練った。その機械を用いれば、掘削期問は1ヵ月半にまで短縮さ れると予測されたが、その速度は同時に高いリスクを伴うことも明らかだった。  この技術は、これまでチリで試されたことは一度もなく、しかもあれほどの幅で、数百メー トルもの深さを掘削するために使われた例もなかった。また、ドリルは特注する必要があり、 使用前の動作確認テストを行なう時間的余裕もなかった。  その囗、イコールが自らのアイデアを発表している問、救助作戦のリーダーを務めるアンド レーソウガレットは、一切口を挟まなかった。彼は、却下するための口実を探していたのでは ない。むしろ、その提案に耳を澄ませ、実行を承認するための根拠を探していたのである。  「それはおそらく、私の人生において最も重要な仕事でした」とイコールは当時を振り返って 言う。「彼は、私の未熟さにもかかわらず、真剣に話を闘き、的確な質問を投げかけ、そして 私にチャンスを与えてくれたのです」  アンドレは、チリの鉱山大臣へ提出するための提案書を作成するよう、イコールに指示した。 問もなく、この案は承認され、プランBとして新たに救助計画に加えられた。こうして、二つ の掘削作業が同時に進行することとなったのである。  他の多くの組織であれば、イコールは自身のアイデアを採用されるどころか、提案する機会 さえも与えられなかっただろう。  「通常の組織であれば、彼のような若い技術者が意見を述べることすらなかったでしょう」と エイミー・エドモンドソンは私に語った。「しかし、彼はそれが可能だと感じられる環境にい ました。だからこそ、臆せずに自分の考えを述べることができたのです」  これは一般的に「発言できる環境」そして「心理的安全性」と呼ばれている。研究でも明ら かになっているように、このような環境下では、通常、発言する立場にない人も、リーダーか ら注目されていると感じるだけで、勇気を得ることができる。  だが、エイミーの研究を丹念に調べていくうちに、私はある事実に気づいた。チリの救助 チームのりIダーたちは、そのような環境を醸成しただけではなかった。いかなるアイデアも 頭ごなしに却下するのではなく、慎重に検討することを保証する、極めて異例のシステムを築 き上げていたのである。そしてこのシステムこそが、様々な分野において集合知を最大限に引 き出す鍵となる。私はそれを、実際に目の当たりにしてきた。    「創造性の芽」を伸ばしていく組織、摘む組織  ほとんどの職場において、チャンスというものは、あたかも梯子を登るかのように、段階的 に与えられる。部下の成長を左右するのは、直属の上司である。仕事を割り振り、提案を厳し く吟味し、そして昇進できるか否かを決定するのもまた、直属の上司だ。もし上司が耳を貸さ なければ、いかなる提案もそこで終わりとなる。いたってシンプルな構造である。しかし同時 に、いまいましい構造でもある。創造性の芽を摘み、人々を沈黙させる絶大な権力が、たった 一人に集中しているのだ。たった一つの「ノー」という言葉が、素晴らしいアイデアを葬り去 る。場合によっては、有望なキャリアさえも行き詰まらせることがある。  管理者にとって、「ノー」と言う理由を見つけるのは容易いことである。部下のアイデアが (もし優れたものであれば)自身の自尊心を脅かしたり、(もし拙劣なものであれば)白身の而 目を失わせたりするかもしれないからだ。部下の動機や提案の根拠を疑うこともある。  私の研究でも明らかになっているが、部下が管理者に提案を行なう際、日頃から協力的で冷 静沈着であると評価されていなければ、それだけで既に形勢は不利となり得る。  多くの場合、まだ確証のないアイデアというものは、高いリスクと不確実性を伴う。管理者 は知っている。見込みの薄いアイデアに賭けて失敗すれば、白身のキャリアが行き詰まるかも しれない。しかし、有望なアイデアを見送ったとしても、そのことに気づく人間はほとんどい ないだろう、と。たとえ部下のアイデアを肯定的に受け止めたとしても、さらにその上の直属 の上司が反対するだろうと感じれば、結局は白身の得にはならないと判断することになる。 たった一人の門番(ゲートキーパー)が門が閉ざすだけで、いかに革新的なアイデアであろう とも、新たな地平を切り開くことはできないのである。  そのような「梯子型」の階層構造は、可能性を秘めたアイデアを正当に評価しようとしない 組織に、しばしば見受けられる。技術開発の分野に目を向ければ、それは明らかである。例え ば、ゼロックス社のプログラマーたちは、両期的なパーソナルコンピューターをいち早く開発 したにもかかわらず、その商品化に向けて幹部を説得するのに悪戦苦闘した。コダック社のエ ンジニアは世界初のデジタルカメラを発明したが、経営幹部たちはこれにほとんど興味を示さ なかった。  このような問題は、組織が異なる種類の構造を持つことで、解決できる可能性がある。梯子 型階層に代わる効果的な構造の一つが、「ラティス(格子)型」である。物理的なラテイスと は、チェス盤の目のように、線が縦横に交差した構造物を指す。組織におけるラティスとは、 縦方向だけでなく、斜め方向や横方向にも報告や相談のルートが交差する、柔軟な構造のこと である。梯子型では、報告や責任のルートが部 下から上司への一方向に限定されるのに対し、 ラティス型では複数のルートを通じて上層部と つながることが可能となる。  ラティス構造は、いわゆるマトリックス組織 とは異なる。映両[リストラーマン]で描かれ るような、部下の一挙手一投足を八人もの上司 が監視するような息苦しいものではない。複数 の管理者にがんじからめにされて行動を制限さ れたり、チャンスを潰されたりすることもない。 ラティス構造の真の目的は、支援を惜しまぬ複 数のリーダーと人々がつながり、共に成長でき る機会をつくり出すことなのである。    あえての「越境行為」で    イノベーションが生まれる  私か見てきたラティス型組織の中で最も優れ た例の一つが、W・L・ゴア社である。同社は、手袋やジャケットなどに使用される防水透湿 性素材ゴアテックスの製造販売で広く知られている。一九九〇年代半ば、ゴア社の一般社員で あった医療機器エンジニアのデイプーマイヤーズは、ゴアテックス(フッ素重合体の一種であ る延伸ポリテトラフルオロエチレンを用いた素材)でコーティングされたマウンテンバイクの シフトケーブルを使ったところ、砂粒が付着しにくいことに気づいた。  そこからデイブは、このゴアテックスという素材がギターの弦にも応用できるのではないか、 と思いついた。人間の手の汗や皮脂が弦に付着するのを防げれば、音質の劣化を抑えられるだ ろうと考えたのである。  自身の日常業務とは直接関係なかったものの、デイブは自発的に試作品を製作した。これを 数人の上司に見せたところ、開発する価値はない、との評価を受けた。上司たちは技術面で異 議を唱えた。「振動する弦をフッ素重合体でコーティングすることなどできない、音質を著し く損なうに違いない」と。戦略的な懸念もあった。「我々は音楽業界の企業ではない、一体な ぜギターの弦などつくる必要があるのだ」と。  典型的な組織でこのような上司からの反対に遭えば、そのアイデアは潰されてしまうだろう。 しかし、ゴア社はラティス制を導入している組織である。誰にも制限されることなく、自身の アイデアを複数の異なる上司に提示することができるのだ。自分のプロジェクトを実現するた めには、心から支援してくれるリーダーを探し出せばよい。  そこでデイブは、自らのアイデアを粘り強く売り込み続けた。そうこうするうちに、リッ チー・スナイダーという理解者を見出し、エンジニアのジョンースペンサーを紹介してもらう ことができた。  それから一年余り、デイブとジョンは毎週、このまだ確証のないアイデアに勤務時間の一部 を充てた。通常であれば、このようなサイドプロジェクトは職務怠慢や不従順と見なされがち だが、ゴア社は二人を励まし、試行錯誤できる時間を与えた。ギター弦を開発する過程で、デ イブとジョンはリッチーからの正式な承認を得る必要はなかった。定期的に進捗を報告しなが らも開発を進め、数千人ものミュージシャンを対象に試作品のテストを行なった。  ラティス型の組織では、伝統的な縦割り(梯子型)の階層構造にありがちな二つの暗黙の了 解I「上司の意向には決して逆らうな」そして「直属の上司を抜きにして、その上の者に相 談するな」−といった不文律が取り払われている。エイミー・エドモンドソンの研究による と、梯子型組織にはこのような暗黙のルールが存在するため、自由に発言することも、自身の 意見を聞き入れてもらうこともできなくなるという。ラティス型の組織が目指しているのは、 上司を迂回したり飛び越したりしても罰せられることのない、開かれた環境をつくり出すこと なのである。  ゴア社では、デイブとジョンが外部からの意見やサポートを必要とした際、リッチーを飛び 越して他の上司に相談することをためらわなかった。彼らは自由な裁量を活かし、必要に応じ てあらゆる人々と接触した。彼らの会議に最高経営責任者(CEO)が直々に顔を出し、助言 を与えたこともあったという。  デイブとジョン、そして彼らの臨時プロジェクトチームは、開発に十八ヵ月もの歳月を費や した後、ついに新製品を発表する。それからわずか十五ヵ月で、アコースティックギター弦 「エリクサーストリングス」は、業界をリードする製品へと成長した。医療機器部門の一社員 が生み出したアイデアが、音楽業界に旋風を巻き起こすなど、そうそうあることではない。そ れが実現したのは、まさにラティス制のおかげであった。  組織が伝統的な梯子型の構造であっても、未熟なアイデアを引き出し実現するために、一時 的にラティス構造を構築することは可能である。このようなタイプの構造は、問題に対する斬 新な解決策を生み出すためのイノベーションーコンテストなどでしばしば見受けられる。  化学工業メーカーのダウーケミカル社は、省エネルギーと廃棄物削減のための対策案を社内 で公募した。出資金が二百万ドル以下で、一年以内に採算が取れる見込みがあることが条件 だった。それから十年にわたり、五百七十五もの画期的なアイデアが採用され、これによって 同社は平均して年にI・一億ドルものコスト削減を実現したという。  この種のイノベーションーコンテストで、最終的な決定を下すのは一人のゲートキーパーで はない。ラティス制では、様々なレベルの人が、提出されたアイデアの相互評価を行なう。こ れによって、特定の意見が軽んじられたり、頭ごなしに否定されたりすることを防ぎ、すべて のアイデアが十分に検討される機会を得られるのである。  弱いリーダーは発言を封じ込め、望ましくない意見を非難する。強いリーダーは発言を歓迎 し、望ましくない意見にも感謝する。そして偉大なりIダーは、誰もが発言しやすい環境をつ くり出し、たとえ望ましくない意見であっても真摯に耳を傾けるのである。    答えは、いつも「想定外」のところにある  掘削機器を扱う若き技術者であるイゴーループロエスタキスがいかにしてプランBを提案し、 それが採用されるに至ったのか、その経緯を初めて耳にした時、私はそれがラティス型組織を 導入したおかげであると即座に理解した。  だからこそ、彼は掘削作業を監督していた地質学者たちに対し、臆することなく自らの意見 を述べることができたのである。そして、地質学者たちが若く未熟な彼を最高責任者であるア ンドレーソウガレットに引き合わせたのもまた、その自由な組織風土のおかげであったといえ る。しかし、ラティス型組織がもたらす恩恵が、より顕著な形で現われたのは、それから約一 ヵ月後の救出作業においてであった。  プランAの掘削作業が予想以上に進まない一方で、プランBは着実に進行していた。イコー ルのクラスター(ンマーに関する判断は正しかったのである。クラスター(ンマーは、硬い岩 盤を迅速かつ確実に打ち砕いていった。明らかに有望な方法であった……機械が突如として停 止してしまうまでは。掘削孔が予定深度の三分の一に達した時、(ンマーは岩を破砕する力を 失い、空転し始めたのだ。  調査の結果、鉱山の補強のために地中に張り巡らされていた鉄筋に機械が接触し、ドリル ビットが破損したことが明らかになった。その破片の一部、バスケットボールほどの大きさの 金属塊が、地下へと通じる穴を塞ぎ、拡張作業を完全に阻んでいたのである。チームは、引っ かかった金属片を叩いたり、磁石で引き寄せようとしたりしたが、取り出すことはできなかっ た。イコールのプランBも、もはやここまでかと思われた。  翌日、イコールは新たな着想を得た。以前、学生時代に文献で読んだことのある、ある特殊 な抽出器具を思い出したのである。それは、いわばゲームセンターのクレーングームのキャッ チャーアームを、産業用に巨大化したような装置であった(その種のゲームは妻のアリソンが 得意とするところだが、まさかぬいぐるみを獲得する以上の重要な目的を果たし得るとは、夢 にも思わなかった)。これこそ、チームが探し求めていたアプローチであった。クレーンの アームを降ろし、先端の爪で障害物となっている金属片を掴み、引き上げることができれば、 道は再び開かれる。  このクレーン装置の案をイコールは現場の数人に持ちかけたものの、誰からも真剣に取り 合ってもらえなかった。しかし、ラティス型の組織では、ルートを変えれば自分の意見に耳を 傾けてくれる人物が見つかることを、彼は知っていた。二日間にわたり下位レベルで自らの案 が却下された後、イコールはどうにかしてチリの鉱山大臣と直接話をする機会を得て、即刻そ の承認を取りつけた。  それから五日間、試行と失敗を繰り返した後、ついにクレーンは金属片を掴んで引き上げ、 障害を取り除くことに成功した(それは、まさに世界最高の賞品であった)。こうしてプラン Bは再び軌道に乗り、誰もが安堵に胸を撫で下ろした。  翌月のある夜遅く、一人の救助隊員が救出用カプセルに乗り込み、プランBの掘削孔から地 下へと降下していった。真夜中少し前に、最初の被災者が無事救助された。それから二十四時 間以内に、救出カプセルは鉱山の現場監督−三十三人口の最後の鉱山作業員−を、暗い穴 の底から地上へと引き上げたのである。  イコールのクレーン案が、プランBを、そして結果として三十三人の命を救った。当然なが ら、彼と救出作戦に関わったすべての人々の創造的で勇敢な取り組みは、賞賛に値する。しか し、その陰にあった功績も見過ごすべきではないだろう。すなわち、優れたりIダーシップ、 チームの緊密な協力関係、そして、誰もが自由に発言でき、その意見が真摯に受け止められる 機会を生み出す組織体制である。  グループの中で最も賢明とされる人物の意見だけに耳を傾けていては、他の貴重なアイデア を発掘する機会を逸してしまう。私たちの可能性というものは、必ずしも白身の内だけに秘め られているとは隕らない。人と人とのつながりから開花することもあれば、全く予期せぬ外部 から訪れることもあるのだ。       成功とは、人生で得た地位によって測るのではなく、       成功するために乗り越えた障害によって測るべきである。                  ブッカー・T・ワシントン(教育者、作家) 「才能」はこうして開花していく I見過ごされている「真の価値」に光を当てる  一九七二年の歴史的な夜、当時十歳であったホセ・ヘルナンデスは、古い白黒テレビの前に ひざまずいていた。受信感度を何とか高めようと、アンテナの兎の耳のような部分を必死に勣 かす。ぼやけていた映像がようやく鮮明になると、そこには、アポロ宇宙船から最後に月に降 り立った乗組員が月面を軽やかに跳ねる姿が映し出されていた。  月面を歩くその光景に心を奪われているうちに、ホセは、この囗で直接確かめたいという強 い思いに駆られた。画面に釘づけになっていた視線を離すと外へ駆け出し、夜空に浮かぶ月を 見上げた。そして再び家の中へと駆け戻り、宇宙飛行士たちが最後の大きな一歩を踏み出す瞬 問を見届けた。いつの囗か自分も宇宙飛行士となり、月面のあの粉塵に白身の足跡を刻みたい Iホセはそう強く望んだ。  多くの子どもが、一度は宇宙飛行士に憧れる。しかしホセは、その夢を実現しようと固く心 に決めていた。数学と科学が得意であったこともあり、エンジニアになることが宇宙への最も 確実な近道だろうと判断した。それから二十年以上の歳月をかけて、電子工学で学士号と修士 号を取得し、エンジニアとして連邦政府の研究機関の一つに就職する。NASAの選考に臨む までに、自身の可能性を最大限に高めておきたかったのである。  一九八九年、ホセは満を持してNASAへ応募書類を送った。宇宙飛行士志願書に記された 四十七項目すべてに丁寧に回答を記し、履歴書と大学の成績証明書を同封して、その書類を ヒューストンへと郵送した。それからは、自宅の郵便受けを毎日覗き込み、NASAからの通 知を今か今かと心待ちにする日々が続いた。十ヵ月という長い月日が過ぎ、ついに待ちに待っ た返信が届いた。封筒を興奮気味に破り開け、宇宙飛行士選考部署の責任者からの手紙を読ん だ。結果は、不採用たった。  ホセは動じなかった。志こそ高かったものの、彼の期待は控えめであった。そもそも見込み が薄いことは、自身でも承知していたのである。フィードバックを得るため、彼は躊躇するこ となくNASAへ電話をかけ、さらに手紙を送り、改善を図るための助言を真摯に求めた。  「次回の選考でチャンスを掴むため、自分自身を改善すべく積極的に取り組む所存です。しか しながら、今回の選考過程で認められたであろう弱点を、私自身が見落としているかもしれま せん。つきましては、私の評価に関して、何らかのフィードバックをいただけないでしょうか。 もし差し支えなければ、不採用となった理由や、選考委員の方々がお考えになる私の改善点を 率直にお聞かせいただけますと、大変幸甚に存じます。  貴重なお時間を割いていただき、心より感謝申し上げます」  これに対するNASAからの返信に、ホセは肩を落とした。既に予備選考の段階でふるい落 とされたため、彼の参考になるようなコメントや助言はI切ない、という素っ気ないものだっ た。それでもホセはめげることなく、再び応募し……そして再び不採用となった。  ホセは夢を諦めず、挑戦を続けた。応募の度に履歴書を丹念に修正し、白身の長所を強調し、 推薦状を更新しIそして、不採用通知を受け取ることを繰り返した。面接にさえ、一度も進 むことができなかった。  一九九六年、最後に受け取った不採用通知は、彼の意欲を打ち砕いた。自分は決して、NA SAから認められることはないだろうIホセは悲観的な思いに囚われた。不採川通知を握り 潰し、ゴミ箱へと投げ捨てる。しかし、的を外れて床に落ちたその紙屑を、拾い上げる気力さ えもはや残っていなかった。  人生において、自身の潜在能力を他者からどのように評価されるかほど、重大なことはない。 大学が入学志願者を審査する時や、企業が求職者の面接を行なう時、組織はその人の将来の成 功の可能性を予測しようとする。これらの予測が、チャンスの扉を開くこともあれば、閉ざす こともある。その扉が開くか、あるいは固く閉ざされたままとなるかは、まさに組織の評価一 つにかかっているのだ。    「履歴書」には書かれていない、本当の価値  ホセは知らなかったが、彼の応募書類がNASAの評価担当者の目に直接触れることは、全 くなかったのである。NASAは、ストレス度の高い極限状況下で的確な判断を下す能力と、 その経験を持つ人材を探していた。注目に値する具体的な業績を上げたエンジニアを求めてい た。大学をトップクラスの成績で卒業した志願者に、強い関心を示した。つまり、既に偉業を 成し遂げた人物に焦点を絞っており、彼らの基準からすれば、ホセはそのような人物ではな かった。しかしNASAは、その選考過程において、他の多くの組織がそうであるように、偉 業を成し遂げる可能性を秘めた志願者を見逃していたのである。  応募期間外においても、ホセは白身を磨くことに専念した。技術的・身体的スキルのみなら ず、NASAでも貴重とされる性格スキルを身につけ、その類稀なる能力をあらゆる方面で発 揮した。職場では指導教官(メンター)と共に政府からの助成金を獲得し、デジタルーマンモ グラフィの開発に携わることで、乳癌の早期発見に貢献した。余暇には、七つのマラソン大会 に参加し、一マイル(約一・六〇九三キロメートル)平均七分弱という驚異的なペースで 二十六・ニマイル(四十二・一九五キロメートル)を三時間以内で完走するという自己ベスト 記録を樹立した。  彼は、高い自己統制力と意志力を持ち合わせ、かつ向社会的でもあった。高校生に無償で数 学を教え、メキシコ系アメリカ人の科学者やエンジニアのための職能団体支部を立ち上げた。 さらには、地方および全国レベルにおいて、コミュニティの指導的役割を積極的に担い、その 活動に貢献した。宇宙飛行士候補者へ志願する度に、これらの新たな実績や成果を強調したが、 それらが有利に働くことはなかった。  NASAがホセの潜在的な可能性を見落としたのは、彼らの選考過程が、それを検知するよ うに構築されていなかったからに他ならない。応募者の職務経験や過去の成果だけでは、その 人物の人生経験や背景に関する深い情報を得ることはできない。  ホセは、出稼ぎの農場労働者の家庭で育った。カリフォルニアの幼稚園に通い始めた頃は英 語を全く解せず、流暢に話せるようになったのは十二歳の時たった。大学へ進学し、エンジニ アとなるためにも、彼は数々の困難な障害を乗り越えてきた。それらすべてを、NASAは知 る由もなかったのである。彼の初期の志願書に具体的な実績が乏しかったことで、ホセは能力 が不足していると一方的に判断された。しかし実のところ、実績が少なかったのは、乗り越え るべき苦難が人一倍多かったからだ。  「到達点の高さ」という単一の基準のみで、人を判断するのは問違いである。現在の選抜シス テムの多くは、既に成功を収めた志願者ばかりを選び出すことで、これから成功する大きな可 能性を秘めた人を過小評価し、見過ごしてしまっているのだ。  私たちは、「過去の成果」と「未来の可能性」とを混同するあまり、逆境に打ち勝ってきた 人々のたゆまぬ努力と、それによって培われた真の力を見逃している。彼らが直面してきた障 害の大きさ、乗り越えてきた障壁の高さ、そしてその過程でどれほど人間的に成長したのかを こそ、私たちは考慮すべきなのである。ダイヤモンドの原石を評価する基準は、最初から完璧 な輝きを放っているか否かではない。どれほどの熱と圧力に耐え、その輝きを増していくか、 なのである。    「過去の実績」か、「未来への伸びしろ」か  人類史の大部分において、人が機会に恵まれるか否かは、出生時にほぼ決まっていた。貴族 の血筋であれば、世界を意のままにできた。さもなければ、運命はあらかじめ定められ、選択 の余地などほとんどなかったのである。  多くの文化圏で何世紀にもわたり、人々は君主制や貴族社会、カースト制度といった身分制 度に抵抗してきた。その結果、階級制度は徐々に変革されていった。中国の歴代王朝は、儒教 の教えに基づき、厳しい能力試験に合格した者すべてに官僚となる資格を与えた(とはいえ、 そこにも制限はあり、女性や体に障害を持つ者は受験を禁じられていた)。古代ギリシャでは、 社会は学問によって知識を修めた哲人王によって統治されるべきであると、ソクラテスとプラ トンが提唱した。その意図は、理想的な指導者像を形成すること以上に、個人の主体的な行動 と能力が正当に報われる、新たな社会秩序を築くことにあった。  今日、資格のある者すべてに機会を与えることを、大学や企業は重要視している。原則とし て選考では、多様な能力を持つ、様々な背景の人々を歓迎すべきである。ところが現実には、 多くの選考システムには欠陥があり、志願者の真の資格や能力を正しく評価できていない。  教育機関や職場の選考システムは、通常、既に突出した成果を上げている者を発見するよう に設計されている。つまり、まだ目立った実績のない者が、その選考の枠組みに入ること自体 が極めて難しい。そのような人々がこれまで乗り越えてきたであろう障害や、その成長の経緯 に光が当てられることも稀である。人々の内に秘められた可能性を見落とす時、私たちは彼ら の夢を打ち砕くだけでなく、彼らが社会にもたらし得たであろう貢献をも、同時に失っている のである。  隕られた時間の中で膨大な数の応募書類を必死に処理する際、私たちは選考のあらゆる段階 において、有望な人材を見過ごすという過ちを犯しがちである。予備選考の段階で、応募者一 人ひとりの資質を丹念に吟味することなど不可能に近い。ダイヤモンドの原石を発見するため の特別なアルゴリズムもなければ、それぞれの個人的な背景を詳細に調査する時間的余裕もな い。その結果、応募者に関する断片的な情報に基づいて、評価者はその人物の人生を左右しか ねない重大な決断を下すことになる。  採用の初期段階におけるこのような課題に対処するため、多くの企業は応募者の学歴や職務 経歴を重視する。一流大学は優秀な人材のみを受け入れ、優秀な卒業生を社会に送り出してい るはずだ、と思い込んでいるからである。  しかしながら、学歴エリートが、必ずしも期待されるほど素晴らしい成果を上げるとは限ら ない。二万八千人以上の学生を対象としたある研究では、いわゆる一流大学の卒業生は、コン サルティング業務において、他の大学の卒業生よりもわずかに優れているに過ぎなかった。ま た、共同作業における仕事の質と貢献度を調査した際には、イェール大学の学生はクリーブラ ンド州立大学の学生よりも若干優れていたものの、その差はわずかI・九パーセントに留まっ た。  さらに言えば、応募条件を学士号以上とすると、アメリカ国内の労働力の大半を最初から排 除してしまうことになる。このような機械的なふるい分けは、他の方法でI例えば、職業専 門学校や二年制のコミュニティーカレッジ(地域短期大学)で、あるいは訓練プログラムや兵 役を通じて、さらには独学や実地での経験によってI必要なスキルを習得した応募者を、不 当に不利な立場に置くこととなる。    「経験の長さ」は能力の証明にはならない?  応募者の適性を予測するため、大学の卒業資格に加えて、職務経験にも着目する企業の人事 担当者は多い。しかし、経験の長さもまた、能力を測る絶対的な指標にはならない。  あらゆる職種に従事する一万一千人以上を対象とした四十四の研究をメタ分析した結果、職 務経験の長さと将来の業績との間には、ほとんど関連性がないことが明らかになっている。履 歴書に二十年の経験と記載されていても、その人物は毎年同じ経験を二十回繰り返してきただ けかもしれない。これでは、仕事を得るためには経験が必要であり、経験を得るためには仕事 が必要であるという、堂々巡りに陥ってしまう。そして、そうした表面的な職務経験だけでは、 その人物が内に秘めた真の可能性を見抜くことは難しいのである。  肝心なのは、人々がどれほど長くその仕事に携わってきたかではない。むしろ、その仕事を やり遂げるために必要なことを学び続ける能力があるかどうかなのである。  次の選考段階へ進む応募者を決定するため、過去の実績を考慮する企業も多い。学歴や職務 経験と比較すれば、これは潜在的な可能性を見出す上で、よりよい手がかりといえるだろう。 その人物が過去にどれほどの成果を上げてきたかを知ることで、現在の能力をある程度予測で きるからだ。とはいえ、このような指標にも欠点があり、結果として非常に多くの人の可能性 を見逃すことになりかねない。  実績は、新たな職務が以前の職務と同様のスキルを必要とする場合にのみ、有効な判断材料 となる。経済学者が三万八千人の販売員を対象に行なった研究では、最も優れた販売成績を上 げた者が、管理者へと昇進する可能性が高いことが明らかになった。  しかし、販売スキルと管理スキルは全く別のものである。契約を取りつけることに長けてい た人物が、チームの管理においては劣っているというケースは少なくない。チームを巧みに指 導し成果を上げることができた管理者は、敏腕営業マンではなく、むしろ最も優れた向社会的 なスキルを持ち、日頃から同僚と協力し合って販売業務を遂行してきた人物であった。  これは、「ピーターの法則」と呼ばれる現象の一例である。人々は職場において、自身の無 能さが露呈するレベルまで昇進し続ける傾向がある、という概念である。つまり、大は前職で の成功によって昇進を重ね、最終的には自身の能力を超える役職に就いたところで行き詰まっ てしまうのだ。前述の事例では、有能な販売員は昇進して無能な管理者となり、最高の管理者 となる可能性を秘めていた人物は、二流の販売員のままに留まった。    「才能」はスタート地点を決めるが、ゴールを決めるのは「性格」  応募者の実績が、応募する職種に直接関連しているとしても、この指標は既に磨き上げられ たダイヤモンドを検出するものであり、原石を見つけ出すものではない。  トムープレイディを例に挙げる。あなたがアメリカンフットボールのファンであるか否かに かかわらず、ブレイディは史上最も優れたクォーターバックの一人として広く認められている。 しかし、プロ入りした際、彼は百九十九位という低い順位でようやくドラフト指名を受けたに 過ぎなかった。大学時代のプレイぶりと運動能力テストの結果から、ブレイディが果たして鋭 い回転のかかったボールや長いパスを投げられるのか、スカウトたちは非常に懐疑的だったの である。彼が相手ディフェンスの猛攻(フリッツ)から逃れられるほど俊敏であるとも期待さ れていなかった。  問題は、スカウトたちがブレイディの身体能力ばかりに注目し、彼の精神力を見逃していた ことだ。確かに、彼には身体的な面で限界があった。体重が九十五キログラムと軽いにもかか わらず、百三十キログラムを超える屈強な前衛選手二十五人よりも走るのが遅かったのである。 だがスカウトたちは、後にジヤーナリストたちが「強靭な精神」と称賛した、彼の不屈の闘志 や知性を見落としていた。  「スカウトたちは彼の内面を見ようとしなかったのです」と、コーチの一人は残念そうに述べ た。よく言われるように、才能はスタート地点を決めるが、ゴールを決めるのは性格である。 ブレイディは、スカウトたちが予測したゴールを遥かに超えてみせた。四十歳になった年には、 四十ヤード走で二十歳の時の自己記録を更新したという(もっとも、若い頃のトムープレイ ディは、走るのが本当に遅かったのだが)。  先天的な能力が出発点であるとすれば、どれほど進歩できるかは性格スキルによって決まる。 しかし、性格スキルというものは、すぐには認識されないこともあるだろう。表面だけを見て いては、内に秘められた真の輝きを発見できない恐れがある。    「物語」の中にこそ、未来は隠されている  内に秘められた可能性を発掘する方法を学ぶためには、NASAこそが理想的な組織である と私は考えた。そこには極めて高いリスクが存在するからである。宇宙飛行士の選出で過ちを 犯せば、ミッションの失敗につながり、多くの人命を失いかねない。このためNASAは、検 出漏れ(有望な人材を不採用にすること)よりも、誤検出(不適格な人材を採用すること)を 非常に強く警戒するのである。  私たちは潜在的な可能性をなぜ見落とすのか、そしてどうすればそれを見つけ出せるのかを 知るため、デュアンーロスから話を聞くことにした。デュアンは、NASAで四十年問にもわ たり宇宙飛行士選考部門の責任者を務め、数多くの不採川通知(ホセヘのものも含めて)に自 ら署名してきた人物である。私の目的は、ほんの数名のエリートに宇宙探査の未来を託すため、 何千人もの応募者の夢をふるいにかけるという、その選考過程の実態について学ぶことであっ た。  デュアンと彼の同僚であったテレサーゴメスは、宇宙飛行士に不可欠な資質を持つ、類稀な る候補者を探し求めていた。二千四百件から三千百件にも及ぶ応募の中から、わずか十一〜 三十五名を選出すべく、誰に潜在的な可能性があるのか、そして誰にないのかを、迅速に評価 しなければならなかった。そして彼らの目から見て、ホセーヘルナンデスには、その時点では 潜在的な可能性が見出せなかった。  NASAが知らなかったのは、ホセが不法移民の子どもであり、貧しい家庭で育つたという 彼の背景であった。家族は日々の糧を得るため、毎年冬になるとメキシコ中央部からカリフォ ルニア北部までの長い道のりを旅した。その道々、様々な農場で、イチゴやブドウ、トマトや キュウリなど、あらゆる種類の農作物の収穫に従事した。秋になればメキシコへ戻り数力月を 過ごした後、再び同じ道を北上するのである。  こうした移動の多い生活のため、一年のうち数カ月間、家族はホセを学校へ通わせることが できず、残りの期間も三つの異なる地域でどうにか食いつなぐという不安定な日々を送ってい た。ホセが小学校二年生になった時、父親がいくつかの小さな仕事を見つけ、アメリカに定住 することを決意した。それでもなお、ホセは毎週末、家計を助けるために農場で働かねばなら ず、宿題をする時間は隕られていた。両親に学業の助けを求めることもできなかった。彼らが 受けた教育は、小学校三年生までだったからである。  このような彼の歩んできた道のりは、NASAには見えなかった。優れた資質を見出すべき 選考作業において、その資質が育まれた背景へのアクセスがなかったのである。  「選考過程で真に考慮されるべきなのは、そこへ到達するまでに、彼らがどれほどの困難を乗 り越えてきたかです」と、半世紀にわたるNASAでの勤務を終え引退した後、デュアン・ 口 スは私にそう語った。  「当初、私たちは独自に作成した申請用紙を使用していました。そこには、志願者の個人的な 背景も書き込めるようになっていたのです。しかし後に、政府がすべての応募書類を統一する ことを決定し、これによって志願者の背景を知る貴重な手がかりを失ってしまいました」  数千人もの応募者の中で、彼らが推薦状を確認できるのは四百件、そして面接にまで進める のは上位百二十名のみだった。  応募の初期段階でふるいにかけるため、選考過程では職歴や学歴、特殊技能、そして受賞歴 や勲章といったものが重視される。政府規定の申請川紙で、ブドウの収穫といった一見畑違い に見える技能について問われることはない。英語を習得することが、いかに大きな達成である かを示すこともできない。実績に関する項目には、農場で働きながら物理学で合格点を獲得し たという事実を記載する余地はない。選考システムは、志願者が乗り越えてきた数々の試練を 特定し、それを評価材料とするようにはつくられていなかったのである。  「自身の背景を隠すべきである」とホセが強く信じていたのは、このためである。申請用紙の 最後には、飛行機の操縦といった、宇宙飛行士との関連性の高い活動を記入する項目があった。 移民の農場労働者であった経歴をなぜ記入しなかったのかと私が尋ねると、「どうでもよいこ とだと思いました。私は社会で認められるため、必死に同化しようと努力してきました。だか ら、この情報が自分の不利になるとさえ考えたのです」とホセは言った。もし、NASAが彼 の過去の苦難を知り得たならば、彼の未来の可能性を垣間見ることができたかもしれない。    人生の「難易度」を数字で測ることはできるか?  周知の通り、成果を左右するのは才能だけではない。成果とは、直面する困難の度合いにも 深く関連する。ある人物がいかに有能であるように見えるかは、多くの場合、その人物が取り 組む課題の難易度に反映される。  例えば、クイズ番組「ジェパディー」では、回答者が賞金千ドルの難問に窮するよりも、 二百ドルの比較的容易な問題を次々と正解するほうが、より賢そうに見えるだろう。同じコメ ディアンであっても、午前中に銀行員たちの前で話すよりも、ほろ酔い加減の観衆が集うナイ トクラブでパフォーマンスを行なうほうが、より面白く感じられるものである。  しかし、いざ誰かの「将来性」や「隠れた才能」を見極めようとすると、私たちは、その大 が成し遂げた行動の「結果」そのものにばかり目を向けがちで、その結果に至るまでにどれほ どの困難があったのか、その努力の背景まではなかなか見ようとしない。そして無意識のうち に、比較的簡単な課題を器用にこなした大を商く評価し、その一方で、血のにじむような努力 で大きな壁を乗り越えてきた人の真の価値を見過ごしてしまうのである。逆境を克服する過程 で培われた、目に見えないスキルに気づくこともない。履歴書に記載されることのないスキル は、なおさらである。  世の中の多くの選考システムというものは、残念ながら、応募者がこれまでにどれほどの困 難な経験(試練)をしてきたか、そしてそれをどう乗り越えてきたのかといった点を、目に見 える形で明らかにし、それを公平に評価するような仕組みにはなっていない。なぜそうなって いないのかと言えば、ひと言で言ってしまえば、それがとてつもなく難しいからである。これ までにも試みはあったものの、すべて失敗に終わっている。  例えば、二〇一九年、米国の大学進学適性試験SATは「逆境スコア」の導入を試みた。こ れは、家庭環境や地域社会、学校での様々な事情により困難を抱えている生徒に対し、最大百 点までポイントを加算するという方式だった。しかし、社会からの激しい反発を受け、結局、 導入から一年で廃止された。どのような困難を評価対象とするのか、そしてとりわけ、その困 難をいかにして数値で示すのかという点において、意見が大きく分かれたためである。  社会科学者たちが長年にわたり明らかにしてきたように、人間は同一の事象に対しても、全 く異なる反応を示す傾向がある。ある人にとってはトラウマとなるような出来事が、他の人に とっては単なる挫折であるかもしれない。ある人が乗り越えられない障害と見なすものを、他 の人は克服すべき挑戦と捉えることもある。  水泳の飛び込み競技においては難易度に応じた採点基準が存在するが、個々の人生における 試練の度合いを客観的に数値化する統一された方式など、存在しないのである。  これは長年、アファーマティブーアクション(差別是正措置)の取り組みにおいて、悩みの 種となってきた。社会的に弱い立場にある集団を優遇する政策の立案は、常に政治色の濃い問 題となる。歴史的な不平等を補償することは、果たして均等な機会の創出につながるのだろう か。それとも、逆差別を招き、新たな不平等を助長するだけなのだろうか。民主党と共和党は、 この問題について白熱した論戦を繰り広げてきた。  あなたがどのようなイデオロギーを持つかはわからないが、社会科学者である私は、最良の 科学的証拠に目を向ける。研究によれば、差別是正措置は多くの場合―そして皮肉なことに、 その措置の対象となる人々にとってさえもI諸刃の剣となり得るという。  組織が差別是正措置を講じた場合、その恩恵を受けるとされる側の人々は、課題においてよ り苦戦し、より低い成果評価を得たことが、四十五の研究を対象としたメタ分析で明らかに なった。優遇措置があるというだけで、周囲は彼らの能力を懐疑的に見るようになり(「本当 に昇進できるほど有能なのか?」)、当人たちもまた白身を疑った(「自分の実力で昇進したの だろうか?」)。同様の現象は、能力の高い女性や人種的マイノリティを対象とした実験でも確 認されている。  今この瞬間も、多くの人が、目に見えない文化的な壁や、組織の中の古いしきたりによって、 能力を十分に発揮できずにいる。不当にもチャンスを奪われてきた人々が、正当に活躍できる 道を開くためには、系統立った方法を見つけ出すことが何よりも大切だ。しかし残念なことに、 そうした善意から始まったはずの特別な措置(例えば、特定のグループを優遇する制度など) が、実際にはうまく機能しておらず、かえって新たな問題を生んでいることも少なくない。そ の結果、恩恵を受けるはずの人々白身(そして、そのまわりの人々もまた)、「自分は本当にこ の特別な扱いに値するのだろうか」と、心のどこかで疑問を感じてしまうのである。  そして、仮にそうした制度上の問題が解決できたとしても、弱い立場に置かれてきた人々を 救済するための政策が、彼ら一人ひとりがこれまで耐え忍んできたすべての苦しみや悲しみを、 完全に癒やすことができるわけではないのだ。    「何を経験したか」より、「そこから何を学んだか」  ようやくプロのオーケストラが女性音楽家を積極的に採用しようと一斉に立ち上がった際、 最も好まれたオーディション方法は、志願者にスクリーンの背後で演奏してもらうというもの だった。演奏者の性別を特定できないようにすることで、審査員は演奏者の技術そのものに集 中できる。  これによって、女性の採用機会は高まった。とはいえ、性別による格差が完全に解消された わけではなかった。多くの場合、女性には男性と同じ質の高い専門的訓練を受ける機会が、そ もそも十分に与えられていなかったからである。  差別をなくそうとする人々の中には、例えば男女の採川数を同じにしたり、不利な立場に置 かれてきた女性のために、一時的に採用基準を下げたりすることを提案する人もいるかもしれ ない。しかし、そうしたやり方は、かえって「彼女たちは実力ではなく、特別な配慮で選ばれ たのではないか」というような、女性音楽家の能力に対するいわれのない疑いを招く危険性が ある。  もっとよい方法があるのではないだろうか。それは、一人ひとりがこれまでどのような困難 な道のりを歩んできたかを考慮して評価することである。具体的には、応募者が過去にどれほ どの学習機会や支援に恵まれてきたかという背景に応じて、求められる技術レベルの期待値を 調整するという考え方だ。例えば、オーケストラのオーディションで、誰にも頼らず独学で血 のにじむような努力をしてきた応募者と、世界的に有名なジュリアード音楽院のような恵まれ た環境で専門教育を受けてきた応募者とを、同じ物差しで評価するのではなく、それぞれの背 景を考慮した異なる基準を用いる、というのも一つの有効な手段だろう。  一人ひとりが経験してきた苦労の大きさを評価に取り入れることの本当の狙いは、困難な状 況にある人を特別扱いして有利にすることではない。むしろ、大きな困難に立ち向かい、それ を乗り越えようと懸命に努力している人々が、その努力や経験を見過ごされ、不当に不利な評 価を受けないようにすることなのである。  例えば、アメリカの大学入試で提出が求められる自己推薦エッセイ(自分をアピールする小 論文)は、自分が経験してきた困難や挑戦を伝えるよい機会のように思えるかもしれない。し かし、現実はそう単純ではない。本当に辛い経験をした生徒にとっては、その心の傷やトラウ マを赤裸々に文章で表現すること自体が、想像するだけで大きな苦痛を伴う。その一方で、幸 運にも大きな壁にぶつかることなく比較的平穏な人生を歩んできた人の多くは、自分か経験し たささやかな挑戦を、いかにも大きな出来事であったかのように書くことに、何の抵抗も感じ ないのである。  結局のところ、その大がどれほどの可能性を秘めているかを示す本当のしるしとは、経験し た苦労の度合いそのものではない。大切なのは、その苦労や困難に直面した時に、その大がど のように考え、どのように行動し、それをどう乗り越えてきたか、なのである。本当に優れた選 考システムとは、まさにその部分をこそ、きちんと見抜き、評価できるものでなければならない。    あなたの「評価基準」は本当に正しいか?  世の中を見渡してみると、私たちの社会の評価システムの中では、「大がどれほど大変な苦 労を乗り越えてきたか」という肝心な点が、残念ながら正当に認められていないことが非常に 多く、その努力の大きさが、ふさわしい評価に結びついていないのが現状なのである。  例えば、学生が大学院へ出願する際、入学審査担当者は、学生が履修したコースや専攻科目 の難易度には、驚くほど注意を払っていないことが、ある研究によって明らかとなった。つま り、難易度の高いコースでまずまずの成績を収めるよりも、比較的容易なコースで最高の成績 を収めたほうが、結果として入学許可を得る確率が高くなるということである。  これは不公平だと感じるだろう。仮に入学審査担当者がオリンピックのフィギュアスケート の審査員であったとするならば、四回転半という高難度のジャンプに果敢に挑戦し成功した選 手に六点を与え、比較的容易なループジャンプを一回だけ披露した選手に八点を与えて勝たせ るようなものである。もし、彼らがファイナンシャルーアドバイザーを探しているとしたら、 厳しい経済状況(弱気相場)の中で着実に利益を生み出す人物よりも、好景気(強気相場)に 乗じて素晴らしい利益を上げた人物を選ぶに違いない。  入学審査官や採川責任者を一方的に責めているわけではない。多くの大は、白分たちが行 なっている評価方法が必ずしも最善ではないことに気づいておらず、また、人の内に秘めた可 能性を見抜くための専門的な訓練も受けていないのである。  私白身、二十年間にもわたり、企業の採用選考やアイビーリーグの大学の入学審査委員会で 審査官を務めてきたが、志願者の成績を、その専攻科目の難易度と照らし合わせて評価すべき であると気づいたのは、ごく最近のことである。これまで一つの履修課程の難易度を他のもの と比較検討することなく、不覚にも一人の志願者の成果を他の志願者の成米と単純に比べてし まっていた。なんと愚かなことであったか。  選考システムが本当に目指すぺきは、個人が達成した成果を、その大がどのような状況下で 努力して達成したのかという背景と合わせて評価することである。なぜなら、それは、体重差 が大きく影響するレスリングで、選手たちがそれぞれの体重に見合った階級で公正に競い合う のと同じように、評価の公平性を保つために不可欠だからだ。  そのために考えられる有効な手立ての一つは、個々人を、同じような境遇にある集団と比較 するための、客観的でわかりやすい基準を設けることである。例えば、学生の成績証明書には、 本人の成績評価に加えて、その学校や学部全体の平均成績(GPAなど)も併記することを義 務づける。そうすれば、その生徒が周囲と比べてどれほど頑張ったのかが、より明確になるだ ろう。  その大がどれくらい難しい課題に挑戦したのか、その「難易度」をきちんと明らかにするこ とは、その成果をその人の置かれた状況に合わせて正しく評価するために、なくてはならない 視点である。生徒を、同じような境遇にいる他の生徒たちと比べてみることで、その生徒が学 校の外でどんな困難に直面しているかもしれないかが見えてくる。そして、それを踏まえて成 果を評価することができるようになるのだ。  中には、成績証明書に載せる情報を工夫し、例えば、生徒が住んでいる地域の状況と照らし 合わせて成績を示す、といった先進的な方法を取り入れている学校もある。研究によると、経 済的に恵まれた生徒と単純に比較するのではなく、同じような環境で努力している生徒同士を 比べることで、大学の入学審査官などは、たとえ所得の低い家庭の出身であっても、その志願 者の内に秘められた可能性を見抜きやすくなるという結果が出ている。  イギリスの大学や企業は、選考過程において、志願者が経済的な困難を抱えていたことを示 す兆候(例えば、学内でアルバイトに従事していたり、無料の食事サービスを利用していたり するなど)を重視し始めている。  このアイデアについて、NASAで宇宙飛行士の選考に携わっていたデュアンーロスに尋ね ると、彼は「もしホセの応募書類にそのような情報が記載されていたならば、NASAは彼の 背景についてより詳細に調査しただろう」と答えた。  「応募者が移民の農場労働者であると、そしてとりわけ、彼がそのような逆境を乗り越えてあ れほどの成果を上げてきたと知っていたならば、私たちは彼の計り知れない潜在的な可能性に 気づいただろう」と。  確かに、これまで述べてきたような、個人の背景を考慮するアプローチは、埋もれた才能、 いわぱ「ダイヤモンドの原石」を見つけ出す上で、ある程度役立つかもしれない。しかし、人 が直面する困難というものは、学業成績や経済的な苦しさといった、比較的数字で表わしやす いものばかりではない。むしろ、多くの場合、それは本人の主観的な苦しみであり、誰の囗に も明らかな形で客観的に測ることが非常に難しい。  だからこそ私たちに本当に必要なのは、そのような目に見えにくい困難も含め、人が並々な らぬ努力を重ねて障害を乗り越えてきた、その「成長の道のり」そのものをきちんと評価する 方法なのである。幸い、学校や企業は、そのためのヒントとなる貴重な情報(データ)を入手 することができる。にもかかわらず、残念なことに、彼らはその大切な情報に気づかず、見る べき肝心な点を見過ごしているのだ。    私たちが見ている「データ」の、見えていない「真実」  経済学者ジョージーバーマンは画期的な実験を行ない、一九九九年から二〇〇二年までにフ ロリダの高校を卒業した全生徒から集めた膨大なデータを分析した。その臼的は、高校での成 績によって、果たして将来の成功が予測できるか否かを見極めることだった。ここで成功の指 標とされたのは、「大学卒業率」と「十年後の所得」である。  高校一年目の成績だけでは、将来の成功の可能性は必ずしも明らかではなかった。しかし、 二年目と三年目の成績が、その後の人生に大きな違いをもたらすことがわかった。成纃平均値 がわずかIポイント上昇しただけで、将来の所得が五パーセントも上昇したのである。そして、 四年目の成績はさらに重要な意味を持った。成績平均値のIポイントの上昇が、将来の所得の 一〇パーセントもの増加につなかっていたのだ(アメリカの高校は四年制)。  しかし、経済的な成功の可能性を実際に最もよく示していたのは、生徒が時間の経過と共に どれほど進歩したか、その「成長の軌跡」であった。残念ながら、大学は従来通り、入学審査 の際には「成績平均値」という単一の数値のみ に着目し、成績がどのように推移してきたかと いう点を見てはいなかった。四年間の成績の平 均値に基づいて生徒を分類し、成績が上がった のか下がったのかという重要な情報を考慮して いなかったのである。  同様の傾向は、大学の卒業率においても確認 された。高校の一年生から三年生にかけて成績 が向上した生徒たちは、同じ期間に成績が低下 した者と比較して、大学を卒業する(そして中 退しない)確率が著しく高かった。しかし、入 学審査担当者は、そのような個々の成長の軌跡 を評価に反映させていなかったのである。  これは、ばかげているとしか言いようがない。 教育機関は、三年前や三ヵ月前の成績がどうで あったかにかかわらず、たった一つの基準だけ で志願者を評価するのである。そして、最も関 連性が高く、最新の状況を示すはずのデータを見ようともしない。これによって、困難なス タートを切ったにもかかわらず、努力によって着実に進歩を遂げた人は、その努力と達成度を 正当に称賛される代わりに、かえって不利な立場に置かれてしまう。  大学も企業も、そろそろ新しい評価基準を設けるべき時である。私か思うに、従来の成績平 均値に加えて、成績の推移そのものを評価基準に組み込むべきだろう。長期にわたる向上率は、 基本的な勾配の計算方式(ライズーオーバー・ラン、すなわち縦軸の変化量÷横軸の変化量) を用いて算出することが可能である。挫折や停滞を経験した後の目覚ましい成功は、その人物 が大きな可能性を秘めていることの確かな証なのである。  成績の平均値のみで判断すれば、宇宙飛行士を志願する他のエンジニアたちと比較して、ホ セが格段に優れているというわけではなかった。大学時代の化学、微積分学、プログラミング の成績はC評価だった。この決して芳しくない成績から、彼が果たして飛行技術者やミッショ ンスペシャリストに不可欠な高度な技術的能力を備えているのか、疑問視された。  NASAの名誉のために付言するならば、同局は成績のみで応募者を厳しく切り捨てるわけ ではない。とはいえ、学業で卓越した成果を収めた者により注目するのは自然なことだった。 そしてNASAは、なぜホセの成績が当初振るわなかったのか、そしてなぜその後、成績が 徐々に向上していったのか、その背景を知る由もなかった。  大学の費用を稼ぐため、ホセは果物と野菜の缶詰工場で、夜十時から翌朝六時まで深夜勤務 に就いていた。そのため、授業中に集中力を維持することも、ましてや授業内容を完全に習得 することも困難であった。果物の収穫シーズンが終わると、今度は夜間と週末にレストランの 給仕助手として働いた。課題の多い授業と過酷な労働スケジュールとの板挟みとなり、入学後 の一学期目は平均成績Cという結果に終わった。  ホセは学業で悪戦苦闘していた際、劣等感を覚え、自らの能力を疑うようになった。数多く の研究が、社会階級によって達成度に格差が生じることを明らかにしている。家族の中で初め て大学へ進学した学生は、目に見えない数多くの不利な条件によって、成績が平均を下回る傾 向があるという。また、白身の道を自ら切り開くことを周囲から期待されているため、助けを 求めることを躊躇してしまう。経済的な自立へのプレッシャー、自己への懐疑心、そして周囲 からの疎外感といった要因により、集中力を失うのである。  ホセにとって、大学での最初の学期はとりわけ厳しい試練であった。やがて、より働きやす い時間帯の仕事を見つけ、規則正しい生活を送れるようになると、状況は次第に改善されて いった。そして、知識の不足を補うため、積極的に個人指導(チューター)を探し始めた。学 期を重ねるごとに、彼の成績は向上していった。入学後の秋から翌年の春にかけて、ホセの成 績平均値は二・四一から二・九へと上がり、二年目の秋から春にかけては、三・三三から三・ 五六へと目覚ましく上昇した。多くの教科でA評価を得るようになり、卒業時には成績優秀者 の称号を授与された。全額支給の奨学金を獲得すると、カリフォルニア大学サンタバーバラ校 のエンジニアリング修士課程へ進学した。彼の成績平均値は、決して完璧ではなかったかもし れない。しかし、その成績の向上率は、誰の囗にも明らかで、抜群であった。    「急な坂道」での踏んばりに注目する  大が内に秘めた可能性や将来性を、これまでの「向上率」「伸び率」で判断しようとする時 には、一つ心に留めておくべき大切なことがある。それは、あまりにも大きな期待をしすぎな い、つまり「現実的な目線を持つ」ということである。例えば、最初の書類選考などで、過去 に困難な状況から這い上がってきたような、目覚ましい成長の軌跡が見られたとしても、その 大が常に右肩上がりの急成長を続けると期待するのは、必ずしも正しくない。  特に、人生において大きな壁にぶつかったり、厳しい試練に直面したりした時には、誰しも 急な坂道を必死で登らなければならない。そのような苦しい状況の中で、たとえ目立った進歩 が見られなくても、現状を維持し、安定した成果を出し続けること自体が、実は大変な努力と 能力を要する、称賛に値する「偉業」といえるのである。  大が内に秘めた可能性すべてを、これまでの「成長の度合い」だけで判断すべきではない。 確かに、過去にどれだけ成長してきたかという軌跡は、その人の将来性を知る上で貴重な手が かりとなる。しかし、それだけでは、その大が持つ可能性のすべてを理解したことにはならな いのである。  本当に厳しい状況、いわば急な坂道を登っている時に、その大がどれほどの力を発揮できる のかを真に見極めるためには、成長の過程で実際に何を身につけ、どのような能力を培ってき たのか、その中身そのものに目を向けることもまた重要となる。単に過去の職歴や学歴、達成 した成果といった表面的な情報に頼るのではなく、その人がこれまでの経験から何を学び取り、 そして新しいことをどれだけ速く、深く吸収できる学習能力を持っているのか、そこを見抜く 必要がある。  そのためには、私たちが行なっている面接のあり方そのものを見直す必要があるのではない だろうか。私がこれまで見聞きした中で、最も興味深い人材の見極め方を、イスラエルにある コールセンターの事例に見つけた。    「尋問」ではなく、「対話」としての面接  数十年前のことである。ギルーウィンチというセラピストの卵は、臨床心理学の従来のあり 方に疑問を感じていた。一度に一人のクライアントと向き合うだけでは不十分であり、もっと 多くの問題を同時に解決する道はないものか、と考え始めた。  ある日、運動機能に障害を持つ隣人と話をする中で、世界中の障害を持つ人々が就職に際し て大きな困難に直面しているという現実を知った。聴覚や視覚、運動機能、記憶、学習、そし てコミュニケーションに障害を抱える人々は皆、同様の経験をしているという。その障害が身 体的なものであれ精神的なものであれ、彼らは常に差別や偏見に哂され、社会から拒絶されて きた。そのため、彼らの持つ能力が不当に低く評価されたり、あるいは全く見過ごされたりす ることが多かったのである。  採用面接においても、障害のある人々が不利な立場に置かれていることに、ギルは気づいた。 典型的な面接とは、まるで尋問のようである。面接官は、応募者の短所について質問攻めにす る。「あなたの最大の欠点は何ですか?」(《これまでの失敗を一つ残らずリストにしてお見せ しましょうか?》)。予測不可能な将来について尋ねることも多い。「五年後のあなたは、どう なっていると思いますか?」(《あなたの仕事を引き継いで、もっとましな質問を面接でしてい ると思います》)  時には、意図的に難問を投げかけて応募者を困惑させる面接官もいるだろう。「ジャンボ ジェット機の中に、ゴルフボールは一体何個入ると思いますか?」(《一体全体、誰が飛行機を ゴルフボールで埋め尽くすというのだ?》)。健常者にとってさえ、このような高圧的な面接方 法は、不安や居心地の悪さを増幅させる。  応募者に過度なストレスを与えるような面接方法では、その人物が内に秘めた可能性を見抜 くことなどできない。過去に不当な評価を受けた経験のある人は、とりわけストレスを感じや すい。自身が属する集団には社会的な偏見が存在すると知っているだけでも、人はプレッ シャーを感じ、本来の実力を発揮できなくなる。  偏見を助長するかもしれないという不安が、集中力を妨げ、作業記憶を低下させることは、 研究によっても明らかとなっている。数学のテストを受ける女性、口頭試験に臨む移民、米国 の大学進学適性試験(SAT)を受ける黒人の生徒、認知テストを受ける高齢者、そして様々 なテストに挑む身体あるいは学習に障害のある生徒たちが、本来の能力を発揮できない。偏見 こそが、このような人々を失敗へと追い込むのである。    「ワークサンプル」という最強の試金石  ギルは、障害があるというだけで無能だと見なされがちな人々の、真の能力を世に示したい と考えた。健常者とは異なる特性を持っていたとしても、彼らが成功への道を確実に歩めるよ うに、ギルは斬新な採用方法を思いついた。そして、スタッフ全員が何らかの障害を持つコー ルセンターを立ち上げる。「できる(jn一‘o一)」という意味のヘブライ語を用い、事業を「コー ルーヤホール」と名づけた。面接では、就職希望者が持てる力を十分に発揮できるよう、従来 の画一的な方法を根本から変革した。彼がっくり上げたシステムは、驚きに満ちたものだった。  面接に先立ち、志望者は質問票を受け取り、自身が夢中になっているもの(例えば、愛読書 やお気に入りの音楽、熱中している活動など)について記入する。面接時には、精神的な支え として、パートナーやペットを同伴することも許される。当日、志望者がまず気づくのは、面 接官が尋問者のような威圧的な態度ではないということである。面接官はいわばホストであり、 オフィスを案内し、飲み物を勧め、あたかも自宅へ招き入れた客人をもてなすかのように、志 望者を温かく歓迎する。志望者は、リビングルームのような一室へ案内され、大きく心地よい 椅子に腰を下ろし、自身の情熱を注いでいる事柄について質問される。ここでの目的は、志願 者が安心し、自分の好きなことについて心置きなく熱心に語れるような、和やかな雰囲気をつ くり出すことなのである。  次は、志望者に自身の長所を実際に示してもらう。ギルは、志望者に実力を発揮する機会を 与えるため、自ら考案したユニークな課題を提示する。これは、難しい謎解きや馴染みのない 問題で応募者を怖気づかせるようなものではなく、彼らが慣れ親しんだ状況の中で自身の強み を存分に発抑できるように設計されている。  「困難な状況を乗り越える際、あなたは粘り強さをどのように発揮しますか?」「自宅のリ フォーム計画に反対する、少し気難しい隣人にどう対応しますか?」「細部まで注意を払うこ とができますか? 例えば、ピーナッツアレルギーのお祖母様のために、長い買い物リストの 中から安全な食品だけを選び出してみてください」「あなたの優れた説得力や交渉力を見せて いただけますか? 例えば、食事中に携帯電話を手放せない十代の若者を、どうやって説得し ますか?」といった具合である。  面接に関する研究分野において、このような実践的な評価方法には名称がある。これは 「ワークサンプル」(実際の業務や学業に近い課題に取り組んでもらう選考方法)と呼ばれる手 法である。ワークサンプルとは、志望者のスキルを凝縮して示すものであり、過去の仕事の一 部を見本として提示することもある。多くの大学が、これを入学審査に取り入れ、創造的な作 品集(ポートフォリオ)を提出するよう出願者に勧めている。音楽家であればデモテープ、脚 本家や劇作家であれば執筆した脚本、俳優やダンサー、マジシャンであれば演技を収録したビ デオを送るといった具合である。  しかし、過去のワークサンプルには、過去の成果と同様の欠点がある。それはりんごとオレ ンジのように、異なる性質のものを比較しなければならなくなることである。これまでに志望 者がどのような困難を克服してきたのか、その背景にある物語を、過去の作品見本だけで知る ことはできない。これに代わる有効な方法は、リアルタイムのワークサンプル、すなわちその 場で課題に取り組んでもらうことである。志望者全貝にその場で、同じ問題を解いてもらうの だ。  このような生のワークサンプルが、志望者の真の能力を明らかにし、従来の面接を補完する 上で極めて有効であることは、数多くの研究によって明らかとなっている。ワークサンプルで は、単に言葉で語る能力だけでなく、実際に「できる」ことを観察するのである。これは、志 望者にとっても大きなメリットがある。  私がこの職業に就いて間もない頃、ワークサンプルという手法を偶然見出した時、その正式 な名称すらも知らなかった。私と同僚は、ある企業のために数名の営業担当者を選出する面接 を行なった。そこで応募者に課したのは、私たちに「腐ったりんご」を売るという課題であっ た。ある応募者のセールストークは、今でも鮮明に記憶に残っている。  「このりんごは腐っているように見えるかもしれませんが、実際には熟成した、ヴィンテージ もののりんごです。一日一佃のりんごは医者を遠ざける、とよく言うでしょう。りんごは熟せ ば熟すほど、栄養価が増すのです! しかも、種を裏庭に蒔くこともできますよ」  そのセールストークの内容が科学的に真実か否かという問題はあったものの、彼は私がそれ までに選んだ中でも、最も有能な営業マンの一人となった。以来、私はあらゆる産業において、 リアルタイムーワークサンプルの独創的なアプローチを数多く見てきた。  中でも印象的だったのは、教員志望者の積極性を評価するために、実際の授業を構想させる という課題を与えた学校や、向社会的なスキルを審査するために、航空エンジニアの候補者た ちにレゴブロックでヘリコプターを共同製作させた製造業者などである。  ワークサンプルは多くの場合、一度きりのものである。とはいえ、最初の試みが最良の結果 を生むとは隕らない。この問題点にも、コールーヤホールは対処した。彼らのワークサンプル では、成功へ向けての二度目のチャンスが与えられる。一つの課題でつまずいたとしても、応 募者は小休止を取ったり、助けを求めたりしてもよい。そして面接終了時には、評価されるの ではなく、自ら評価を下すことができる。而接官に温かく迎えられていると感じたか、白身の 長所を最大限に伝えることができたかなど、面接体験や成果を自ら採点するよう促されるので ある。白身のパフォーマンスに満足できなかった場合には、やり直す機会が与えられる。そし て、次回の面接体験をよりよいものにするために面接官は何を改善すべきなのか、応募者が面 接する側に意見を伝えることさえできる。  ハービーという男性は二回目の面接のためにコールーヤホールを訪れた際、集中力が明らか に欠如していた。彼がどのような気分なのかを面接官が尋ねた。自閉スペクトラム症の(I ビーは、その朝、靴の履き心地が悪いことに気づき、履き直そうとした時にコーヒーをシャツ にこぼし、その上バスに乗り遅れてしまったのだ、と語った。何とか面接には間に合ったもの の、ひどく動揺しており、靴のことがまだ気になっている様子であった。そこで面接官は面接 を一時中断し、彼が気持ちを落ち着かせられるように一時間の休憩を設けた。(Iビーは二回 目の面接を見事にやり遂げ、採用された。  ワークサンプルを収集するのには時間がかかる。だが今日では、その多くをオンラインで集 めることが可能となった。近年、デジタル環境で問題解決型の課題を実施することが容易に なっている。たとえバーチャルで行なうにしても、かかる時間は実際の面接とさほど変わらな い。  私たちが面接に時間を費やすのは、採用する人物について熟考することが重要であると理解 しているからである。人工知能が著しい発展を遂げているとはいえ、現在のアルゴリズムでさ え、(Iビーの内に秘めた可能性を見出すことはできなかったであろう。  ハービーの仕事は、時に難しい電話対応を含み、暴言や拒絶に直面することも日常茶飯事で ある。ほとんどの人間は数年で退職してしまう。だが、粘り強さと忍耐強さで、彼の右に出る 者はいない。(Iビーは花形社員として活躍し、八年間にわたり常に月間目標を達成し続け、 四半期ごとの最優秀社員賞を受賞し、コールセンター全体の従業員’の前で表彰されたこともあ る。    なぜ、業界平均を上回る成果を上げられるのか  業界関係者たちは、ギルの採用モデルがうまくいくとは当初思っていなかった。それがコー ルセンターであれば、なおさらである。障害のある人が、変化の速いストレスの多い環境で成 功するとは、到底想像できなかったのだ。ギルが最初のクライアントを獲得するまでに、まる 一年を要した。そしてついに二〇〇九年、彼は様々な精神的・身体的障害のある十五名を採用 した。盲人と認定されていた管理者に、難聴の従業員の監督を任せたことさえある。通常であ れば、これがうまくいくとは到底思えない。しかし、大丈夫だとギルは確信していた。個々の 強さを間近で観察し、チームが困難に打ち勝つ能力を備えていると知っていたのである、彼ら は周囲の期待に応えただけでなく、それを遥かに超えてみせた。  その後もコールーヤホールは成長を続け、そのチームの多くは、一時問毎の達成度とクライ アントへの電話対応時間において、業界平均を上回る成果を上げた。健常者のチームよりも高 い成果を上げたチームさえあった。  ギルにとっては、これはほんの始まりに過ぎなかった。世の中には、可能性を秘めていなが らも不当に低く評価されている人が多くいて、障害を抱えた人々はその一部に過ぎないのであ る。彼は独自の採用モデルを拡張し、その他の社会的に弱い立場にある集団−移民から元受 刑者に至るまでIにも機会を与えた。二〇一八年、ギルのチームはイスラエルの国会に招か れ、大と社会への貢献を表彰された。  コールーヤホールが実践するような面接のあり方は、単に社会的に不利な立場にある人々に、 公正なチャンスを与えるための非常に有効な手段であることに留まらない。それは、私たち一 人ひとりの内に眠る、まだ見ぬ素晴らしい可能性を掘り起こし、開花させるための方法でもあ るのだ。なぜなら、そうした面接を通じてこそ、個々人が持つ本来の才能が、真の輝きを放ち 始めるからである。  考えてみてほしい。まるで罪人を尋問するかのような威圧的な面接を受ければ、誰だって当 然、緊張し、不安になる。あるいは、面接へ向かう道すがら、思いがけない不運に見舞われる ことだってあるだろう。人の才能を本当に正しく見極めたいのであれば、その大が何を語るか、 あるいは過去にどんな立派な経歴を積み重ねてきたかという表面的な情報だけでなく、「今、 この瞬間に何ができるのか」という、その人の現在の力にこそ焦点を合わせなければならない。 応募者をわざと困らせるような意地悪な難題を出すのではなく、その大が持つ本来の実力を存 分に発揮できるような機会こそを与えるべきなのである。  そして、たとえ一度失敗したとしても、そこから何かを学び、もう一度やり直そうとする姿 勢を見せるという経験は、その大物の粘り強さや成長力を知る上で、この上なく貴重な手がか りとなる。それは、最初の試みでどれほど器用に物事をこなしたかということよりも、遥かに 深い人間的な価値を示しているのである。    「最高のオファー」は意外な形でやってくる  NASAの宇宙飛行士選考は毎年行なわれ、応募者はその都度、最新の情報を加えて書類を 再提出することができた。ホセもまた、その制度に望みを託し、毎年挑戦を繰り返していた。 一九九六年、次から次へと不採用通知を受け、彼の心は折れかけていた。しかし、夢を諦めな いよう妻のアデラから強く勇気づけられた。「たとえNASAに認められなくても、あなたが 自分白身の価値を認めることをやめないで」と、彼女は言った。  資格を得るためにまだできることがあるはずだ、とホセは気づいた。それは、まさに「スポ ンジになる」ことだった。ほとんどの宇宙飛行士がパイロットであり、かつスキューバダイ バーでもあると知ると、彼は一年をかけてパイロット免許を取得。その翌年には、毎週末、遠 方のスキューバダイビング訓練センターへ通いつめ、基礎から上級コースまでを修了し、最終 的にはプロの認定資格を得た。そして、勤務先の連邦研究所がシベリアでの核拡散防止プロ ジェクトへの参加という、またとない機会を提示した際、ホセは一つの条件を付けてこれに応 じた。ロシア語のレッスンを受けることを要求したのである。次のNASAの選考で、これが 自身の強みとなることを期待してのことであった。  一九九八年、三十六歳になったホセは、再び宇宙飛行士候補者志願書を提出した。そして、 とうとう念願の吉報が舞い込む。二千五百人もの応募者の中から、百二十人の最終候補者 (ファイナリスト)の一人に選ばれたのである。  ホセはついに、完璧なリアルタイムーワークサンプル、すなわち彼の実力をありのままに示 す機会を得た。ジョンソン宇宙センターで実施される一週間に及ぶ身体的および心理的な適性 評価に参加したのだ。適性を評価するのは引退した宇宙飛行士たちで、エンジニアリングや航 空に関する専門知識、チームワーク、そしてコミュニケーション能力を評価した。頭の中で物 体を回転させる空間認識能力テストや、プレッシャーの中で問題を解決する能力テストなども 行なわれた。最高得点九十九点のうち、選考委員会がホセに与えたのは、九十一点という高い 評価だった。  面接官は、ホセに過去の苦難について直接尋ねることはせず、彼自身の言葉で経歴を語るよ う、一時間の時間を与えた。技術的なスキルを十分に証明できたことで自信を深めていたホセ は、この時初めて心を開き、自分が移民の農場労働者としてスタートしてから、ここまで歩ん できた道のりを語った。  「ホセのような境遇、つまり社会的に決して有利とは言えない立場から出発した人間が、あれ ほどのことを自らの力で成し遂げ、そしてあらゆる障害を乗り越えて、他の者たちと同じ高み にまで到達したという事実は、何を意味するのでしょうか。それは、その人物が、並々ならぬ 情熱と、そして誰もが持ち合わせているわけではない、傑出した能力の持ち主であることの、 何よりの証左なのです」とデュアンーロスは言う。  面接の後、ホセはデュアンから直接電話を受け、残念ながら今回も不採用であると伝えられ た。しかし、そこには一条の希望の光があった。ホセは宇宙飛行士としてではなく、エンジニ アとしての職をNASAから提示されたのである。  ホセは毎年、状況に応じて自身を柔軟に変化させてきた。今回もまた、その変化に対応する しかない、と彼は考えた。たとえ宇宙へ共に飛び立つことはできなくても、人類を宇宙へ送り 出すという壮大なミッションに、エンジニアとして貢献することはできるのだ。「空に輝く星 は、決して一つだけではない。そして、人生における目標や意義もまた、一つではないのだ」 −これは、彼が白身の人生経験から得た、偽らざる教訓であった。    その「回り道」は、目的地へ続いている  数年間NASAでエンジニアとして勤務した後、二〇〇四年、ホセはI本の電話を受けた。  「君の現在の職務を、他の者に引き継いでもらいたいと考えているのだが」と、受話器の向こ う側の声が尋ねた。「喜んで、私の知識と経験を後任に伝えます」と、ホセは答えた。「それは ありかたい」とその管理者は言った。  「ところで、宇宙飛行士室で働く気はあるかね?」  最初のNASAへの挑戦から、実に十五年という長い歳月が流れていた。そしてついに、ホ セは、憧れ続けた宇宙飛行士に選ばれたのである。「その吉報を電話で聞いた瞬間、まるで現 実のことではないかのように、全身の感覚がす うっと消えていくようでした」と、ホセは当時 を振り返る。受話器を置くやいなや、急いで愛 する家族のもとへと駆けつけ、妻に、子どもた ちに、そして両親に朗報を伝えた。そこには言 葉にならないほどの喜びが縊れ、皆で固く抱き 合い、時には踊り出し、そのかけがえのない瞬 間を分かち合った。  二〇〇九年八月、四十七歳の誕生日を迎えた 数週間後、ホセはスペースシャトルに乗り込ん だ。座席に着き、シートベルトを締め、間もな く訪れる離陸の瞬間に備えて気を引き締める。 真夜中になろうとする頃、カウントダウンが始 まり、やがて轟音と共にエンジンが点火される のを見た。打ち上げから八分半後、メインエン ジンが停止されると、ホセは白身の目を疑った。 これが現実であることを確かめるため、手元に あった一つの道具をそっと放ってみる。それが ふわりと浮き上がるのを見た瞬間、彼は思わず感嘆の声を上げた。「宇宙にいるぞ!」と。  ホセは、その人生において、カリフォルニアの農場でイチゴを黙々と収穫する日々から、遥 か宇宙空間で星々と共に漂うという体験までを味わった。宇宙で二週間、八百万キロメートル 以上もの距離を旅したが、宇宙服を身にまとい、この壮大な旅に出るチャンスを獲得するまで の長く険しい道のりに比べれば、それは短い旅である。  ホセ・ヘルナンデスのような人物が、その人生において大きな成功を収める姿は、確かに見 る者の心を打ち、深い感銘を与える。しかし、その感動に浸るだけで終わらせてはならない。 彼の軌跡が私たちに教えてくれるのは、私たちのすぐ身の回りにも、まだ誰にも発見されてい ない素晴らしい才能が無数に眠っているという事実、そして、いかに私たちがそうした才能の 輝きを見過ごしがちであるかという、省みるべき現実である。彼は、多くの欠陥を抱えた既存 のシステムの中で、常識という名の壁を自らの力で打ち破り、偉大な成果を成し遂げた。ホセ の物語は、稀有な例ではあるが、私たちが目指すべき一つの理想、あるべき「基準」として心 に刻むべきなのである。  人の真価を見抜こうとする時、そこにダイヤモンドの原石を発見すること以上に、心を満た す喜びはない。私たちに課せられた真の使命とは、「才能を開花させよ」と相手に一方的な期 待を押しつけることではない。むしろ、人生の様々な試練や圧力に耐えながらも、その輝きを 内に秘めて生きる人々を、決して見落とすことなく、その一人ひとりが持つかけがえのない可 能性を丁寧に見出し、それが最大限に輝きを放つことができるよう後押しすることなのである。         夢を持ち続けよう         もし夢が死んでしまったら         人生は翼が折れて         飛べなくなった鳥だ                          ラングストンーヒューズ(作家) づ 最後までやり抜いた人だけに 口 之 見えてくる景色  「人が内に秘めた可能性」というテーマで本を書いている、と周囲に打ち明けると、決まって 「それはつまり、「夢」についての本なのか」と尋ねられたものである。「夢を実現するための 「ウツー本なのですか?」「大きな夢を持つための自己啓発本でしょうか?」と。  しかし、ストレートに「夢」という言葉でそれを語ることは、当初の私の考えにはなかった。 なぜなら、その言葉があまりにも青臭く、どこか現実離れした未熟な響きを伴っているように 感じられたからである。それは、実証的な研究を重んじる社会科学者が用いるにはあまりに情 緒的で、むしろ、自己啓発を説く指導者(グル)が好んで使うような、どこか大げさな響きを 持つ言葉のように思えたのである。  マーティンールーサー・キングージュニアのような偉大なビジョンと、人々を引きつける力、 そして揺るぎない道徳的観念を持ち合わせているならば、それも許容されるであろう(とはい え、キング牧師の側近たちもまた、「夢」という言葉が「陳腐」に聞こえることを危惧してい たという)。しかし、その他大勢の人々にとっては、「夢」という言葉は、子ども時代の思い出 の中に留めておくのが最も賢明である。私はそう考えていた。  その後、私は新たな科学的証拠に遭遇した。大きな夢を持つ人間ほど、高い目標を達成でき るというのである。経済学者は、数千人もを出生時から五十五歳になるまで追跡調査し、青年 期に抱いた願望が、その後の成人期の人生をいかに予示するかを調べた。  その結果、壮大な夢を抱いていた若者は、より多くを学び、職業キャリアにおいても】層の 昇進・昇格を果たしたことが明らかになった。他の様々な要因−認知スキルや性格スキル、 家庭の収入、両親の学歴や職業、そして元々の願望の強さIといった要素を考慮に入れた後 でも、結果は同じだった。どれほど進歩するか、どのような人物になるのかは、その人の抱く 夢の大きさに大きく左右されていたのである。  そうして私は気づいた。私自身もまた夢を持っていたからこそ、そしてその実現のために手 を差し伸べてくれる人々がいたからこそ、本書は生まれたのだと。    「どうせ無理だ」と思っていた(Iバードへの第一歩  高校最後の年が始まった頃、私は故郷のミシガン州にある大学へ進むつもりだった。ところ が九月のある夜、就寝中に(Iバード大学へ進学した夢を見た。それまで、(Iバードへの進 学を選択肢として真剣に考えたことなど一度もなかった。見込みが薄いことはわかっていた。 入学に必要な資格要件を満たしているか自信がなかったし、両親には州外の大学で学ぶ費用を 捻出できるほどの経済的余裕もなかったからである。それにもかかわらず、その頃観た映画 『グッドーウィルー「ンティング」の影響もあってか、(Iバードのことが頭から離れなく なった。  デトロイト郊外の、私か育った街では、人々は富や美貌といった、どちらかと言えば表面的 なものに価値を置く傾向があった。学校でもてはやされるのは、ほとんどの場合、裕福な家庭 の子か、あるいは容姿が際立っている生徒だった。その一方で、私の想像するケンブリッジ ((Iバード大学がある街)は、賢明であることが格好いいとされる街であった。学生寮は、 私のような少々風変わりな人間(オタク)で溢れているだろう。そして講義では、世界で最も 聡明な教授陣から知識を吸収できるに違いない、と。  その年の秋、近隣の法律事務所で(Iバード大学の卒業生と面接する機会を得て、私は一張 羅のスーツに身を包んだ。家を出ようとしたまさにその時、ふとあることを思いついた。家の 中へ駆け戻り、引き出しから小さな箱を取り出してジャケットのポケットに滑り込ませた。  到着した時、私はひどく動揺していた。それまで面接というものを受けた経験もなければ、 (Iバードの卒業生に会ったこともなかったからである。投げかけられた言葉の意味が理解で きなかったらどうしよう、と。  面接は一時間の予定だったが、結局、三時間にも及んだ。それが果たしてよい兆候なのか悪 い兆候なのか、私には見当もつかなかった。それから毎日、下校のバスを降りると、期待と不 安でどきどきしながら郵便受けを覗き込んだ。そして十二月、ついに(Iバード大学からの封 筒を見つけた。  入学許可の通知たった。しかも、学資援助が受けられるというIとはいえ、卒業までアル バイトに明け暮れねばならないことも、同時に理解した。嬉しくてたまらなくなり、普段は決 してしないような派手なダンスをして喜びを爆発させた(その時は思ってもみなかったのだが、 後に私か何か突飛な行動をする度に、「本当に「Iバードに行ったのか?」と周囲から聞かれ るようになった)。  翌年の春、電子メールや様々なイベントを通じて将来のクラスメイトたちと知り合うように なり、私はある傾向に気づいた。どうやら(Iバードは、二つの極端なタイプの学生を引き寄 せるようであった。一つは、自身が天才であると確信している人々。もう一つは、自分がそこ にいるのは何かの間違いではないかと内心思っている人々である。私は、明らかに後者の類で あった。入学基準をどういうわけかクリアしたものの、果たして(Iバードの水準に達するほ ど自身が賢明であるのか、全くわからなかった。    (Iバードからの「痛烈な評決」  大学入学後の第一週目、自分がどれほど賢いのかを知る機会が訪れた。  (Iバードでは講義を受ける前に、すべての新入生が英語の文章力測定試験を受けなければ ならない。これによって、新入生がどのレベルのライティングセミナーを履修すべきかが決定 される。合格すれば、通常のライティングコースを一学期間受講するだけでよい。不合格であ れば、初年度に一学期間の補習コースを履修する必要がある。ある上級生が、心配する必要は ないと私に言った。補習コースとは、運動部の推薦入学者や、英語が第五言語であるような留 学生のためのものだから、と。  課題が何であったかは忘れてしまったが、自分が何を書いたかは覚えている。「グッドー ウィルー『ンティング』の登場人物に関する分析であった。数日後、私の部屋のドアの下に封 筒が差し込まれていた。結果は、不合格。  (Iバードが嫌いになった。  私の知性が(Iバードの評価を受けたのは、これが初めてだった。そして陪審員は、痛烈な 評決を下したのである。「十分に賢明ではないという疑いに対し、評決を言い渡すI有罪」  これは、もはやインポスター症候群(自分を過小評価してしまう心理状態)などという生易 しい話ではない。私は本当の詐欺師だったのだ。その一方で、フットボールチームのクォー ターバックとして推薦入学した私のルームメイトは、合格していた。  どのような選択肢があるのかを知るため、私の試験を採点したライティングセンターの専門 家との面談に臨んだ。専門家たちはこう言った。最終的にどのコースを履修するかは学生白身 の判断に委ねるが、それでも私の場合には、補習コースを受講するのが賢明である、と。  最初の試験で不合格でありながらも通常のコースに進んだ学生たちは、Bマイナス以上の成 績を収めたためしがない。私の場合には、さらにリスクが高い、と専門家たちは私の小論文に 基づいて評価した。文章があまりにも不明瞭で体系化されていないため、補習コースを省略し て通常クラスに入ったとしたら、私はC程度の成績しか取れないであろう、と。しかし、それ もすべて私次第である、と。  迷った。成績平均評価を下げたくはない。書くことは好きだし、もっと上手くなりたい。そ の一方で、足止めを食うのは屈辱的だし、選択科目を自山に履修できなくなるのも嫌だった。  決断を下すためには、導き手(ガイド)が必要だった。しかし、私をよく知る人たちは(I バードのことを知らず、そして(Iバードの人々は私のことを全く知らなかった。その時、私 を面接した卒業生であり弁護士のジョンージーレックを思い出した。彼は災年(Iバードの入 学審査に関わっており、私のことを知ろうと多くの時間を費やしてくれた人物である。  その数力月前、私は新入生の歓迎会でジョンに再会した際、なぜ自分が選ばれたのかを尋ね た。彼は入学審査委員ではなかったため、明確な理由は知らなかった。しかし、私の出願書類 には記載されていなかったある一点を、彼は面接の報告書の中で強調したのだという。    「性格スキル」の力への、深い気づき  前年の秋に彼の法律事務所で行なわれた面接で、ジョンは私の興味や趣味について尋ねた。 「君は手品ができるようだね」と彼は言った。「得意な技は何だい?」。私はポケットに手を入 れ、出がけに放り込んだ小さな箱を取り出した。一組のトランプである。  「今、お見せしてもいいですか?」  ジョンは微笑んだ。私はカードを切りながら、これからトランプで何を行なうのかを説明し た。私が指定するカードが、不思議なことに次々とデッキの一番上に現われる。彼にカードの 束をカットしてもらった後でさえ、そうだった。  観客は通常、私がどうやったのかを最後に尋ねる。しかしジョンは、私がどのようにしてそ の技を習得したのかを知りたがった。私は、十二歳の時にテレビでマジシャンが演じているの を見て以来、練習を重ね、自己流のやり方を見つけ出したことを話した。  他のトランプを使っても同じ技ができるかとジョンは尋ねた。そして事務所の中を探し回り、 数分後に別の一組のトランプを持ってきた。私は他の技もいくつか披露した。本から学んだも のもあれば、自分で編み出したトリックもあった。  私が入学選考で有利となったのは手品そのもののおかげではない、と歓迎会でジョンは教え てくれた。独学で物事に取り組む積極的な姿勢と、彼のために即興で演技を披露した際に見せ た勇気がその理由だと。あれは私の初めての面接だった。面接では通常、ただ話をするだけだ と、私は知らなかったのである。そして組織心理学者となって初めて、あの時の手品が、実は 一種のワークサンプルであったことに気づいた。  なぜあの面接で私が彼の目に留まったのか、その理由をジョンは丁寧に説明してくれた。そ して、その説明を通して、彼は私に「性格スキル」がいかに重要であるかを教えてくれたのだ。 人の成功というものは、生まれ持った才能や能力だけで決まるものではない。むしろ、新しい ことを学び取ろうとする力、そして何よりも、それを成し遂げようとする強い意欲、そういっ た内面的な資質こそが、大の将来を大きく左右するのだ、と。   (Iバードの文章力測定試験で不合格となった時、大学は私が物書きとして失格であると宣 言したわけではない。私のI回きりの小論文を不合格としたに過ぎない。判定者は、私のすべ てを知っているわけではない。よし、自分の底力を見せてやろう、と私は思った。試験の落第 生から、クラスの優等生になってみせると決心した。  私は補習コースを省略し、通常のライティングコースに受講登録した。私は「スポンジ」に なった。不快感を受け入れ、教授や私の書いたものを読んでくれる人たちからの建設的な批判 を積極的に求めた。感謝祭の祝日にも実家へは帰らず、キャンパスに残って小論文を書き、修 正し、そしてまた書き直した。学期の終わりまでに、私は大きな進歩を遂げた。クラスでA評 価を得たのは私だけだったと、教授から褒められた。  (Iバードが好きになった。    自分の内にいる「マジシャン」を解き放つ  インポスター症候群はこう囁く。 「私に能力があるか、わからない。私の無能さを、近いうちに誰かが見つけ出すだろう」と。  成長型マインドセットはこう応える。 「私に能力があるか、まだわからない。しかし、近いうちに身につくだろう」と。  能力を身につける必要がある時、あなたを支えてくれるのは「足場」だ。  私はこの二十年間、ジョンージーレックに会っていないが、彼は、性格スキルの力について、 私に深い気づきをもたらしてくれた。この洞察が、私の足場かけにおける重要な柱となり、コ ンパスとなって、その後の進歩を導いてくれたのである。  顧みれば、もし当時、通常のコースを履修していなかったならば、私は今頃、物書きにも、 心理学者にもなっていなかったかもしれない。ライティングの授業では広範なトピックを扱っ ており、あの秋学期に、私は社会的な事象が個人や集団に及ぼす影響について考察する、後に 白分の専門にもつながる分野のテーマを選ぶことができた。  課題図書の一つにたまたま、心理学者であるロバートーチャルディーニの著作があった。そ こには非常に多くの驚くべき科学的証拠が示されており、私は夢中になって、他の科目での課 題のためにもう一度読み返した。これをきっかけに、心理学者への道を考えるようになった。 いつか彼のような本を書きたいと、夢見るようになった。  それから十年の歳月が流れ、かつて抱いた夢は日常の忙しさの中に埋もれ、いつしか忘れ 去ってしまった。大学教授という職を得てからは、今度は「教える」という、全く新しい課題 と向き合わねばならなかった。教壇に立つことへの不安感は、経験と共に何とか克服できるよ うになったものの、私の講義は依然としてどこかぎこちなかった。そんな私に、メンターだっ たジェーンーダットンが、ある時、核心を突く助言を与えてくれた。私の内にいるはずの「マ ジシャン」、すなわち聴衆を魅了し、驚きと発見を与える力を引き出すようにしてはどうかと。  それ以来、私の授業スタイルは一変した。単に知識を伝えるだけでなく、学生たちの常識を 揺るがすような最新の研究成果や、体験型の学習だからこそ味わえる意外な発見の喜びを、積 極的に取り入れるようにしたのである。記憶に深く刻まれるような授業を目指し、そして何よ りも、私白身が心からやりがいを感じられる研究に注力した。そうした川々を重ねるうちに、 ペンシルベニア大学ウォートン校から終身在職権(テニュア)という評価を得るに至った。  一つの山頂に到達したという実感を得て初めて、今度は他の人々がそれぞれの頂を目指すの を力強く後押ししたい、という新たな思いが芽生えてきた。そして、自分がこれまでに学び得 た貴重な知識や洞察を、大学の授業や専門的な学術誌といった枠を超えて、もっと広く、学生 や研究者以外の人々と分かち合うべきだと、強く感じるようになったのである。    十万語の「失敗」から生まれたもの  それから数週間後のこと、あるメンターが連絡をくれた。彼が新たに取り組むインセンティ ブ(動機づけの要因)に関する書籍の執筆において、長年動機づけを研究してきた私に、共同 執筆者として参加しないか、という思いがけない誘いであった。誘ってくれたのは、私か常に 目標としてきた、尊敬すべき研究者の一人である。私は光栄に思い、そのような機会に恵まれ て興奮していることを学生たちに話した。ところが、彼らは猛反対した。  「もし本を書くのであれば、あなた自身のアイデアから始めるべきです! 最悪の成功とは、 他人の目標を達成することです。私たちにそう教えたのは、先生ではありませんか? 他人の 夢を生きてはいけない、と」  学生たちは正しかった。そうして私は、白分自身の本を書こうと決意した。  多くの同僚が絶賛していたリチャードーパインという出版エージェントを頼ることにした。 六月、何力月もアイデアを温めた後、そろそろ草稿を書いて出版社に売り込むべきであると彼 に促された。テーマについて数年もかけて研究していたため、多くのアイデアが一気に縊れ出 た。八月、私は十万三千九百十四語の原稿をリチャードに送った。たったニカ月間で、一冊分 の草稿を書き上げたのである。  リチャードの反応を聞くのが待ち遠しかった。内容が学術的すぎると、彼はやんわりと感想 を述べた。実のところ、これは控えめな表現だった。私の草稿は、途方もなく退屈なものだっ たのだ。率直に言えば、「ページが進まない」。あまりにも科学的で複雑になりすぎて、私の同 僚研究者たちでさえも居眠りしそうな内容になっていたのだ。もっと大局的に考え、初めから 書き直せばいいと、リチャードは励ましてくれた。  その時、虚脱感、停滞感が現われた。  私は行き詰まった。どこから手をつければよいのか、果たしてやり遂げることができるのか さえもわからなかった。またしてもインポスター症候群に陥り、極度の白己否定感に襲われた。 本を書こうなどと、なぜそんな馬鹿なことを思いついたのか。私の見解を読みたい人間など、 いるわけがないではないか。リチャードは評価者からコーチへと変わり、自身を疑うことをや めるよう私に言った。「もちろん君にはできる! 学術論文を書くようにではなく、人々に教 えるように書けばいいんだ」  私は彼を信頼していた。リチャードは敏腕エージェントというだけでなく、素晴らしいメン ターであり、私を正しい道へと導いてくれた。私は十万二千語を削り(つまり、救出する価値 があったのはわずか四ページ分であった)、初めての自著となる原稿を書き上げた。それ以来、 「授業で教えるように書く」ことは、私のコンパスとなっている。この導きによって、今あな たが興味を持って読んでくれている本書が完成した。本書があなたをがっかりさせないことを 願っている。  近年、自分のことを過小評価してしまうインポスター症候群とは、一つのパラドックスであ ると、私は気づいた。 ・他の人々はあなたを信じている。 ・あなたは自分自身を信じていない。 ・にもかかわらず、あなたは他の誰よりも自分自身を信じている(自分は駄目だと信じ込んで  いる)。  もし自身を疑うのであれば、己を過小評価しているその自分自身をも、疑ってみるべきでは ないだろうか。  インポスター症候群とは、内に可能性を秘めていることの証であると、私は考えるように なった。他の人々が自分を過大評価しているように感じても、実はあなたが自分自身を過小評 価している可能性が高いのだ。自分にはまだ見えていなくても、他の人々はあなたの伸び代に 気づいている。複数の人間があなたを信じているならば、その人たちを信じるべきだろう。  私たちは皆、何らかの形で「ゴールに到達したい」と願う。そして多くの場合、その進み具 合を、築き上げた社会的地位や、手にした名声といったもので測ろうとする。だが、本当に価 値のある進歩とは、そうした外面的な物差しでは測りきれないものだ。人生で最も大きな意味 を持つ成長とは、輝かしいキャリアを築くことよりも、むしろ、自身の人間性、人格そのもの を豊かに磨き上げていくことなのである。  本当の意味での成功とは、目標を達成したという事実そのものよりも、むしろ、自分の価値 観を貫いて生きることにある。日々、昨日より少しでも成長しようと、ひたむきに努力し続け るその情熱こそが、何よりも尊い。そして、自分自身の中に秘められた、まだ見ぬ可能性の扉 を開き、それを存分に羽ばたかせること以上に素晴らしい成果など、この世には存在しないの である。 監訳者解説 誰もが自分の未来を切り開けるI 普遍にして不変の本質を見極める                                 楠木建  処女作の『GIVE o3 TAKE』、『○RIGINA』S」、コ”HINK AGAIN!に続き、著者であるアダ ムーグラントの本の監訳をしてきた。本書「X日しmZtO、冨ZI冫こは4冊目になる。  著者は組織心理学者。(1)誰もが関心を持つ普遍的なテーマを取り上げ、(2)概念を明確 に定義し、(3)広範な心理学の研究成果を総動員しつつも、(4)豊富なエピソードに基づい て論理をわかりやすく例示し、(5)言われてみれば当たり前の(しかし言われなければ気づ かない)結論に帰着するI前三作に共通の美点は本書にも受け継がれている。    「後天的な天才」のメカニズム  誰もが内に可能性を秘めている。それをいかにして解き放つかI本書の中心的なテーマだ。  学校の成績がずぱ抜けて優秀な子どもや、幼い頃からスポーツで並外れた才能を示す子ども、 早くから音楽の才能を開花させる子どもがいる。彼らは天才や神童として特別視されがちだ。 しかし、「才能とは努力の産物ではなく、生まれながらにして備わっている特別なものだ」と いう考え方は思い込みに過ぎない、と著者は言う。  音楽や芸術、科学、スポーツの分野で、ずば抜けた成功を収めた人々を対象に調査した心理 学の研究成果は、偉大な成功を収めた人々のうち、幼い頃から神童と認知されていたのはごく 一握りの例外に過ぎないことを明らかにしている。誰かが習得できるものは、他の人間にも習 得できる。ただし、そのためには適切な学習の条件が整っている必要がある。違いを生み出す 要因は、一見すると先天的な能力のように思えるが、実際は適切な機会や意欲、向上心である ことが多い。    ある人の出発点だけを見て、その人物が最終的にどこまで到達できるかを予測すること   はできない。学ぶ機会を与えられ、学ぶ意欲をしっかりと持ち続ければ、たとえ実現不可   能に思えるような高い目標であっても、達成することは誰にでも可能なのである。    潜在能力を判断する際に真に重要なのは、持って生まれた明白な才能の有無ではなく、   その人がどれほど進歩し得るか、という点なのである。私たちは、出発点というI点にば   かり目を向けるのではなく、ゴールへ至るまでの長く険しい道のりそのものにこそ、注目   する必要がある。(中略)    彼らが持つ才能のほとんどは、あたかも丹精込めて作物を育てるように、あるいは手づ   くりの品をこしらえるように、日々、地道な努力と経験を重ねることによって、自らの手   で育み、形づくっていくものなのである。大きな進歩を遂げる人間が、最初から完成され   た天才であることは極めて稀で。大半は、たゆまぬ努力によってつくられた、いわば「後   天的な天才」なのだ。  だとしたら、どのようにすれば私たちの誰もが高い目標を達成できるのか。その具体的な筋 道と背後にある論理を明らかにすることが本書の目的だ。    性格スキルー困難な局面を乗り越えるカ  アリストテレスに代表される哲学では、自制心や他者への配慮といった人間性(人格)は、 その人の意志の力を通じて習得されるものだと考えていた。しかし、心理学の研究の蓄積は、 性格や人間性が意志の強さの問題ではなく、むしろ習得し向上させることが可能なスキルであ ることを明らかにしている。性格(character)はその人の意志や道徳的な信条ではなく、後 天的に獲得できるある種の能力であり、磨き上げていくべきものなのだ。この「性格スキル」 −「向上する」ための方法を、向上させるIという概念が本書の議論の中核にある。  本書で紹介している西アフリカでの実験の結果が興味深い。対象となったのは小規模なス タートアップを経営する千五百人の起業家たち。この実験では彼らを無作為にEつのグループ に分けた。第一グループは特に何もせず通常通り業務を続けた。第ニグループは「認知スキ ル」のトレーニングを受けた。金融、会計、人事、マーケティングといった知識を習得し、そ れらを駆使して問題を解決するための実践的な演習に取り組んだ。これに対して、第三グルー プが受けたのは「性格スキル」のトレーニングだった。心理学者が開発した個人の主体性に焦 点を当てたコースを受講、積極性や自己統制力といった資質について深く考察し、それらを実 際の事業にどう活かすかを学んだ。  実験の結果は驚くべきものだった。性格スキル向上プログラムに取り組んだ起業家たちは、 その後二年間の事業利益が平均して三〇パーセントも増加した。これは認知スキルのトレーニ ングを受けたグループの約三倍に当たる。なぜか。認知スキルのトレーニングを受けた起業家 たちが既存のチャンスを掴んで利益を伸ばしたのに対し、内面を鍛えた起業家たちは自らチャ ンスを創り出す能力を身につけたからだ。市場の変化を待って対応するのではなく、変化を先 読みし、革新的なアイデアを生み出し、困難に直面しても簡単に諦めず、巧みに資金を調達し ていた。  しかも、この実験の対象となった起業家の年齢は三十代から五十代と幅広かった。この実験 結果は、性格スキルは年齢に関係なく何歳からでも伸ばすことができることを示唆している。  著者は性格と個性(personality)は本質的に異なるとしている。個性とはその大が生まれ 持った気質や物事に対する反応の傾向であり、比較的変わりにくい。考え方、感じ方、行動の スタイルといったその大に固有の「色合い」のようなものとして現われるのが個性だ。一方、 本書の主題である性格は、その人の人間的な器の大きさや精神的な深みを指している。その場 の感情に流されることなく、困難な状況でも粘り強く行動し続ける「心の力」だ。  確固たる信条を持っていても、常にそれに基づいて行動できるとは隕らない。すべてが順調 に進んでいる状況なら積極的に行動するのは容易だが、ストレスやプレッシャーを感じている 時は難しい。その大の性格スキルは不利な状況に置かれた時に試される。ごく普通の日常生活 における振る舞いがその人の個性であるならば、困難な局面を乗り越える力は性格スキルにか かっている。    不快感を受け入れる  学習のプロセスには必然的に不安や不快感が伴う。そうしたネガティブな感情に自らを意図 的に慣らしていかなければならない。例えば、多くの人々は先延ばしを単なる怠惰の問題とし て片づけてしまう。しかし、心理学の知見によれば、先延ばしは時間管理能力の欠如が原閃で はない。自らの心の管理ができないことに真の問題がある。何かを先延ばしにするのは、努力 そのものを回避するからではない。回避しているのは、その活動に伴う不快な感情のほうだ。 先延ばしをしている限り、口標達成は望めない。不快感を受け入れ、探し求め、さらには意図 的に増幅させるIこの資質が性格スキルの中でもとりわけ重要な意味を持つ。そのためには 三つの勇気が必要になる。  第一に、「自分にとって最適」だと信じ込んでいる方法を捨てる勇気。自分にとって快適な 学習方法が学習効果を高めるとは隕らない。むしろ不快で不得手と感じる学習方法によって、 よりよい結果が得られることがある。居心地の悪い状況こそ、より一屑の努力を促すからだ。 不快感を受け入れ、慣れ親しんだスタイルを手放すことが学習と成長の起点になる。  第二に、自分の心の準備が整う前に、挑戦の場に飛び込む勇気。練習を重ね、スキルを習得 して初めて安心感を得られる。しかし、スキル習得前の練習過程は不安と不快感を伴う。だか ら、人は練習を回避しようとする。このジレンマを乗り越えるためには、挑戦の場に自ら飛び 込み、意図的に居心地の悪い経験をすることが大切になる。  第三に、誰よりも多くの失敗を経験する勇気。例として、著者は外国語の習得を挙げている。 コミュニケーションとは膨大な知識を得てから始めるべきものではない。コミュニケーション の過程でこそ知識が獲得できる。だとしたら、会話を始めるのにどれほどの知識が必要なのか。 初日から臆せず人々に話しかけるのが一番よい。文を一つ二つ覚えるだけでいい。短い自己紹 介をして、なぜその言語を学んでいるのかを簡単に説明するだけでいい。もちろん、うまくい かない。しかし、失敗の数が多ければ多いほど失敗への恐れは薄れ、進歩は速まる。数多くの 失敗を経験することこそ、不安に対処する最善の方法となる。  −僕にとっては耳が痛い話だ。本書を読むまでは、自分にとって快適な方法でないと、 「向上する」ための方法を向上させることはできないと思い込んでいた。しかし、改めてわれ と我が身を振り返ってみれば、思い当たるフシがないでもない。  僕は一九九二年から一橋大学で教え始めた。学部(一年生から四年生まで)と研究者を養成 する大学院で八年間教えた後、二〇〇〇年に新設されたビジネススクールに移籍した。学会な どでの研究発表は別にして、それまで講義はほとんどすべて日本語で行なっていた。しかし、 僕が移ったビジネススクールは「国際企業戦略研究科」というインターナショナルMBAプロ グラムで、講義はもちろん、フアカルティ(教授陣)のミーティングもすべて英語たった。  これがどうにも苦痛だった。英語ネイティブの人のようには流暢ではないにせよ、英語が話 せないということはない。二時間の講義を英語でするのは何とかなる。しかし、毎度の講義で フラストレーションがたまっていった。というのは、僕は日本語を使うのがわりと上手いから だ。日本語での講義を百とすると、英語では七十ぐらいしか言いたいことが伝えられない。学 生との臨機応変な議論になると、講義の質は半分程度に劣化した。僕にとって、明らかに「居 心地の悪い状態」たった。  それから二十五年以上が経過した。今でも一橋ビジネススクールでは、英語でのみ教えてい る。いまだにたいして英語はうまくならない。不快感は残っている。  しかし、よいこともあった。日本語であればこちらの理解に曖昧なところが残っていても、 言葉が自然に流れて何とかなる。ところが、不自由な英語で講義をしなければならなくなると、 自分が教えようとすることの中身を完全にわかっていないと、言葉にできない。言葉にできな ければ伝わらない。学生に伝わらなければ仕事にならない。居心地の悪い環境に身を置いたこ とで、日本語で教えている時よりも深く考え、はっきりと言語化する癖がついたように思う。  『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)という本を書く時、(少なくとも自分の頭 では)はっきりとわかっていることだけを書くという方針を貫いた。この本は日本語で書かれ ているけれども、ビジネススクールでの講義の中身がベースになっている。今にして思う。こ の講義が英語でなかったら、『ストーリーとしての競争戦略』はできなかっただろう。    不完全主義者・安藤忠雄  不快感を受け入れるのは僕にとって難題だが、「完璧主義は性格スキルにとってむしろネガ ティブに作用する」という本書の主張は、頭でも体でも理解できる。僕の体質もあるのかもし れないが、これまでの自分の経験からしても、完璧主義はかえって仕事の質を下げる。  なぜか。この論理を説明するために、著者は安藤忠雄に注目する。ミニマリズムの先駆者。 自然光とコンクリートを融合させる。自然を引き立てる堅牢な構造が、俳句のような凝縮され た効果を生み出す。安藤忠雄は日本の誇る建築の巨匠だ。  「優れた建築の条件はその完璧さにある」というのは素人談義だ。人の美的感性に訴えかける 傑作を創造するには、確かに細部に至るまで徹底的にこだわり抜く必要がある。しかし、妥協 なきクオリティを実現するために、本当の建築家は時として妥協をいとわない。この点におい て傑出しているのが安藤忠雄だという。彼が限られた予算と空間を最大限に活かすことができ るのは、完璧主義を断固として拒否しているからに他ならない。  何について究極を追求し、何について妥協し、どの水準でこれで充分だと判断するかIこ の微妙な塩梅を見極めるのがプロの建築家の能力だ。利便性よりも耐久性や意匠を優先する。 形態については禁欲的なまでに細部にこだわる一方、機能を絶対視しない。安藤は「完成され た不完全主義者」であり、ここに安藤の独自のスタイルがある。  安藤が手がけた初期の代表作に「住吉の長屋」がある。五七平方メートルという狭小地であ る以上、完璧を追求しても実現は不可能だ。何かの根本的な要素を犠牲にせざるを得ない。安 藤が創ったのは、外壁に窓を持たないコンクリートの箱だった。中央には屋根のない中庭。採 光はそこからのみ得られる構造となっている。居間から寝室に移動するには、屋根のない中庭 を通過しなければならない。つまり雨の日は家の中で傘をさす必要がある。最低限の通風、採 光、口照を確保した上で、機能性の問題は居住者の工夫に委ねよう、と安藤は考えた。  住吉の長屋はシンプルでありながら洗練された空間を、都市の喧騒の真っ只中に創造した。 外壁に窓を設けないことで、住まいを都市の雑踏から隔離し、中庭を置くことで自然の素朴な 美しさを取り込んだ。利便性の欠如にもかかわらず、むしろ、欠如があるからこそ、住吉の長 屋は著名な建築賞を受賞し、安藤の名を世に知らしめた。  成長するにつれて、白身のどの欠点を受容するべきかを見極められるようになる。自制心を もって達成不可能な理想から達成可能な基準へと自分の意識を転換させる。ここに性格スキル の重要な内実がある。  欠点ゼロ、誤謬ゼロ、欠陥ゼロ、失敗ゼロー完璧主義者は文字通り一分の隙もない状態を 目指して努力する。完璧主義はアメリカやイギリス、カナダで拡大しているという。激化する 競争社会の中で、子どもたちは完璧さを求める親のプレッシャーにさらされている。その傾向 を「完璧な自分」を演出するソーシャルメディアが助長する。欠点の不在こそが白分の価値だ と考えるようになる。逆に、欠点や失敗がすぐに自己肯定感を打ち砕いてしまう。  実証研究でも、完璧主義と職場での業績との間の相関は認められない。完璧主義者は既知の 問題を解くことには長けている。しかし、現実の世界は試験問題のように正誤で割り切れるも のではない。学校の試験のような予測可能で制御された環境から離れた瞬問、唯一の正しい答 えを見出したいという欲求がかえって混乱を招く。高校や大学時代に彼らを駆動した執念は、 実社会においては必ずしも有効に機能しない。  完璧主義者は、些末な細部に過剰に固執する。取るに足らない問題の解決に没頭するあまり、 本質的な課題を見過ごしてしまう。「木を見て森を見ず」だ。失敗を恐れるあまり、困難な課 題や未知の状況を回避する傾向がある。だから、既存のスキルは磨かれても、新たな能力の獲 得が進まない。失敗するたびに自分自身を過度に非難するため、失敗から建設的に学べなくな る卜本書を読んで、僕の生来の不完全主義(それは安藤忠雄のような完成されたものではな く、多分に自分の怠惰に山来するのであるが)を論理で襲づけることができて、すっきりした 気分になった。    自らを語る  様々な人物のエピソードを例示しながら概念や理論を説明していくのが著者のスタイルだが、 これまでの三冊と比べて、著者が自分白身の経験や変遷をより多く語っているのが本書の特徴 だ。「不完全さの中に美を見出すことは、決して容易ではない。完璧主義を乗り越えてきた私 には、それが痛いほどわかるのである」上兀璧主義の陥穽について論じる章でも、著者自身 がかつては完璧主義に囚われていたことを告白している。  エピローグで、著者は本書を書く過程での迷いについても率直に吐露している。人が内に秘 めた可能性をテーマに本を書いている、と周囲に打ち明けると、決まって「夢を実現するため の「ウツー本なのか?」という反応が返ってきたという。当初はストレートに「夢」という言 葉を使って語ることを著者はためらっていた。実証的な研究を重んじる社会科学者が用いるに はあまりに情緒的で、大げさで、陳腐に聞こえるのでは、と危惧したからだ。  しかし、これまでの研究蓄積を渉猟した著者は、大きな夢を持つ人間ほど高い目標を達成で きるという因果関係を確信するに至った。そして、著者は気づいた。自分自身が夢を持ってい たからこそ、またその実現のために手を差し伸べてくれる人々がいたからこそ、本書が生まれ たということを。  著者は「アンビション」と「アスピレーション」を明確に区別する。前者は名声や権力への 野心であり、「あなたが望む結果を獲得すること」を意味する。これに対して後者は、成し遂 げたいことそのものに対する強い願望や向上心であり、「あなたが望む人物になること」だ。 どれほどの富を築くか、どれほどの肩書きを得るかは、本質的な問題ではない。アンビション は必ずしも内面的な向上を促さない。安藤忠雄もこう言っている。  「まわりからの評価が、私の主要な原動力ではありません」  「己を満足させたい、自らに挑戦したいという欲望が私を突き動かしているのです」    私たちは皆、何らかの形で「ゴールに到達したい」と願う。そして多くの場合、その進   み具合を、築き上げた社会的地位や、手にした名声といったもので測ろうとする。だが、   本当に価値のある進歩とは、そうした外面的な物差しでは測リきれないものだ。人生で最   も大きな意味を持つ成長とは。輝かしいキャリアを築くことよりも、むしろ、自身の人間   性、人格そのものを豊かに磨き上げていく「」となのである。    本当の意味での成功とは、目標を達成したという事実そのものよりも、むしろ、自分の   価値観を貫いて生きることにある。日々、昨日より少しでも成長しようと、ひたむきに努   力し続けるその情熱こそが、何よりも尊い。そして、自分自身の中に秘められた、まだ見   ぬ可能性の扉を開き、それを存分に羽ばたかせること以上に素晴らしい成果など、この世   には存在しないのである。  最初の著作『9VE ≪3 TAKE』の頃の著者の筆致はひたすらストレートで、新進気鋭の秀才 の観があった。ともすればアンビションに傾くこともあったかもしれない。大きく一周回って、 普遍にして不変の本質に回帰する。本書は、成熟した著者のアスピレーションの結実といって よい。